監督 マーク・ロマネク 出演 キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ、シャーロット・ランプリング
カズオ・イシグロの小説を読んでいないので原作との比較はできないが、この映画は映画と小説の違いを理解していない。
私はストーリーを気にして映画を見たことはないが、この映画のストーリーを簡単に言うと臓器移植のドナーとして生まれてきたひとの短い生涯と恋愛を描いている。このドナーとして生まれてきた人間というのは小説では可能な「表現」であるが、映画では無理である。そんな人間は、この世界には存在しない。映画にはもちろんこの世界に存在しないものもたくさん登場する。「エイリアン」はその典型だが、それは「人間ではない」ということを前提としている。非・存在だが、非・人間だから、存在するとしても「抽象的存在」ではない。ところが、ドナーとして生まれてきた人間というのは、どこまでいっても「抽象的存在」である。「意味」でしかない。小説は、そういう「意味」を「ことば」として表現できる。けれど、映画は無理である。
なぜ、無理か。
映画は「ことば」ではなく、俳優が動くからである。俳優の「肉体」がそこにあるからである。
映画に則していうと、この作品の中ではドナーたちの感情(魂、こころ)の有無が重要なテーマである。ドナーたちに魂はあるか。こういう抽象的なテーマは「ことば」の上でなら、どんなふうにでも動かしうる。
ところが映画は無理である。「魂」は「肉体」ではなく、いわば抽象的なものだから、映像化されることはないのだが(映画では、芸術にあらわれるものとして表現されるけれど……)、その抽象化のまえに、私たちは役者の肉体を見てしまう。肉体にはどうしてもその「過去」があらわれてしまう。役者の「肉体」は役者の「過去」をどうしても表現してしまう。そしてそこには、どうしても「魂(感情、こころ)」があらわれてしまう。
「魂」があるかないか、ではなく、スクリーンに映った瞬間から、そこには「魂」が存在してしまう。感情が、こころが、存在してしまう。「ことば」で何も語らなくても、「肉体」が「魂(こころ)」の叫びをあらわしてしまう。
だいたい役者という存在が、ことばをつかわずに「過去」と「感情」を語ってしまうものなのである。ことばをつかわずに、その「人間」にリアリティーを与える役者がいい役者である。存在感のある役者である。
映画館で観客は、ドナーという「抽象的存在」(架空の存在)がすでに魂を持っているのを見てしまう。そのあとで、ドナーたちに魂はあるのか、ドナーたちの魂は切り捨てられてしまっていいのか、という「小説のテーマ」をぶつけられても、なぜ、そんなに遅くなってからそんなことが問題になる? そんな疑問にとらわれる。ばかばかしくて、あきれかえってしまう。魂は、最初から役者によってドナーたちに与えられている。
この映画は、映画として根本的に間違っている。映画にならないことを映画にしている。小説の場合は、どんなに具体的に描写されても、それは「ことば」のまま。その「ことば」は読者の想像力の中で初めて「肉体」をもった人間として動く。だから、「魂」の問題も読者が想像力のなかに「魂」の問題をもちこまないかぎり存在しない。その点が映画とは完全に違うのだ。
もし「魂」あるいは「感情」を表現しない役者がいたなら、そういう役者によってこの映画はつくられるべきだ。そうすれば小説に匹敵する作品になるかもしれない。でも、そんなことは最初からできるはずがない。
特に、キャリー・マリガンは完璧に「魂」をもった「肉体」として映画にデビューしてきている。キャリー・マリガンには存在感がある。「過去」がある。それをキャリー・マリガンの「肉体」は最初から具現している。そういう役者が、ドナーに「魂」はあるか、それはどのように救済されるべきかというテーマを演じても、それって、おかいしいでしょ? 前提が完全に間違っているでしょ?
このテーマを「未来」のこととしてではなく、「近過去」を舞台にして描いている点(小説もそうなのかな?)、美しいイギリスの風景(映像がすばらしい)、そしてイギリス特有の「個人主義」(他人のプライバシーは、その人が語らないかぎり存在しないという感覚)、そのなかで形成されていく「肉体」の奥深さ、--おもしろい要素が完璧に描かれれば描かれるほど、こんなふうに「人生」を描かないでくれよ、といいたくなる。
キャリー・マリガンは今回もとてもすばらしく、彼女がすばらしければすばらしいほど、あ、この映画は、でも絶対に小説のことばの美しさには追いつけないのだということがはっきりわかるのだ。
もし幸運にも、この映画がカズオ・イシグロの小説を原作としているということ(小説がすでに存在すること)を知らずにこの映画を見たなら、それはそれで感動するかもしれない。キャリー・マリガンの哀しみに、こころを揺さぶられるかもしれない。でも、たとえその小説を読んでいなくても、小説があるということを知っていたら、そして小説のことばというものがどんなふうに動くものであるかを知っていたら、この映画はとんでもない間違いをしていることに絶対に気がつく。
映画にはむかない小説(ことばの運動)というものがあるのだ。そういう意味では、カズオ・イシグロの小説は小説でしかありえない何事か実現しているのだから、大傑作ということになる。小説を読んではいないのだが、映画を見て、あ、この小説はすごい--と実感できる。小説のすごさを知らせるためにつくられた映画ということになるかもしれない。
(2011年04月12日、KBCシネマ2)
カズオ・イシグロの小説を読んでいないので原作との比較はできないが、この映画は映画と小説の違いを理解していない。
私はストーリーを気にして映画を見たことはないが、この映画のストーリーを簡単に言うと臓器移植のドナーとして生まれてきたひとの短い生涯と恋愛を描いている。このドナーとして生まれてきた人間というのは小説では可能な「表現」であるが、映画では無理である。そんな人間は、この世界には存在しない。映画にはもちろんこの世界に存在しないものもたくさん登場する。「エイリアン」はその典型だが、それは「人間ではない」ということを前提としている。非・存在だが、非・人間だから、存在するとしても「抽象的存在」ではない。ところが、ドナーとして生まれてきた人間というのは、どこまでいっても「抽象的存在」である。「意味」でしかない。小説は、そういう「意味」を「ことば」として表現できる。けれど、映画は無理である。
なぜ、無理か。
映画は「ことば」ではなく、俳優が動くからである。俳優の「肉体」がそこにあるからである。
映画に則していうと、この作品の中ではドナーたちの感情(魂、こころ)の有無が重要なテーマである。ドナーたちに魂はあるか。こういう抽象的なテーマは「ことば」の上でなら、どんなふうにでも動かしうる。
ところが映画は無理である。「魂」は「肉体」ではなく、いわば抽象的なものだから、映像化されることはないのだが(映画では、芸術にあらわれるものとして表現されるけれど……)、その抽象化のまえに、私たちは役者の肉体を見てしまう。肉体にはどうしてもその「過去」があらわれてしまう。役者の「肉体」は役者の「過去」をどうしても表現してしまう。そしてそこには、どうしても「魂(感情、こころ)」があらわれてしまう。
「魂」があるかないか、ではなく、スクリーンに映った瞬間から、そこには「魂」が存在してしまう。感情が、こころが、存在してしまう。「ことば」で何も語らなくても、「肉体」が「魂(こころ)」の叫びをあらわしてしまう。
だいたい役者という存在が、ことばをつかわずに「過去」と「感情」を語ってしまうものなのである。ことばをつかわずに、その「人間」にリアリティーを与える役者がいい役者である。存在感のある役者である。
映画館で観客は、ドナーという「抽象的存在」(架空の存在)がすでに魂を持っているのを見てしまう。そのあとで、ドナーたちに魂はあるのか、ドナーたちの魂は切り捨てられてしまっていいのか、という「小説のテーマ」をぶつけられても、なぜ、そんなに遅くなってからそんなことが問題になる? そんな疑問にとらわれる。ばかばかしくて、あきれかえってしまう。魂は、最初から役者によってドナーたちに与えられている。
この映画は、映画として根本的に間違っている。映画にならないことを映画にしている。小説の場合は、どんなに具体的に描写されても、それは「ことば」のまま。その「ことば」は読者の想像力の中で初めて「肉体」をもった人間として動く。だから、「魂」の問題も読者が想像力のなかに「魂」の問題をもちこまないかぎり存在しない。その点が映画とは完全に違うのだ。
もし「魂」あるいは「感情」を表現しない役者がいたなら、そういう役者によってこの映画はつくられるべきだ。そうすれば小説に匹敵する作品になるかもしれない。でも、そんなことは最初からできるはずがない。
特に、キャリー・マリガンは完璧に「魂」をもった「肉体」として映画にデビューしてきている。キャリー・マリガンには存在感がある。「過去」がある。それをキャリー・マリガンの「肉体」は最初から具現している。そういう役者が、ドナーに「魂」はあるか、それはどのように救済されるべきかというテーマを演じても、それって、おかいしいでしょ? 前提が完全に間違っているでしょ?
このテーマを「未来」のこととしてではなく、「近過去」を舞台にして描いている点(小説もそうなのかな?)、美しいイギリスの風景(映像がすばらしい)、そしてイギリス特有の「個人主義」(他人のプライバシーは、その人が語らないかぎり存在しないという感覚)、そのなかで形成されていく「肉体」の奥深さ、--おもしろい要素が完璧に描かれれば描かれるほど、こんなふうに「人生」を描かないでくれよ、といいたくなる。
キャリー・マリガンは今回もとてもすばらしく、彼女がすばらしければすばらしいほど、あ、この映画は、でも絶対に小説のことばの美しさには追いつけないのだということがはっきりわかるのだ。
もし幸運にも、この映画がカズオ・イシグロの小説を原作としているということ(小説がすでに存在すること)を知らずにこの映画を見たなら、それはそれで感動するかもしれない。キャリー・マリガンの哀しみに、こころを揺さぶられるかもしれない。でも、たとえその小説を読んでいなくても、小説があるということを知っていたら、そして小説のことばというものがどんなふうに動くものであるかを知っていたら、この映画はとんでもない間違いをしていることに絶対に気がつく。
映画にはむかない小説(ことばの運動)というものがあるのだ。そういう意味では、カズオ・イシグロの小説は小説でしかありえない何事か実現しているのだから、大傑作ということになる。小説を読んではいないのだが、映画を見て、あ、この小説はすごい--と実感できる。小説のすごさを知らせるためにつくられた映画ということになるかもしれない。
(2011年04月12日、KBCシネマ2)
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それぞれ、いろんなことがあって、散り散りになったりもするけれど、
こうしてぱんちゃんに再会できたおかげで、
またいずれ、再会のチャンスもきっとあるだろう、
と確信できたので嬉しいですよぅ~。
紹介記事も拝見しました!
「そうだそうだ、ぱんちゃんはすごいんだぞ!」、と、
まるで自分の手柄みたいにコーフンしました(笑)。
元気だったんですねえ。みんな元気かなあ。
私はとんでもないビジターと出くわし、「panchan world」の投稿者にまでいろいろなメールがゆくようになったので、ブログに切り換えました。
昔の仲間がいろいろな感想をコメントしてくれるとうれしいなあ。
ここで書いてるよ、とみんなに宣伝してね。
http://myleonie.jugem.jp/?eid=978738
に、私の記事が紹介されています。
リンクページの整理をしていて、ぱんちゃんのブログ発見!!
思わず感動がこみあげました。
しかも、これはとても気になってる映画だったので、ぱんちゃんの記事はとても参考になりました。
ぱんちゃんの切り口はやっぱしすごいな~。
とりあえず、私は小説を読まないと!!!です。