詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「夕景」

2010-02-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「夕景」(「朝日新聞」2010年02月06日夕刊)

 谷川俊太郎の詩には、いつもはっとさせられることばの動きがある。「夕景」の全行。

たたなづく雲の柔肌の下
味気ないビルの素顔が
夕暮れの淡い日差しに化粧され
見慣れたここが
知らないどこかになる
知らないのに懐かしいどこか
美しく物悲しいそこ
そこがここ

いま心が何を感じているのか
心にも分からない

やがて街はセピアに色あせ
正邪美醜愛憎虚実を
闇がおおらかにかきまぜる

 1連目の「そこがここ」。この行が好きだ。
 この「そこ」は、家人やだれか親しいひとに「それ、とって」というときの「それ」に似ている。「それ」が何であるか、はっきりとわかる。けれど、ふいに、ことばがきえて、それが出てこない。ことばにならないけれど、はっきりとわかるもの。
 「そこがここ」とは、「そこ」と「ここ」が一体になってしまっている、融合してしまっているということだが、ね、ほら「それ、とって」というとき、その「それ」は「私」のなかではぴったり「私」にくっついてしまっている。だからこそ、ことばにならずに「それ」になってしまうのだ。
 ことばにならないものには、そういうものもある。「知らない」というのは「知らない」のではなく、「知りすぎて」、私から切り離せない。分離できないから、「名前」で呼ぶことができないのだ。
 「懐かしい」とは「私」の「からだ(肉体)」にしっかりからみついて分離できないもののことである。分離できないのに、それが肉体のなかでめざめて、肉体をゆさぶる。

知らないのに懐かしいどこか

 それは、たしかに「そこ」としか呼びようがない。この「そこ」は英語の定冠詞「the 」のように、「私」の意識に深くしみついている何かをあらわすのだ。定冠詞「the 」とともにあるような意識--それが「そこ」だ。

いま心が何を感じているのか
心にも分からない

 ああ、そうなのだ。「懐かしい」というのは、かりそめの「感情」。ほんとうは、それをなんと呼んでいいかわからない。「それ」としか言えない。そして、それは前に書いたことの繰り返しになるのだが、「肉体」と一体になっているから、それが何であるか分からないのだ。
 「心にも分からない」の「分かる」というときの文字「分」は「分節」の「分」でもある。「分節」できないもの。だから「分からない」というしかないのだ。「分節」はできないけれど、その存在があることは分かる。
 「分からない」のに「分かる」。
 この矛盾。

 矛盾だけが美しい思想だ、と私は思う。

 最後の行の「闇がおおらかにかきまぜる」は未分節の存在をかきまぜ、そこにいっそう深い渾沌を生じさせる動きのように感じられる。未分節は渾沌。そこにはどんな区別もない。そして、そこから一瞬一瞬、新しい存在が生まれてくる。夕暮れは闇をくぐり、生まれ変わる。--そんなことも考えた。

 


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