詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「習作ノオト」

2009-02-14 09:32:03 | 詩集
松岡政則「習作ノオト」(「すてむ」42、2008年11月25日発行)

 松岡政則「習作ノオト」はいくつかの断章でできている。とても気になる部分がある。

夜行バスの中に
傘を忘れる
わざと。
そのためだけに乗ったのだ
窓ガラスに顔をくっつけて
街のあかりがおそろしいスピードで千切れ飛ぶのを見ていた
いまが過去になる瞬間を見ていた
そこに交じり込んできた現象
何かおおごとでもやらかしそうな
橋詰めに確かにいた、五六人はいた、六尺棒を突いて立つ者ら、

 これを書いているのはいつのことだろうか。バスを降りたあとだろうか。私はまだバスの中だと思って読んだ。
 最初の3行が、まだバスの中だと思って読むと非常におもしろいのだ。
 あることがらを「過去」にしたい。「わざと」過去をつくりたい。「わざと」つくったものでも、それは過去だろうか--という疑問がわいてくる。もちろん「時間」が経過すれば過去なのだろうけれど、その過去は「わざと」という意識のために、「いま」としっかり結びついている。「過去」は遠い断片ではなく、その断片といまを結びつける線(?)のようなものがずーっと持続している。これは、なんといえばいいのだろうか。
 その持続する意識、「いま」でも「未来」でもなく、「過去」をつくるために何かする、何かしているという意識が、時間を奇妙なものに仕立て上げる。

いまが過去になる瞬間を見ていた

 この「瞬間」というのは、持続する意識があるから見えるのである。持続の意識がなければ、瞬間という断片はあらわれて来ない。だいたい、瞬間というのは見えない。時間にして何秒までが瞬間かなど、だれも測れない。持続と対比して「瞬間」があるだけなのだ。「わざと」過去をつくる。そのために何かするという持続的意志があって(しかも、その持続がバスの中に乗っている間中持続しているという具体的な長さがあって)、それに対して瞬間が見えるだけなのだ。
 その発見は、時間をさらに複雑にする。持続-瞬間という対比の中に、もうひとつ別の瞬間(複数の瞬間)を引きずり込む。瞬間-瞬間-瞬間-瞬間という連続が「時間」を浮かび上がらせる。そして、それは、では「持続」とどうつながっていくのか。あるいは瞬間と瞬間はどうつながっていくのか。瞬間と瞬間がつながっていけば持続(連続)になるのか。
 どうも、そうではないのだ。
 持続と瞬間のあいだには、意識できないなにごとかが混ざり込んできてしまう。たとえば、ここでは、「橋詰め」にいた「五六人」。それは何? 意識を破って飛び込んでくるその存在は何? それは、実は、詩である。詩の「原石」である。「持続」を逸脱して、松岡をどこか、目的の場所から連れ去って行ってしまう。「五六人」のことを思っているそのとき、松岡は「わざと」を忘れる。彼の目的が「傘を忘れる」であったことを忘れ、「持続」から違う場所に(違う時間に)逸脱してしまう。その瞬間が、詩である。
 その瞬間を、この作品は、まだどこにも定着させていない。ただ、瞬間としてほうりだしている。「習作」とことわりがついているのは、たぶん、そのためだろう。

 次の断章もおもしろい。

また隣の女の子が泣いている
母親に怒鳴られてしゃくり上げて泣いている
日曜の朝だというのに
いま、たたかれた
どうしようもないきょうぼうなものがふくれあがってくる。
にえきったどすぐろいものがからだからぬけでようとする。
あのこがよんでいるなのにたちあがれないまたたたかれた。
同居人が窓を閉め
歩きに行こうや、という

 「どうしようもない」からのひらがなの3行。ことばが「漢字」を借りてすっきりとは見えて来ない。「漢字」になれないまま、ずるずるとうごめいていく。連続してしまう。「あのこがよんでいるなのにたちあがれないまたたたかれた。」はふつうに書けば、「あの子が呼んでいる。なのに立ち上がれない。また叩かれた。」ということになると思うが、そうは書かない。句点「。」がない。それは意識に区切りがないということである。意識はかならずしも明確な意識になるとはかぎらない。そういう瞬間を、瞬間ではなく、句点「。」のない連続としてとらえている。
 松岡は、「時間」の意識が強い詩人かもしれない。



 この詩を読みながら、私は、とんでもない「誤読」をしていた。それについて書こうか書くまいか、ずいぶん悩んだ。しかし、書いておこう。

どうしようもないきょうぼうなものがふくれあがってくる。

 この1行を、私は「どうしようもないきぼうなものがふくれあがってくる。」と読んでしまっていた。漢字交じりで書けば「どうしようもない希望のようなものがふくれあがってくる。」女の子が叩かれて泣いている。その声を聞きながら「希望」のようなものがわいてくる。このとき「希望」というのは、人間の行動をうながすものの総称である。そしてその衝動は「本能」である。「本能」は善悪を区別しない。そういうものを、なぜか瞬間的に私は考えてしまったのである。想像してしまったのである。
 松岡の書いている「きょうぼうなもの」とは「怒り」だろうと思うが、「怒り」と思うと、そこに「正義感」のようなものが入ってきて、詩が倫理的になってしまう。倫理がわるいわけではないが、詩は倫理を超越するものだ。
 もし、それが「希望」であったなら。
 「希望」は、他人の不正義に対して怒りを覚えることができる何かが自分の中に残っていることを発見するという希望かもしれない。叩かれ、泣きながらも、そんなことでは死にはしない、頑張れ、という「呼びかけ」かもしれない。さらにと、このまま叩かれつづけ、おそろしいことが起きるという「予感」かもしれない。そういうことを期待してしまう「汚い心」かもしれない。--それは、かりそめに「希望」と呼んでみただけであって、まだ、はっきりとは固まっていない感情のうごめきである。

 ことばが、もうし、そんなふうな、あいまいなもののなかへ入っていくなら、それはとてもおもしろい詩になると思ったのだ。倫理的には許されないことかもしれないが、ことばがどこまで突き進んで行くことができるか、と思うと、「きょうぼう」ではなく「きぼう」の方が楽しいと思うのだ。
 文学は「倫理」ではないのだから。

 松岡の考えには反するかもしれないが、そんなことを考えた。




ぼくから離れていく言葉―松岡政則詩集
松岡 政則
澪標

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