詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井本元義『レ モ ノワール』

2009-02-17 11:43:27 | 詩集
井本元義『レ モ ノワール』(書肆侃侃房、2008年10月20日発行)

 ことばの動きが律儀である。「満ちてくる水」の書き出し。

僕は身を隠すためにここに来たのだった
長い間使われていない倉庫群
錆びた廃線のレールに沿って白い小さな花が咲いている
僕は運河のほとりに佇む
水は透明なのか不透明なのかわからない
真っ黒だからだ

 運河のそばの倉庫群。その倉庫群はすでに活気はない。倉庫群とつながるレールはすでに廃線になっている。かつたの繁栄の代わりに白い小さな花が咲いている。この対比の中で「僕」は「倉庫」「廃線」の側に属している。「身を隠す」というのは、すでに誰からも見向かれなくなった「倉庫」「廃線」と自己を重ね、同一のものとなって溶け込むということである。
 ことばは互いに補足しあい、「意味」を深めていく。「感情」を深めていく。その動きはほんとうに「律儀」としかいいようがない。それはたとえていえば、数学の証明のようである。
 「僕は身を隠すために」の「ために」や、「水は透明なのか不透明なのかわからない/真っ黒だからだ」という結果(現象)と「原因」をきちんと説明することばの運動に、特にそういう性質を感じる。
 こういう性質のことばは、それをきちんと守っているあいだは美しい。しかし、そこに余分なものがはいるととたんに醜くなる。数学の証明は余分な径路をたどると奇妙になる。同じ答えにたどりついたとしても、変な脇道をたどったものと、いちばん単純な径路をたどったものとを比較すると、単純なものがどうしても美しく見える。
 1連目は、いわば、すっきりした証明である。ところが、2連目。

闇が降りてくる
僕の足元は揺れる
否 停滞していた運河が動きだす
かすかな漣が踊り子の舞いのように見えていたのに
逆流が次第に速さを増す
満ちてくる波の激しさ
流れが岸を打ち 雑草が気流に揺れる
鞭打たれた追われる罪なき囚人の群れ

 運河に塩が逆流してくる(海の近くなのだろう)。そのために「僕」が揺れて感じる。このときのことばの運動「僕の足元は揺れる/否 停滞していた運河が動きだす」、現象と原因の分析、そこから「逆流」ということばを導き出してくる運動も証明としてとても自然だ。美しい。しかし、

かすかな漣が踊り子の舞いのように見えていたのに

 これは何だろう。「踊り子の舞い」と何? このことばはどこから出てきたのだろう。引用はしないが、最後まで読んでも「僕」と「踊り子」を結びつける関係が出てこない。「踊り子」は「僕」の生活と無関係である。
 「鞭打たれた追われる罪なき囚人」は「雑草」の比喩であり、それはまた、「僕」自身の立場(たとえば、資本家に搾取される労働者)の比喩ともなりうるだろうが、「踊り子」は?
 たぶん「踊り子の舞い」は井本の生活とは無関係なのである。生活とは無関係であるけれど、そのことば、そのイメージだけを「文学」として知っている。「文学」が突然、「僕」の生活の「数学」に混じってきたのである。これは醜い。
 「漣」もおなじである。「踊り子の舞い」のように、井本が「文学」で読んだことばが、ふいにここに噴出してきている。その噴出を抑えるということができていない。

 井本はことばを生活をもとに動かしてはない。もちろん、そういう作品があるのはかまわないが、これはまた別の問題である。
 井本は、最初から、「文学」のことばを使いながら「数学」をやっているのかもしれない。「身を隠す」「長い間使われていない」「錆びた廃線」「佇む」。そうしたことばのなかにはひとつの「空気」がある。敗北の空気がある。そしてセンチメンタルがとても強く匂う。そのセンチメンタルに誘われて「漣」「踊り子の舞い」が滲み出てきたのである。こういう滲み出てき方は、ほんとうに醜い。ことばに対して井本には無意識な部分がある。



 


レ モ ノワール 黒い言葉
井本 元義
書肆侃侃房

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