細田傳造「太政大臣」(「雨期」79、2022年08月30日発行)
細田傳造「太政大臣」を読みながら、うーむ、と思う。
世の中を造っている
まかされて世の中を造っている
俺は太政大臣
ほらあそこ
水たまりでくるくる
水すましが回っている
いい世の中だろうだろう
俺は太政大臣
そこ行く新内流し
あなたに
かどづけは国庫から出す
いい世の中だろう
何が「うーむ」なのか。まず、「太政大臣」。いま、いる? いないね。私は歴史にうといので、いつの時代まで太政大臣がいたのか知らない。わかるのは、いまはいないということ。いまいない「太政大臣」をなぜ書くのか。
比喩は、いまここにあるものを、いまここにないものを借りて、何らかの意味を明確にする(強調する)ためにつかわれる。ほんとうは、それではないものを、それを借りることで、いまここにあるものを明確にする。
では、細田の「太政大臣」は何を明確にしているのか。
世の中を造っている
まかされて世の中を造っている
一行目に、「まかされて」ということばが追加されて二行目が産まれ、それを引き継いで「太政大臣」ということばが動く。何ごとかを「まかされている」人間だ。そして、その何ごとが何かといえば「世の中を造る」こと。
それでは「世の中」とは何か。「造る」とは何か。そういうことが、少しずつ語られる。
世の中が「水たまり」か。あるいは世の中が「水すまし」か。「くるくる」「回る」が世の中か。これは何かの比喩か。比喩かもしれない。しかし、ここでは、それ以上私は考えない。いいじゃないか、と思う。たとえば、私が「水すまし」で小さな「水たまり」で「くるくる回っている」だけ。対して不満はない。そうやって「くるくる回る」ことで生きているなら、それはそれでいいなあと思う。何より、平和だ。そうだろう、だろう。
でも、そのあとはどうかなあ。「新内流し」は「水すまし」と違って遊んでいるわけではない。そのあとの、
かどづけは国庫から出す
「かどづけ」か。まあ、必要だ。「国庫から出す」。えっ、「太政大臣」って、そういうことか。自腹ではせない。「国庫から」。「国庫」って、何さ。
「かどづけ」をもらって、「いい世の中」と思えるかどうか。ここから「太政大臣」への批判をはじめることができる。でも細田は、そういうヒントを提示するだけ。細田が主体となって批判するわけではない。(読者が、批判をするのは、勝手。)細田は「おれは」と、細田自身が批判されることを引き受る用意があるというポーズを見せる。二重の批判だね。--この二重性は、細田のことばの重要な特徴だが、書いているとめんどうになるので、今回は省略。
さてさて。
なぜ「太政大臣」なのか、「新内流し」なのか、「ことづけ」なのか。
そして、いまはつかわれない(?)そういうことばにまじって、突然「国庫」といういまつかわれることばがまじってくる。
ここから、いろんなことが考えられる。いろんなことを私は考える。しかし、詩は意味ではなく、あくまでもことばなのだから、私は意味には踏み込まない。ことばにとどまって考える。ことばにとどまって考えたことだけを書いておく。
ことばにはいろいろなものがある。「太政大臣」「新内流し」。これは「歴史」になってしまったことばである。これを比喩として把握し、そこに「意味」をつけくわえていくことでひとつの「暗喩」が成り立つが、その「意味」を私は解説したくはない。いまの視点からの解釈は、いわゆる修正主義だからね。つまり、なんでも正当化してしまうことができるからね。
一方、「国庫」ということばがある。これは「太政大臣」「新内流し」ということばが世の中に生きていたときも、いっしょに生きていた。そして「太政大臣」「新内流し」「かどづけ」ということばが死んでしまったいまでも(「新内流し」を死んでしまったといってはいけないだろうが、「ストリートミュージシャン」のように生きているとは言えない)、「国庫」は生きている。「国庫」は、なんというか、時間を生き延びている。このことばには解釈はいらない。修正主義に陥らずに、そのままつかえる。
そして、このことば、「いまも生きていることば」が、大げさに言うと、共時性と通時性を交錯させている。細田は「通時性」だけを語るわけではない。また「共時性」だけを語るわけでもない。いつも、それが交錯する。その瞬間に、怒りなのか、軽蔑なのか、悲しみなのか、笑いなのか、私は判断しないが、突然、「肉体」が瞬間的にあらわれて、「概念」というか「意味」を突き破って動く。
ここで、私は「うーむ」とうなる。
ほんとうは、それだけで「批評」になるはずなのだが(私がほんとうに目指しているのはそういうことなのだが)、私は「うーむ」だけで「肉体」を支える度量がないので、ついつい、あれこれと追加する。
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