ベルグソンのことばも、和辻のことばも、「変わらない」。つまり、彼ら自身がもう書き換えることはない。だから私は、彼らがもうそのことばを書きないということを知っていて(そして「反論」も絶対にしないことを知っていて)、「私のことば」に変換していく。つまり「誤読」していく。「私自身のことば」を書き換えていく。「変わっていく」のは私のことばである。「読書日記」はその「わがままな記録」である。
「創造的進化」のなかに、こんなことばがある。
母性愛が示しているのは、どの世代も、つぎに続く世代に身をのりだしているということである。
この「身をのりだす」という表現がおもしろい。「身をのりだす」とき、ひとは、自分を忘れている。だから、「身をのりだした」ひとに向かって「危ない」と叫ぶときがある。注意するときがある。
ベルグソンの書いている「身をのりだす」というのは「比喩」なのだが、その「比喩」をとおして私が知るのは「意味」というよりも「欲望」である。母が「身をのりだす」ときの「欲望」。彼女の「肉体」を動かしてしまう力。「知性」の制御を無視して、暴走する「欲望」。そして、それを「欲望」と感じるのは、私自身に何かに対して「身をのりだした」体験があるからだ。それは私の「肉体」のなかに残っている。
「つぎに続く世代」というのは、これもまた「比喩」である。実際にはまだ存在しない。その存在しないものに向かって「身をのりだす」とき、そこには何があるのか。ただ、新しいものへの「欲望」がある。「身をのりだす」欲望。そして、「肉体」そのものの、「動き」であって、「肉体」の「動き」をともなわない「欲望」というものはない。
ベルグソンが書いていることは、私がいま書いたこことは関係がない。
私がただ「追加」するかたちで考えたことばである。