小林稔「一瞬と永遠」、浅見恵子「狂々」(「現代詩手帖」2018年12月号)
小林稔「一瞬と永遠」(初出『一瞬と永遠』8月)。いろいろ考えているうちに、この詩集の感想も書かずに置いてある。「現代詩手帖」のアンソロジーには「一、パリス、ノスタルジアの階梯」ともう一篇が収録されている。
ギリシアをどう読むか。他の人のギリシアに関することばを読むと、違和感を覚える。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という思考でギリシアを見ていないか、と思ってしまう。精神と肉体、という「二元論」で見ていないか。
「形姿」と「魂」、「似像」と「精神」。この対比が、私にはわからない。何度か書いたことがあるが「魂」ということばの前で、私は途方に暮れる。私は「魂」の存在を知らない。理解できない。読むと、そこに「対比」があることがわかるが、それはあくまで「頭」でわかっているつもりになっているだけで、私には「現実味」がない。「数学」の数式を読んでいるような感じで、「具体的なもの」が見えてこない。
「似像」は「神の似像」と書かれている。この時の「似」は「似ている」というより「似させた」だろう。「像」は人間がつくったもの。そうであるなら「似させて」つくった像ということだろう。「似させる」という「動詞」のなかに人間がいる。こういう「動詞」に触れたときに、人間にどういうことが起きるのだろうか。私の場合は、どうしても「肉体」が動く。私にはこういうものをつくれない、と思う。同時に、その像をつくった人間の「肉体」を感じ、「人間がいる」と感じる。私の「肉体」がそう判断する。「精神」は動かない。
でも、小林は「精神」を動かしている。「精神の羽搏き」を感じている。このときの「精神の羽搏き」というのは、小林の精神ではなく、その像をつくった人の「精神の羽搏き」ということだろうが、それを感じることができるのは、同じように小林の精神が羽ばたいているからだろう。
私は、そういうことを感じられない。
「神」というのものも、どうも、よくわからない。ギリシアの「神」は「人間の欲望」そのものに思える。人間の行動の「典型」を純粋化したものに思える。「精神」ということばは、どうもぴんとこない。「精神」というのは、キリスト教の「神」が出現したあとのものではないのだろうか。「新約聖書」を読むと、キリストは確かに存在した。目撃証言が微妙に違うのは、キリストが存在し、キリストに出会ったひとがことばを動かしているからだ、ということはわかるが、キリストが神、あるいは神の子であるかどうかは、私にはわからない。「新約聖書」の登場人物は、キリストがいたと語ること、その行動を語ることで、「精神」を語り継ごうとしている。デカルトの「我」というのもキリスト教の「神」と向き合っている。そして、そのとき「肉体」は脇に置かれている、と感じる。「肉体」と「精神」の分離というのはキリスト教によって始まって、デカルトが追認したというように思える。あるいはデカルトによって、より洗練された(?)という感じかなあ。
私の感想なんて、あくまで感想で、いい加減なものなんだけれど。
どういえはいいのかよくわからないが、小林の書いていることは「ことばの運動」としては完結しているが、そのことばの運動の中に私は積極的に入っていくことができない。「肉体」が入っていかない。「頭」だけがことばを追い掛けて読んでいる気持ちになる。どう整理すれば、私のことばが動くのか、よく分からない。だから、こうやって、くだくぐとことばをつないでいるのだけれど。
私の「肉体」のなかに、ごちゃごちゃ整理されないまま動いているものがあり、それが整うまでは小林の詩について感想を書くのはむずかしい。
*
浅見恵子「狂々」(初出『星座の骨』、9月)はおもしろい。
では、流れているの何? 私は即座に「肉体」だと反応する。このとき浅見は「花」になり「土」になり、「生えて」「溢れて」「流れ」ている。つまり、「ひとつ」の形ではない。瞬時に変形し、瞬時に「ひとつ」のものから「複数」のものになっている。「花即土/土即花」という固く結びついた「変化」そのものが「浅見の肉体」なのだ。
浅見の「肉体」から「目」が飛び出していく。花をつかまえる。土をつかまえる。浅見の肉体がつかまえたものが浅見なのだ。
「花」になって、「土」になって、浅見は感じる。
地面に転がって、浅見は「春」そのものになる。そのとき「肉体」は「花」のような美しいものだけではなく、「ミミズ」や「芋虫」も含む。「吐息(息を吐く)」「排泄(排泄する/糞をする)」ということを浅見は浅見の「肉体」で追認することができる。
最後の「許しなく」がとてもいい。
こんな無軌道な「変身」(自己拡張)を「許している」のは誰? 浅見の「精神」? ああ、そんな面倒くさいものは、生きている世界には存在しない。「肉体」は「精神」の許可など求めたりはしない。自分の好き勝手にやる。それが「肉体」の喜びである。「精神」なんていうものは、「他人への配慮」にすぎない。
ギリシアの神は「他人への背理」なんかしない。自分の思うがまま。「肉体」が命じるままに動く。「わがまま=精神」、「肉体=精神」がギリシアだと思う。そのイコールは、けっして分離できない。
小林の詩よりも、浅見の詩の方に、私はギリシアを感じる。
*
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小林稔「一瞬と永遠」(初出『一瞬と永遠』8月)。いろいろ考えているうちに、この詩集の感想も書かずに置いてある。「現代詩手帖」のアンソロジーには「一、パリス、ノスタルジアの階梯」ともう一篇が収録されている。
ギリシアをどう読むか。他の人のギリシアに関することばを読むと、違和感を覚える。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という思考でギリシアを見ていないか、と思ってしまう。精神と肉体、という「二元論」で見ていないか。
少年たちの美しい形姿に似つかわ
しい魂を注ぐため、ノスタルジアの階梯をかつてわたしは
昇りつめたが、わたしは彼らに何を与え何を授かったので
あろうか。神象の視線は正面から捉えられ、一瞬の姿を永
遠の形相に変貌させた神の似像をまえに、わたしは精神の
羽搏きを感じて、しばらく立ち去ることを忘れた。
「形姿」と「魂」、「似像」と「精神」。この対比が、私にはわからない。何度か書いたことがあるが「魂」ということばの前で、私は途方に暮れる。私は「魂」の存在を知らない。理解できない。読むと、そこに「対比」があることがわかるが、それはあくまで「頭」でわかっているつもりになっているだけで、私には「現実味」がない。「数学」の数式を読んでいるような感じで、「具体的なもの」が見えてこない。
「似像」は「神の似像」と書かれている。この時の「似」は「似ている」というより「似させた」だろう。「像」は人間がつくったもの。そうであるなら「似させて」つくった像ということだろう。「似させる」という「動詞」のなかに人間がいる。こういう「動詞」に触れたときに、人間にどういうことが起きるのだろうか。私の場合は、どうしても「肉体」が動く。私にはこういうものをつくれない、と思う。同時に、その像をつくった人間の「肉体」を感じ、「人間がいる」と感じる。私の「肉体」がそう判断する。「精神」は動かない。
でも、小林は「精神」を動かしている。「精神の羽搏き」を感じている。このときの「精神の羽搏き」というのは、小林の精神ではなく、その像をつくった人の「精神の羽搏き」ということだろうが、それを感じることができるのは、同じように小林の精神が羽ばたいているからだろう。
私は、そういうことを感じられない。
「神」というのものも、どうも、よくわからない。ギリシアの「神」は「人間の欲望」そのものに思える。人間の行動の「典型」を純粋化したものに思える。「精神」ということばは、どうもぴんとこない。「精神」というのは、キリスト教の「神」が出現したあとのものではないのだろうか。「新約聖書」を読むと、キリストは確かに存在した。目撃証言が微妙に違うのは、キリストが存在し、キリストに出会ったひとがことばを動かしているからだ、ということはわかるが、キリストが神、あるいは神の子であるかどうかは、私にはわからない。「新約聖書」の登場人物は、キリストがいたと語ること、その行動を語ることで、「精神」を語り継ごうとしている。デカルトの「我」というのもキリスト教の「神」と向き合っている。そして、そのとき「肉体」は脇に置かれている、と感じる。「肉体」と「精神」の分離というのはキリスト教によって始まって、デカルトが追認したというように思える。あるいはデカルトによって、より洗練された(?)という感じかなあ。
私の感想なんて、あくまで感想で、いい加減なものなんだけれど。
どういえはいいのかよくわからないが、小林の書いていることは「ことばの運動」としては完結しているが、そのことばの運動の中に私は積極的に入っていくことができない。「肉体」が入っていかない。「頭」だけがことばを追い掛けて読んでいる気持ちになる。どう整理すれば、私のことばが動くのか、よく分からない。だから、こうやって、くだくぐとことばをつないでいるのだけれど。
私の「肉体」のなかに、ごちゃごちゃ整理されないまま動いているものがあり、それが整うまでは小林の詩について感想を書くのはむずかしい。
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浅見恵子「狂々」(初出『星座の骨』、9月)はおもしろい。
花という花から毛が生えて
土という土から溢れている
流れるそれは
すでに香りではない
では、流れているの何? 私は即座に「肉体」だと反応する。このとき浅見は「花」になり「土」になり、「生えて」「溢れて」「流れ」ている。つまり、「ひとつ」の形ではない。瞬時に変形し、瞬時に「ひとつ」のものから「複数」のものになっている。「花即土/土即花」という固く結びついた「変化」そのものが「浅見の肉体」なのだ。
浅見の「肉体」から「目」が飛び出していく。花をつかまえる。土をつかまえる。浅見の肉体がつかまえたものが浅見なのだ。
「花」になって、「土」になって、浅見は感じる。
肉の内側から肉がにじみ
虫によって運ばれる
花粉の油
泥水の腐り
ミミズの吐息
芋虫の排泄
土壌から湧きだし
皮膚から入りこむ
ぬめったニオイに包まれ
雉や雲雀が
耕された畑の土手で
浮かされていることにも
気づかないまま
ひとり転がった地面の
花という花から毛が生える
土という土から春が溢れている
わたしの許しなく
地面に転がって、浅見は「春」そのものになる。そのとき「肉体」は「花」のような美しいものだけではなく、「ミミズ」や「芋虫」も含む。「吐息(息を吐く)」「排泄(排泄する/糞をする)」ということを浅見は浅見の「肉体」で追認することができる。
最後の「許しなく」がとてもいい。
こんな無軌道な「変身」(自己拡張)を「許している」のは誰? 浅見の「精神」? ああ、そんな面倒くさいものは、生きている世界には存在しない。「肉体」は「精神」の許可など求めたりはしない。自分の好き勝手にやる。それが「肉体」の喜びである。「精神」なんていうものは、「他人への配慮」にすぎない。
ギリシアの神は「他人への背理」なんかしない。自分の思うがまま。「肉体」が命じるままに動く。「わがまま=精神」、「肉体=精神」がギリシアだと思う。そのイコールは、けっして分離できない。
小林の詩よりも、浅見の詩の方に、私はギリシアを感じる。
*
「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
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ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」10・11月の詩の批評を一冊にまとめました。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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