詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水下暢也「あかり」

2019-05-19 23:34:30 | 詩(雑誌・同人誌)
水下暢也「あかり」 (「現代詩」2019、2019年04月30日発行)

 水下暢也「あかり」はH氏賞を受賞した『忘失について』のなかの一篇。全行を引用する。

弓張りの霊光は
明かり取りに絡めとられた形で
きざはしにかけた左足と
手摺をたのんだ左手の力を緩めてゆく内に
雲に遮られたのか
かいなをひいてゆき
半ば影絵となった
物腰の硬い立ち姿が
踊り場の手前で往生し
夜陰にうっすらと
影だけが見えると話にきかされた
顔鳥の一頻り啼くのを縁にして
きざはしを上がり
ふたたびの光が肩にかかって
間近の一声のあと
暗闇は翡翠の尾を垂れ
逃げていった

 さて、これをどう読むべきか。
 「叙述」にこそ詩があるという書き方が、最近は、とても多いと思う。そして、とても「評価」が高い。
 重要なのは「意味(内容)」よりも「叙述」というのは、たしかにその通りだと思うのだが、その「叙述」で水下は何に抵抗しようとしているのか。ほかの多くの詩人でもそうなのだが、私は疑問に思っている。
 なぜ疑問かといえば、その「叙述」が「動詞」に重点があるのではなく、むしろ「現代語」ではないことばのつらなりにあるからだ。これでは「叙述」ではなく「意味」である、と私には感じられる。「意味」をわかりにくくしているだけであって、「意味=対称(主語)」をそのまま踏襲している。一種の「先祖返り」に思える。
 こういう抽象的な批判はよくないのだが。
 そしてこれから書く「比喩」は水下にとっては「暴言」に聞こえるかもしれないが。
 私には、この奇妙な「先祖返り」は、安倍の進めている「改憲」の本質にとても似ているように感じられる。「動詞」を「名詞」に置き換え、「名詞」によって「世界」を統一するという「先祖返り」。「名詞」の「頂点」に「天皇(家長)」があり、「存在の意味」によって「世界」を統一する。そういう方法に似ていると感じる。
 一行目。「弓張りの霊光」ということば。「弓張り」は「弓張り月」のことだろうか。私は、こんなことばをつかわない。私の周りのひとがつかっているのも聞いたことがない。「霊光」になると、これは、聞いたことも読んだこともない。
 知らない人間、無知な方が悪いのだといわれればその通りだが、知らないことばをつかう人は、たいてい「知らないものは黙っていろ(命令に従え)」ということを私は経験として知っている。ある種の人は、他人を支配するために、ひとのつかわないことばをつかう、ということを知っている。だから私は、そういうことばをつかう人間を疑う。
 脱線した。
 「霊光」は「漢字」をたよりに推測すれば「幽霊の光」(まさか!)「霊魂の光」「霊の光」、つまり「現実」に存在するというよりも意識によって存在させられる光なのだと思うが、そのときの「存在させる意識」(精神)というものの動きが、私に言わせれば、さらにうさんくさい。
 たとえば「iPS細胞」というものがある。これは、つい最近までは存在しなかった。存在していたけれど、わからなかった。でも「科学の力」で存在させることができるようになった。発見、発明。そういうものが現代にはたくさんあるが、そういう「存在のさせ方」とは「方法」が完全に違う。「いま」ある何かをつかって「存在させる」(発見する、発明する)という「動詞(生き方)」が動いていない。
 かつてあった「ものの見方」を再利用している。言い方を変えれば、復活させている。あるいは「ルネッサンス」を行っているとも言えるのだが、それはほんとうに「古典」の「再評価」なのかなあ、と疑問に思う。
 忘れていたものが再び登場してくるので、「感性」としては瞬間的に「新鮮」に見えるけれど、それは「発見/再発見」なのか。「先祖返り」なのか。
 「古語」を「叙述」として復活させることで、現代をどういう方向に動かしていこうとしているのか。
 どうも、「自己保存」の「鎧」として利用しているのではないのか、という気がする。加速する「先祖返り」の風潮にあわせ、「鎧」をまとい、そのなかに「一体化」する。そうすることで生きていく、という若者の姿を見る感じがする。それが安倍と、安倍を支持することで「出世」しようとする若者の姿と重なって見える。

 いま起きているさまざまな社会現象と重ね合わせると、まさに「現代」そのものになるのかもしれない。でも、私は「現代」を、そういう形では受け入れたくない。「現代」とそういう形では向き合いたくない。





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忘失について
水下 暢也
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