照井知二『夏の砦』(思潮社、2021年10月31日発行)
照井知二『夏の砦』の詩篇は、どれも非常に短い。巻頭の「大神」。
もみくちゃの漂白に
なぜ中心と辺境を展くのか
遠吠えの
なせる王権が
狼煙と
滅ぶ岳で
不意に生きかえってみせる
「短い」が「狭い」わけではない。
二行目に「中心と辺境」ということばがある。視点がふたつある。そのことが世界を広げている。「大神」は「オオカミ=狼」であり、それは「狼煙」ということはのなかに隠れながら現われている。「隠れながら現われる」は「中心と辺境」でもある。「隠れる」が辺境か、「現われる」が中心か。あるいは逆か。わからないし、わかる必要もない。ふたつが向き合い、ふたつであることによってひとつである、ということなのだ。
「生きかえる」という動詞が最後の行に出てくるが、これは「隠れる/現われる」が同時に(瞬時に)起きたときの状態である。「隠れる」は「死ぬ」、「現われる」は「生まれる」。死んで、同時に(瞬時に)生まれるを「生きかえる」という。
その「瞬時/同時」に何を見たか。
そのことが書かれている。
そして、この「瞬時/同時」を別なことばで言いなおせば「即」である。
「大神」即「狼」。「狼」即「大神」。それは「交代」というよりも「合体」である。「生きかえる」は「生き返る」ではなく「生き変わる」かもしれない。そのとき生まれてきたものは、まったく新しい。だから、ことばをもたない。名付けようとすれば「狼」と「大神」という「過去」に引き戻されてしまう。その力と戦いながら、なお、これからを「展いていく」。それが照井にとっての詩を書くということか。
そう理解しながらも、あるいはそう理解してしまうからなのか、私は、逆に「ひらがな」だけで書かれた次の詩に引きつけられた。「やまきしゃ」。
ゆっくりながいカーブにさしかかる
しろいあしうらをそろえ
ねつかれない めで
すぎさるやまのおもてをなぞる
やみおえれば
はいのあなだけのこるのだろうか
しばしばあかりのちぎれるらんぷのほのおを
のばせば てのふれられる
まどべにおく
はじまりがひとつなのに
ゆめは いつもばらばらだった
かたちだけのころうとするものをはなれ
なにひとつしらされることなくきしゃはどこへいくのか
はいこうの
やまへらんぷのほのおははげしくもえおちていった
ここには「中心と辺境」という「切断と接続」ではなく、何かしら「持続」と呼びたいものがある。
「あな」とは何か。私は女性性器を思う。そして、そこから、たとえば「姉」を思い浮かべるのだ。母ではなく、姉。「私」(ここには書かれていない)という存在は母とは「切断と接続」の関係にある。ところが「姉」と「私」とは、「切断と接続」ではない。「即(一の概念)」は入りこまない。母は私にとって「一等親」なのに対して、姉は「二等親」。「一」から「二」にかわるためには「持続」が必要なのだ。意識がつくりだす「持続」。肉体ではなく精神がつくりだす「持続」。「持続」とは精神に属する運動なのだ。
闘病がおわり、死ぬ。「灰」が残る。そうか、ほんとうに、そうか。「灰」は肉体に属する。しかし、「灰」のほかに「記憶」が残ってしまう。「記憶」とは精神の持続が生み出すものである。つねに精神が何事かを想起し続ける。「あしうら」という肉体の記憶も、精神の持続として動いていく。
私が「あな」として書かれた存在を「姉」だと思うのは、もうひとつ理由がある。
はじまりがひとつなのに
ゆめは いつもばらばらだった
はじまりは「父母」。しかし、そこから「切断と接続」として誕生してくる「私」と「姉」は、ぜったいに「一」ではない。「ばらばら」である。複数。「ふたつ」であることによって存在する関係である。「ゆめ」とは「個人」である。「ゆめ」を通して、「姉」は「姉」に生まれ変わる。
しかし、「姉のゆめ」とは?
そんなものは「知らされない」。たとえどんなに仲がよくても何もかも話し合っているように見えても、「私」と「姉」とは「ひとつ」ではありえない。
この詩集は、ある意味での「神話」をつくろうとしている。非情と有情が交錯している。
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