谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(11)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
私はこの日記ではもっぱら谷川の詩について書いている。写真がいっしょになっていて、写真の方がページが多いのに写真のことは語っていない。引用がむずかしいから、どうしてもそうなってしまう。
そして引用がむずかしいといえば、この本の「構成」そのものも引用がむずかしい。実際に本を手にしてもらうしかないのだが、そのむずかしい写真と構成のことを書いておきたい。以前書いたことにつながるのだが……。
きのう読んだ「アンリと貨物列車」の裏側は空白である。空白だけれど、裏の文字は透けて見えない。不透明の白。あ、これは間違いで、紙が「不透明」なのだろうけれど。
その白が、見開きの左の写真とつながっている。左の写真は白壁の向こうに消えていく豚の尻と尻尾と後ろ足。それを見ていると、右のページの空白は空白ではなく白壁にも見える。写真はパノラマのように見える。右はただ壁しか写っていないのだけれど。
それはある意味では「無意味」。あるいは「中断」。
こういうものがあると、ほっとするなあ。
私はきのう私の「肉体」がすべての「もの」と「肉体」としてつながっているというようなことを書いたが、そのつながりはつながりのままではかなり窮屈。必要なときだけつながって、それ以外はつながっていないのがいいなあ。わがままな考えかもしれないけれど。そして、そのつながっていない感じ、「中断」(切断)した感じがあると、なんだかほっとする。
この写真の右ページがそういうものかもしれない。
「中断」といえば、豚の尻と尻尾も「中断」ではあるね。頭と前足が見えない。見えないけれど、それがあるとわかる--と書くとまたつながってしまう。そうではなくて、つながっているとわかっているけれど、それを「中断(切断)」して表現してしまう。そのときの「中断」をめざす(?)動きが、なんだかほっとする。
それは「中断」されて(切断されて)も、そこに「充実」があるからかもしれない。
写真というのは、切断(中断)され、そこで輝いている「もの/こと」だろうか。世界はどこまでもつづいている。それをカメラのフレームが強制的に切断し、そこに「もの/こと」をとらえてしまう。
そういう写真が何枚かつづいて、ガラス窓をつたう雨粒の写真がある。その裏側は不思議な灰色、あるいは水色。雨粒が見ているガラスの色だろうか。雨粒がかかえてきた空の色を、雨粒はガラスに映して見ているのだろうか。どこから、何を見れば、その色が見えるのだろうか。肉眼で見る色ではなく、想像力で見る色かもしれない。
で、想像力。
灰色とも水色とも見える色の、その隣(左ページ)に「枯葉の上」という詩がある。いまは秋なので、そして町には街路樹が木の葉を落としているので、谷川がどの場所を書いているのかわからないが、私は私の知っている枯葉を思い浮かべながら読む。
ことばを読む、あるいは写真や絵を見るとき、想像力で、そこにはない何かを見ている。そういう「飛躍」の踏み台になっているかもしれないなあ、あの水色(灰色)は、というようなことも私は考えたりするのだが……。
詩に戻る。あるいは、詩へ進む。
二行目の「相変わらず見えないし聞こえもしない」とは何のことだろう。何が見えない、何が聞こえない? 「相変わらず」って、いつから?
「タマシヒ」が見えない、聞こえない。「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」のは見える。そのとき、そこにある音がないとしたら、その「ない」が聞こえている。だから、町の風景ではない。それを見て、それをことばにしようとした何か--タマシヒが見えない、聞こえない。
けれど、町を「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばにすることで、タマシヒはどこかに近づいていこうとしている。「未知」へ。まだ、ことばにできない、どこかへ。そして、その未知の中心(真実とか事実とか)に近づいているのだなと感じてタマシヒは謙虚になっている。
と、「ココロは思う」。
ココロにもタマシヒの姿は見えない、タマシヒの声は聞こえない。それはどこある? 見えないのだから、特定できない。でも、遠くにあって見えないのではない。聞こえないのではない。遠くだったら「感じる」ということもできないだろう。
見えすぎる、聞こえすぎるのかもしれない。見えすぎ、聞こえすぎて、ココロにはタマシヒの見たもの、聞いたものが、ココロ自身が見聞きしたことのように思えるのかもしれない。錯覚してしまうのかもしれない。
タマシヒはココロの内部、ココロの奥深くにあって、ココロを支えているのではなく、ココロに直にくっついているのかもしれない。すぐ背後にタマシヒはあって、それがそのままココロを直接動かして「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばになった。そのことばを聞きながら、ココロはタマシヒの「謙虚」を感じている。何も言わないので「謙虚」と感じているのかもしれない。
ほんとうはココロとタマシヒが「距離のない」対話をしている。「一体」になっ「対話」している。「一体の対話」は「独白」の形になってしまうので、ココロにはそれがわからない。
対話することは、同時に「肉体」を寄り添わせることである。離れていては対話はできない。「一体」になっているココロとタマシヒは「寄り添う」必要はないのだけれど、「一体」ということについて考えるために、「寄り添う」ということばが必要なのだ。
囁いたのはタマシヒか、ココロか、寄り添うのはココロかタマシヒか。区別の必要はない。別々の名前で区別することがあっても、それは便宜上のことだ。つながっているから「ひとつ」。その「ひとつ」になる瞬間を感じ取ればいいのだろう。
で、タマシヒとココロが「ひとつ」になったとき、散った枯葉も、その上にさしてきた陽の光も、猫もみんな「ひとつ」になって、その「ひとつ」であることが「穏やか」ということだなあ、とわかる。
あ、書き漏らした。
「相変わらず」って、いつから? きっと最初から。それは「いつも」のことなのである。「不変」であり、それは「普遍」でもある。
タマシヒはいつも動かない。だから見えないし、聞こえない。動いたときはココロと「一体」になっているので、ココロにはタマシヒが動いたとは感じられない。ココロが動いているだけで、タマシヒはココロの動きをじっと見ているだけ。じっと見ながら、タマシヒが「未知(永遠)」に近づいていく。ココロに従って「未知(永遠)」近づいていく。「謙虚」で「従順」なタマシヒ。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
私はこの日記ではもっぱら谷川の詩について書いている。写真がいっしょになっていて、写真の方がページが多いのに写真のことは語っていない。引用がむずかしいから、どうしてもそうなってしまう。
そして引用がむずかしいといえば、この本の「構成」そのものも引用がむずかしい。実際に本を手にしてもらうしかないのだが、そのむずかしい写真と構成のことを書いておきたい。以前書いたことにつながるのだが……。
きのう読んだ「アンリと貨物列車」の裏側は空白である。空白だけれど、裏の文字は透けて見えない。不透明の白。あ、これは間違いで、紙が「不透明」なのだろうけれど。
その白が、見開きの左の写真とつながっている。左の写真は白壁の向こうに消えていく豚の尻と尻尾と後ろ足。それを見ていると、右のページの空白は空白ではなく白壁にも見える。写真はパノラマのように見える。右はただ壁しか写っていないのだけれど。
それはある意味では「無意味」。あるいは「中断」。
こういうものがあると、ほっとするなあ。
私はきのう私の「肉体」がすべての「もの」と「肉体」としてつながっているというようなことを書いたが、そのつながりはつながりのままではかなり窮屈。必要なときだけつながって、それ以外はつながっていないのがいいなあ。わがままな考えかもしれないけれど。そして、そのつながっていない感じ、「中断」(切断)した感じがあると、なんだかほっとする。
この写真の右ページがそういうものかもしれない。
「中断」といえば、豚の尻と尻尾も「中断」ではあるね。頭と前足が見えない。見えないけれど、それがあるとわかる--と書くとまたつながってしまう。そうではなくて、つながっているとわかっているけれど、それを「中断(切断)」して表現してしまう。そのときの「中断」をめざす(?)動きが、なんだかほっとする。
それは「中断」されて(切断されて)も、そこに「充実」があるからかもしれない。
写真というのは、切断(中断)され、そこで輝いている「もの/こと」だろうか。世界はどこまでもつづいている。それをカメラのフレームが強制的に切断し、そこに「もの/こと」をとらえてしまう。
そういう写真が何枚かつづいて、ガラス窓をつたう雨粒の写真がある。その裏側は不思議な灰色、あるいは水色。雨粒が見ているガラスの色だろうか。雨粒がかかえてきた空の色を、雨粒はガラスに映して見ているのだろうか。どこから、何を見れば、その色が見えるのだろうか。肉眼で見る色ではなく、想像力で見る色かもしれない。
で、想像力。
灰色とも水色とも見える色の、その隣(左ページ)に「枯葉の上」という詩がある。いまは秋なので、そして町には街路樹が木の葉を落としているので、谷川がどの場所を書いているのかわからないが、私は私の知っている枯葉を思い浮かべながら読む。
ことばを読む、あるいは写真や絵を見るとき、想像力で、そこにはない何かを見ている。そういう「飛躍」の踏み台になっているかもしれないなあ、あの水色(灰色)は、というようなことも私は考えたりするのだが……。
詩に戻る。あるいは、詩へ進む。
散り敷いた枯葉の上に陽がさした
相変わらず見えないし聞こえもしないが
未知に近づいているせいか
タマシヒは謙虚になっている
とココロは思う
二行目の「相変わらず見えないし聞こえもしない」とは何のことだろう。何が見えない、何が聞こえない? 「相変わらず」って、いつから?
「タマシヒ」が見えない、聞こえない。「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」のは見える。そのとき、そこにある音がないとしたら、その「ない」が聞こえている。だから、町の風景ではない。それを見て、それをことばにしようとした何か--タマシヒが見えない、聞こえない。
けれど、町を「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばにすることで、タマシヒはどこかに近づいていこうとしている。「未知」へ。まだ、ことばにできない、どこかへ。そして、その未知の中心(真実とか事実とか)に近づいているのだなと感じてタマシヒは謙虚になっている。
と、「ココロは思う」。
ココロにもタマシヒの姿は見えない、タマシヒの声は聞こえない。それはどこある? 見えないのだから、特定できない。でも、遠くにあって見えないのではない。聞こえないのではない。遠くだったら「感じる」ということもできないだろう。
見えすぎる、聞こえすぎるのかもしれない。見えすぎ、聞こえすぎて、ココロにはタマシヒの見たもの、聞いたものが、ココロ自身が見聞きしたことのように思えるのかもしれない。錯覚してしまうのかもしれない。
タマシヒはココロの内部、ココロの奥深くにあって、ココロを支えているのではなく、ココロに直にくっついているのかもしれない。すぐ背後にタマシヒはあって、それがそのままココロを直接動かして「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばになった。そのことばを聞きながら、ココロはタマシヒの「謙虚」を感じている。何も言わないので「謙虚」と感じているのかもしれない。
ほんとうはココロとタマシヒが「距離のない」対話をしている。「一体」になっ「対話」している。「一体の対話」は「独白」の形になってしまうので、ココロにはそれがわからない。
枯葉を踏んで音もなく猫がやってきた
穏やかな一日があれば他に何も要らない
とタマシヒが囁(ささや)いたような気がして
ココロは朝の光に寄り添う
対話することは、同時に「肉体」を寄り添わせることである。離れていては対話はできない。「一体」になっているココロとタマシヒは「寄り添う」必要はないのだけれど、「一体」ということについて考えるために、「寄り添う」ということばが必要なのだ。
囁いたのはタマシヒか、ココロか、寄り添うのはココロかタマシヒか。区別の必要はない。別々の名前で区別することがあっても、それは便宜上のことだ。つながっているから「ひとつ」。その「ひとつ」になる瞬間を感じ取ればいいのだろう。
で、タマシヒとココロが「ひとつ」になったとき、散った枯葉も、その上にさしてきた陽の光も、猫もみんな「ひとつ」になって、その「ひとつ」であることが「穏やか」ということだなあ、とわかる。
あ、書き漏らした。
「相変わらず」って、いつから? きっと最初から。それは「いつも」のことなのである。「不変」であり、それは「普遍」でもある。
タマシヒはいつも動かない。だから見えないし、聞こえない。動いたときはココロと「一体」になっているので、ココロにはタマシヒが動いたとは感じられない。ココロが動いているだけで、タマシヒはココロの動きをじっと見ているだけ。じっと見ながら、タマシヒが「未知(永遠)」に近づいていく。ココロに従って「未知(永遠)」近づいていく。「謙虚」で「従順」なタマシヒ。
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