颯木あやこ『七番目の鉱石』(思潮社、2015年08月30日発行)
颯木あやこ『七番目の鉱石』に登場する「わたし(私)」は少し変わっている。「雨だれ」という作品がいちばん印象的だが、説明の都合で「音の梯子」という作品について先に触れる。
ここでは「主語」が「狼」。そして「私」は「私の」という「所有格」で出てくるだけで、「主語」にはなっていない。「私」は、誰かによって語られている。「私」は、そこに登場する人物(動物/生きもの)、あるいは「もの(存在)」のひとつにすぎない。
詩の多くは「私」の思いを書いたもの。「私」は「主語(主人公)」であることが多いが、颯木の「私」は「主人公」ではない。
このことばの「主語」は何か。書かれていない「私」が「狼を抱いて」いるのかもしれない。興味深いのは「私より」という表現である。「私」は「比較」の基準になっている。「ものさし」になっている。「小道具」になっている。「主語の私」は省略されるが、「小道具の私」は省略されない。「小道具」は「少女の背丈」でも「低い木」でも置き換えが可能だが、颯木は「私」にこだわる。
この「こだわり」に「主人公・私」がいるにしろ、その自己主張は「狼」の自己主張よりも小さく感じられる。 「主役」はあくまで「狼」である。
このことばの中で「狼」が「主語」であるか、それとも、比喩として書かれている「無数に生まれる星の子」が「主語」であるか。判断は難しいが、「形式的」には「狼」が「主語」である。ここでも「私」は「主語」ではない。
「私」が登場してきても「主語」(主役)として活躍しない。そういうことが、颯木の詩の特徴であると言えると思う。
で、「雨だれ」。
ここには、まだ「わたし」は登場しない。「主語」は「黒豹」だ。「黒豹が」いま 屋根に爪先で着地した、「黒豹が」ひとあし ひとあし歩き回り、「黒豹が」大きく育ったマグノリアの花をむさぼる、ということが書かれている。
「わたし」は、それを「感じ」、そして「書いている」と、言い直すことができる。
次の連が、そのことを語っている。
「わたし」は黒豹が着地した屋根の下(つまり、天井の下)で、毛布をかぶり、身を隠している。黒豹の爪の先端から、ぬれぬれとした光が放たれる。
その爪の光に穿たれると、
ということになってしまうから、そうならないように身を隠しているのである。
ところが、このことばにはつづきがあって、ほんとうは、ただ単に身を隠しているというわけでもない。
実は、黒豹に襲われて、全身孔だらけになって、灰色の蜜を噴き出して、「消え去ってもよい」。「わたし」が「消えてもいい」(死んでもいい)と思っている。いや、それを願っているとさえ言えるかもしれない。
それだけではない。
と書いているから、黒豹は「わたし(颯木)」そのものであるかもしれない。
「黒豹」は「比喩」である。そして、その「比喩」は、「わたし」を「外形化」したものといえばいいのか、「わたし」を別な形で「生み出した」ものである。
「わたし」という「主語」が「黒豹」という「比喩」を生み出した。そのときから、今度は「黒豹」が「主語」になり、「わたし」の欲望を引き継いで行く。「わたし」の欲望は「黒豹」の欲望として語られる。
「黒豹の」爪で「わたしの」全身に孔をあけ、そこから「灰色の蜜」を噴き出したい。その「灰色の蜜」は「黒豹の」ものか、「わたしの」ものか。
区別ができない。
区別をしないことによって、「黒豹」と「わたし」は融合し、欲望を発見する。欲望に「なる」。
「わたしは黒豹だ(である)」と言うとき、そこには欲望は「ある」けれど、まだ動いていない。「黒豹になる」「雌になる」と言うとき、欲望は、目覚め、動く。「比喩」は颯木にとって、欲望を生み出していくこと、欲望そのものになること、欲望として「動く」ことなのだ。
新しい「肉体」として生まれ変わる。それが「比喩」であるとも言える。
この「新しいわたしの肉体」の行為を「純粋動詞(本能/欲望)」の運動そのものとして描くために、「わたし」は表面から姿を消す。「比喩(黒豹)」そのものを「主人公」にして、「時間」を動かす。「物語」を描く。
これは、「わたし」が「黒豹」になって「時間(物語)」を動かしているのだ。「わたし」はその「物語」を語るだけの「脇役」になる。
「わたし」を「脇役」にし、「比喩」を通して「新しく生まれた(生み出した)わたし」を「主役」にして、そのなかで「本能」をより生々しく動かす。
それは「ことばになる前の私(未生の私/私の本能)」をことば(比喩)によって解き放つということでもある。
そういうことが、この詩集では行なわれている。
颯木あやこ『七番目の鉱石』に登場する「わたし(私)」は少し変わっている。「雨だれ」という作品がいちばん印象的だが、説明の都合で「音の梯子」という作品について先に触れる。
騎士のように迷いなく
まっすぐな道を駆けてくる狼が
横たわる私の 見開いた瞳
硝子体を破って
棄てがたく 奪っていく
ここでは「主語」が「狼」。そして「私」は「私の」という「所有格」で出てくるだけで、「主語」にはなっていない。「私」は、誰かによって語られている。「私」は、そこに登場する人物(動物/生きもの)、あるいは「もの(存在)」のひとつにすぎない。
詩の多くは「私」の思いを書いたもの。「私」は「主語(主人公)」であることが多いが、颯木の「私」は「主人公」ではない。
私より少し背丈の小さい狼を抱いて
見えない瞳や掴めない指を
香煙ほどの思い出にして
このことばの「主語」は何か。書かれていない「私」が「狼を抱いて」いるのかもしれない。興味深いのは「私より」という表現である。「私」は「比較」の基準になっている。「ものさし」になっている。「小道具」になっている。「主語の私」は省略されるが、「小道具の私」は省略されない。「小道具」は「少女の背丈」でも「低い木」でも置き換えが可能だが、颯木は「私」にこだわる。
この「こだわり」に「主人公・私」がいるにしろ、その自己主張は「狼」の自己主張よりも小さく感じられる。 「主役」はあくまで「狼」である。
けれど狼は
腕の中からすり抜け
物語から無数に生まれる星の子のように増えて
空に混ざって消えていく
このことばの中で「狼」が「主語」であるか、それとも、比喩として書かれている「無数に生まれる星の子」が「主語」であるか。判断は難しいが、「形式的」には「狼」が「主語」である。ここでも「私」は「主語」ではない。
「私」が登場してきても「主語」(主役)として活躍しない。そういうことが、颯木の詩の特徴であると言えると思う。
で、「雨だれ」。
黒豹だ
きっと雌だ
いま 屋根に爪先で着地した
ひとあし ひとあし歩き回り
(大きく育ったマグノリアの花をむさぼり)
ここには、まだ「わたし」は登場しない。「主語」は「黒豹」だ。「黒豹が」いま 屋根に爪先で着地した、「黒豹が」ひとあし ひとあし歩き回り、「黒豹が」大きく育ったマグノリアの花をむさぼる、ということが書かれている。
「わたし」は、それを「感じ」、そして「書いている」と、言い直すことができる。
次の連が、そのことを語っている。
天井の下 わたしは
毛布をかぶり直し
その 爪の先端から放たれる
ぬれぬれとした光から 身を守る
身を
「わたし」は黒豹が着地した屋根の下(つまり、天井の下)で、毛布をかぶり、身を隠している。黒豹の爪の先端から、ぬれぬれとした光が放たれる。
その爪の光に穿たれると、
爪の光に穿たれて
全身 孔だらけ 灰色の蜜 噴き出し
ということになってしまうから、そうならないように身を隠しているのである。
ところが、このことばにはつづきがあって、ほんとうは、ただ単に身を隠しているというわけでもない。
爪の光に穿たれて
全身 孔だらけ 灰色の蜜 噴き出し
寝床に染みだけ残して
消え去ってもよい
こんな夜に
実は、黒豹に襲われて、全身孔だらけになって、灰色の蜜を噴き出して、「消え去ってもよい」。「わたし」が「消えてもいい」(死んでもいい)と思っている。いや、それを願っているとさえ言えるかもしれない。
それだけではない。
きっと雌だ
と書いているから、黒豹は「わたし(颯木)」そのものであるかもしれない。
「黒豹」は「比喩」である。そして、その「比喩」は、「わたし」を「外形化」したものといえばいいのか、「わたし」を別な形で「生み出した」ものである。
「わたし」という「主語」が「黒豹」という「比喩」を生み出した。そのときから、今度は「黒豹」が「主語」になり、「わたし」の欲望を引き継いで行く。「わたし」の欲望は「黒豹」の欲望として語られる。
「黒豹の」爪で「わたしの」全身に孔をあけ、そこから「灰色の蜜」を噴き出したい。その「灰色の蜜」は「黒豹の」ものか、「わたしの」ものか。
区別ができない。
区別をしないことによって、「黒豹」と「わたし」は融合し、欲望を発見する。欲望に「なる」。
黒豹になる
きっと雌になる
「わたしは黒豹だ(である)」と言うとき、そこには欲望は「ある」けれど、まだ動いていない。「黒豹になる」「雌になる」と言うとき、欲望は、目覚め、動く。「比喩」は颯木にとって、欲望を生み出していくこと、欲望そのものになること、欲望として「動く」ことなのだ。
新しい「肉体」として生まれ変わる。それが「比喩」であるとも言える。
この「新しいわたしの肉体」の行為を「純粋動詞(本能/欲望)」の運動そのものとして描くために、「わたし」は表面から姿を消す。「比喩(黒豹)」そのものを「主人公」にして、「時間」を動かす。「物語」を描く。
黒豹だ
きっと雌だ
いま 屋根に爪先で着地した
ひとあし ひとあし歩き回り
(大きく育ったマグノリアの花をむさぼり)
これは、「わたし」が「黒豹」になって「時間(物語)」を動かしているのだ。「わたし」はその「物語」を語るだけの「脇役」になる。
「わたし」を「脇役」にし、「比喩」を通して「新しく生まれた(生み出した)わたし」を「主役」にして、そのなかで「本能」をより生々しく動かす。
それは「ことばになる前の私(未生の私/私の本能)」をことば(比喩)によって解き放つということでもある。
そういうことが、この詩集では行なわれている。
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