稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」(「イリプス」37、終刊号、2022年07月10日発行)
稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」をどう読むべきか。その一連目。
あなたの掌を解き、
握られた紙片をふたたび世に戻すと
陽の翳りに、遠く生き急いだ命の数々が
短く在ったみずからの声の幸福を響かせている
ラジオの鳴る冬の縁側に
一旦はただ人として座ったあなたが
郵便配達人の自転車を待つ間
その数日の間に、
わたしは僅かな未来へとあなたの遺志を繋げるために、
蒼空の幼い階音(はるもにあ)を聴き続けた
うまいないあ。でも、うまければいいのかどうか、よくわからない。なぜ、うまく感じるか。ことばの「呼応」がしっかりしているからだね。しっかり呼応し、しっかり完結している。
問題は、そのあと。
いまどき「ラジオの鳴る縁側」って、いったいどこにあるのだろうか。「いま」ではなく「記憶」を書いていると言われればそれまでだけれどね。
同じことは「郵便配達人」「自転車」。自転車に乗った郵便配達人というのは、いつまでいただろうか。いまも、いるかなあ。
なんだか志賀直哉よりももっと前の、昭和初期、大正末期の短編小説みたいだなあ、と思う。母を思う子供のきもち、がテーマなんだろうけれど。
それから。
私は困惑してしまうのだ。一連目の緊密な「呼応」が二連目では「すかすか」になる。
「合理の生」とか「永遠精神」とか。
とくに「合理の生」は二度出てくる。
稲川の意識のなかでは「意味」があるのだろうけれど、何のことかわからない。稲川の詩には、どこか「出自」のわからないことばがあって、その出自をわかる人だけが読めばそれでいい、という開き直りのようなものがある。
まあ、いいけれど。
でもね、それって結局、生きている「肉体」の否定にならないか、と私は問いたいのである。
ことばにはことばの肉体といのちがある。その肉体といのちを稲川は引き受けている。そう開き直られれば、私は単なる「反知性主義(これでよかったかな? 何度か、こんなふうに私は呼ばれたことがあるような記憶があるが、何といってもそんなことばを日常的につかうひとが私のまわりにはいなのので、ことばが私の肉体にまでしみこんでこない)」ですと引き下がるしかない。
こんな詩、いやだなあ、と聞こえるように言いながら。