「藤田嗣治と彼が愛した布たち」(2020年11月20日、福岡市美術館)
藤田嗣治は「白い肌」とともにバックの布の細密な描写、あるいは着ているドレスの写真と見紛う描写が有名である。
私は藤田の「白い肌」があまり好きではない。白すぎて人間味がない。まるで色を抜かれてしまったような感じがする。それに比べると、布は異様なくらい、生きている。
「タピストリーと裸婦」(1923年)は背景のタピストリーがとてもおもしろい。たたみ皺がなまなましく描かれている。そのたたみ皺が浮かびあがらせる布の柔らかさと強さに私は引きつけられてしまう。藤田は裸婦よりも、このたたみ皺(布)を描きたかったのではないのか、と思えてくる。
布はいつでも広げられているとはかぎらない。たたんでしまわれていることがある。つかうときになってそれを広げる。そこにはたたんだときにできた皺が残っている。この皺の感じは、たとえばシーツの、それをつかったためにできる不規則な皺と違ってある一定の規則性がある。そして、そのたたみ皺は、きちんとたたんでおかないとこんなに美しい形ではあらわれない、という不思議な一面を持っている。
「タピストリーと裸婦」では、その規則性と、シーツの乱れが同時に描かれているので、規則性のもつ不思議な「色気」のようなものが強調されることになる。抑制されていたものが解放されるとき、そこにまだ残っている抑制の名残。きちんとたたんできたものだけが持っている不思議な初々しさ。たたむとき、布の目にあわせてたたまないと、こんなに美しくならない。広げるときも、きっと手順をまもって丁寧に広げるのだと思う。たわめる、たわむ。そこには暴力があるはずなのに、暴力を感じさせない。なんといえばいいのか、不思議な反発力と抑圧がせめぎ合っている。
裸婦の陰影も、藤田にとっては、このたたみ皺のようなもの、抑圧と解放のせめぎあう場なのだろうか。よくわからない。私は、裸婦よりも、バックにつるされた布(タピストリー)のたたみ皺のように欲情してしまう。触りたくなる。触って、本物かどうか確かめたくなる。絵だとわかっていても。裸婦の肌をはいまわる執拗な陰影に、一種の暴力のようなものを感じるが、それは裸婦自身が発する生命力というよりも、藤田の視線の力である。藤田の絵筆によって、布は生き始めるが、裸婦の肌は死に始める、という感じがする。私は、そこに描かれているものが「絵」なのに生きて動き始める、ということが感じられるものが好きなのだ。
「自画像」(1929年)のシャツも奇妙だ。シャツの形に閉じこめられた布が、肉体の動きを借りて別なものになろうとしているように見える。シャツの下には「肉体」があるはずなのだが、「肉体」をほうりだして、シャツが生き始めようともがいているようにも見える。筆をもつ手も、藤田の目も、そしてそのそばにいる猫の目も動かない。シャツだけが動こうとしている。あ、背景に描かれている女の横顔、髪も動こうとしている。そしてなによりも不思議なのは、その「絵の中の絵」の方が、私には藤田の「自画像」よりも魅力的に見えることだ。「裸婦」では「死んでいる」と感じる「肌」が絵の中の絵の、その女の首筋、顎の影では「生きている」と感じる。タペストリーに触ってみたいと感じたように、この絵の中の絵の女の横顔(首筋や顎)には触ってみたいと思う。藤田の来ているシャツ(その布)にも触ってみたいと思う。でも、藤田の「肉体」には触ってみたい、という気持ちは起きない。
そういうことを思った後で、展覧会そのものを思い出してみると「藤田嗣治と彼が愛した布たち」と絵だけではなく、「布」にも焦点を当てていることの「意味」のようなものもわかる。もしかすると、タイトルに導かれるようにして、私は藤田の絵を見たのかもしれないが、藤田が「布」に執着していたこと、愛していたことが非常によくつたわってくる企画展だった。藤田がつくった服や裁縫道具も展示されている。
藤田は「裁縫」が得意なのだ。布に親しんでいる。ミシンをつかうだけではなく、手でも縫う。自分の着るものをデザインし、手作りしている。それは「着る」というよりも「布を生かす」という感じがする。画家ではなく、ファッションデザイナーとし生きていれば、どんなふうになっただろうかというようなことをふと思った。布そのものが美しい形をもとめて歩きだすという感じのファッションが生まれていたのではないだろうか。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487
(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com