詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則『ちかしい喉』(3)

2009-08-09 09:13:44 | 詩集
松岡政則『ちかしい喉』(3)(思潮社、07月15日発行)

 松岡の耳は、声にならない声を聞きとる。ときには、異国のことばを、異国のことばのまま、深く聞きとる。「意味」ではなく、感情を、思想を直接聞きとる。台湾を旅行したときの詩にそういう「耳」が出てくる。
 松岡は、中国語が完璧に理解できるのかもしれない。けれど、私には、松岡の聞きとった「肉体の声」は中国語を日本語に翻訳しての「意味」ではないように感じられる。翻訳と「意味」を経由せずに、肉体が(耳、喉、口蓋、舌、そして目や手や足が)直に聞きとった声のように思える。
 松岡は正字体(繁字体?)を使っているが、私は簡略自体で引用する。(原文は、詩集で確認してください。)「那魯湾暇飯店筆記(ナロワンリゾートホテルメモ)」の「台北でみた夢、獣の森、」の後半。

おんなのあしの、
しろい、いけないが、
ひえいだいらのやみをながれていく
あっ、いぬ、
こえにならないこえもしどけなくやみをながれていく
あわれんでいるような
なめまわしているようないっぴきのやまいぬの眼。
そのみじろぎの、もどかしいが、
このわたしだった

 ここに描かれているのは、女と山犬の、声をとおさずにおこなわれた会話である。人間と犬。その異種の存在を超越して交わされる会話。異種を超えて交わされる会話を聞きとる「耳」には、人間の、人間同士の、「国語」の違いなどないにひとしい。
 松岡は翻訳などいらない「いのち」そのものの声を聞きとるからだ。「いのち」を何か別のものにアイデンティファイさせて、その「意味」でことばを縛り上げてから、相手の声を聴くのではない。そういう余分なもの(?)にしばられる前の生の声を聞きとるのである。
 「烏来(ウーライ)郷」の後半。

こんな時どんなツラでいればいいのか
なにげに眼を合わせて
かるく頭を下げたい、のに下げられない
おぼえていない、のにおぼえている
日本人、であることの不快
(不意に般若豊少年の苛立ちがよぎる
(どこからか索道の発動機の音がする
遐くどろっとした闇のかたまりが
死者たちのあまたの喉が
いま阿婆の眼に映じている
その無言の風に、
さらされるために、
この島に呼び寄せられたのかもしれなかった

 声を聴く--その「耳」は実は、耳ではない。「肉眼」ということばにならって、私は「肉耳」ということばを使いたい。(田村隆一を読んだ時に何度かつかったことばである。田村隆一を読む、を参照してください。)
 ことばを、声を聞く時、ひとはいわゆる耳だけではなく、目もつかう。目で把握したものが耳の中でことばになる、ことばにならないことば、ことばを超越したことばになる。そういうことが起きる。それは、松岡だけではなく、この詩に登場する「阿婆」にも。

死者たちのあまたの喉が
いま阿婆の眼に映じている

 死者たちのことばにならないことば。それを「阿婆」が「眼」で受け止めている。ことばにならず、「喉」の動きとして動いているもの--それを眼で受け止め、それを肉体の内部でことばとして、しっかりつかんでいる。受け継いでいる。
 そのことばのすべてを、いま、松岡は、やはり「眼」で聞いているのだ。「阿婆」に、「何を考えているのですか」と問いかけて、ことば(中国語)として、その答えを得たわけではない。そういう翻訳をとおさずに、ことばをとおさずに、声を聞く。声にならない声を聞く。存在しない「喉の動き」を見るのだ。
 「喉」とはもちろん単なる「喉」ではない。やはり「肉喉」なのだ。

 そして、この「肉喉」に呼応するように、松岡の「喉」も「肉喉」になる。松岡は、「肉喉」で、声にならない声、声を超越した声に出そうとしてもがく。まだ、だれも「喉」をとおして声にしたことのないことばを、書く。書いている。
 「肉喉」となることによって、松岡は、すべての存在になる。故郷の大地(山の大地)にも、薪にも、好きな女にも、犬にも、台湾の「阿波」にも、彼女が見ている死者にもなる。死んだ人間、死者さえも、「いのち」の喉をもって声を発している。その喉にもなる。
 「辺地(へんち)の夕まぐれ」の前半。

不意の、喉、
だれかの喉を
すぐそばに感じる
なにも語らない喉を
いいやおのれがつかえて語ろうにも語れない喉を
その顫えているのを確かに感じる
喉、は行き倒れた者のそれだろうか
道ばたのイタチガヤ、
ネズミノオ、
喉、はだれなのか
      (5行目の「つかえて」は漢字が表記できないのでひらがなにした。
       原文の漢字は病垂れのなかが否)

 ことばにならない声--それは、つかえているのだ。ことばは喉の奥、肉体の内部でいつも外に出ようともがいている。もがいてももがいても、声にならない声がある。それを聞き取り、それをことばにするために詩人がいる。

 私は何度か松岡の詩について書いてきたが、すべてトンチンカンなことを書いてきたかもしれない。今度の詩集で、松岡の「肉耳」をはっきりと感じることができた。とてもいい詩集だと思う。



ちかしい喉
松岡 政則
思潮社

このアイテムの詳細を見る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 誰も書かなかった西脇順三郎... | トップ | 高橋睦郎『永遠まで』(9) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事