詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)

2014-04-24 10:59:57 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)

五 詩人の眼鏡

詩人の目と対象との間にはいつも詩人のヘルメス的な眼鏡の玉が割り込んでいる。詩人の眼鏡は、きめこまかに気くばりしながらどこか心ここにあらずのさまで、手抜きせずに知らべあげながらぽっと抜けている。超脱した無私のガラスの砦だ。防壁でもあり監視所でもある。対象をあか裸にする鋭い詩人の神秘の眼光を取り巻く二つの水のみちだ。いや、天秤の二つの皿というほうがいい。しかし、天秤は、どうしてだろう、垂直に下がってはいない。横に寝ている天秤だ。水平の天秤は虚空しか載るまい。そして虚空を知ることしか。一糸まとわぬ天秤、水晶の天秤、きらめく光をちりばめた天秤。だが、かがやく鏡の上に映る、詩人の内面と外面との幻想のかずかずの重なりは、均衡と統一とを見せ、実に具体的、実に堅固で、空虚全体を反駁している。

 リッツォスがとらえるカヴァフィス像。「きめこまかに気くばりしながらどこか心ここにあらずのさまで、手抜きせずに知らべあげながらぽっと抜けている。」気配りと放心(ぼんやり)、厳密(手抜きしない)と抜けている(ぼんやり)という矛盾(両極端)が共存する。この指摘はたしかにそのとおりだと思う。リッツォスのことばには「心ここにあらず」とか「抜けている(ぼんやり)」という感じはない。いつも張り詰めて緊張している。これに対しカヴァフィスは主観的でありすぎる。だから、カヴァフィスの主観に動かされる姿勢が、リッツォスには「抜けている」ように見える。「ぼんやり」に目が止まってしまうのだ。
 カヴァフィスのげみつさと手抜きの両極端の共存を理解するためにリッツォスは不思議な比喩を持ち出している。「天秤」。これは直接的には眼鏡の形から思いついた比喩だが、ここにもリッツォスの視覚詩人という側面が反映している。天秤というのは重さの違いを視覚で判断する(どちらが下がっているかを見て判断する)ものだが、眼で判断できることがリッツォスにとっては重要なのだ。
 私の印象ではカヴァフィスは眼よりも耳の詩人、他人の声を聞く詩人だが、リッツォスは肉声を聞きとることが苦手な詩人である。またあたたかいとかつめたいとか、視覚であらわすことのできない触覚のなかでおぼれるようにして自己を確認することも苦手な詩人である。ぼんやりしたもの、あいまいなものが苦手で、そういうものを語ろうとするとことばは抽象的で硬質になってしまう。「詩人の内面と外面との幻想のかずかずの重なりは、均衡と統一とを見せ、実に具体的、実に堅固で、空虚全体を反駁している。」という漢字熟語が次々に出てくるような部分に、それが濃厚にあらわれている。



六 避難所

「表現とは」と詩人は言った。「何かを語るという意味ではない。とにかくことばを話せばいい。話すということはきみをくまなくみせることだ。話すにはどうすればいいかって?」。続く詩人の沈黙は次第に透明となっていった。ついに詩人はカーテンの陰に隠れた。窓の外を見ているふりをした。だが、われわれの視線を背中に感じると、詩人はふりむいて顔をカーテンの陰からのぞかせた。まるで白い長衣を身にまとっているようだった。詩人はけっこう楽しんでいたが、どこか時代おくれの感じがした。それが詩人の目論見だった(そのほうがいいと思ったというか)。おそらく、こうすれば、何とかわれわれの疑惑を、敵意を、憐愍をそらせられると思ったのだ。それとも、将来詩人を賛美する手がかりをわれわれに授けておこうと思ったのか(いつかは賛美されるとは詩人の予言だった)。

 ここにも、リッツォスとカヴァフィスの違いがあからさまにあらわれている。
 「話す」はたしかにカヴァフィスの本質である。カヴァフィスの詩には「話された本音」が動いている。カヴァフィスはいつでも詩の登場人物に本音(主観)を語らせる。そして、けっして「沈黙」させない。「声」を出さないときは「肉体」そのものがことばをしゃべる。目つきや手つき、身振りがことばでは言えないことを語る。カヴァフィスにあっては「沈黙」は「透明」にならない。沈黙は澱みのように濁り、その濁りが発する熱や匂いが周辺にただよう。
 この身体の周辺にただようことばにならない「感触」をリッツォスはことばにできない。
 だから、ここでも「沈黙」した詩人の姿は、「われわれの視線を背中に感じると、詩人はふりむいて顔をカーテンの陰からのぞかせた。」と逆方向から書かれる。カヴァフィスを見てリッツォスが何かを感じる前に、カヴァフィスがリッツォスの視線を感じて振り向くという行動をとる。他者が発している肉体のことば(視線)を感じる能力はカヴァフィスの方が強いのである。
 カヴァフィスの反応を「見て」、それからリッツォスのことばは動く。「白い長衣」という視覚からはじまり、やがて「何かとわれわれの疑惑を、敵意を、憐愍をそらせられると思ったのだ」という憶測へことばは動いていくが、「疑惑」「敵意」「憐愍」というようなものはカヴァフィスが発しているものではなく、リッツォスの頭の中にあることばだろう。リッツォスが頭の中にあることばを、カヴァフィスに押し当て、それを「輪郭」として提出している。「思った」というのは、そういうことである。カヴァフィスの「肉体」からあふれてくるのを感じたのではない。リッツッスが考えたことを、カヴァフィスににあてはめているのだ。



七 かたちについて

詩人は言った、「かたちは頭で発明するものでも、外から押しつけるものでもない。その素材の中に含まれているものである。内部から外部へと出ようともだえる運動をみて、かたちがはっとわかることもある」。「平凡ですね」とわれわれは言った、「つかみどころのない言葉ですね。何をいわんとしておられるのですか」。詩人はもう語らなかった。おとがいを両手でくるみこんで支えた。一つの単語を二つの疑問符で挟んだみたいだった。詩人の紙巻煙草は結んだ口に残る。吸うとも消すともどっちつかずの煙草は、火のついた白いアンテナだ。「・・・」の代わりだ。詩人が書き止む時、ただ書き止むのでなくて至るところに組織的に残してゆく三つの点の代わりだ。(それともあれは無意識だろうか)。

このさまを見ているとおぼろげに見えてくる。詩人が小さな駅の待合室で徹夜している姿だ。待合室は冬の夜など旅客が袖すりあうところ、石炭の匂いの漂ってくるところだ。その匂いはどこから漂ってくるのだろう。旅の果てしなさからか。旅客たちの長年のひそかな馴染みゆえのおたがいのおしゃべりの間からか。今、汽車の煙が静かに立ち昇っている。二つのヘッドライトのつくる二つの水平の円錐の上方に、煙は濃く、重く、押し詰まって、細かい壁まで彫刻のようだ。二つの別れと別れとの間。詩人は紙巻煙草を消して立ち去る。

 ここに書かれるカヴァフィスが実像なのかどうかわからない。リッツォスならではのカヴァフィスという感じがする。「かたちは頭で……」はアリストテレスのことばだが、カヴァフィスはこんなふうに他人の語った「意味」をことばにはしない。少なくとも詩の登場人物に「意味(客観)」を語らせることはない。カヴァフィスは詩の登場人物に「客観」ではなく「主観」をしゃべらせる。本音をしゃべらせ、声を聞かせる。「意味」なんて、どうでもいい。
 「主観」はときとしてつかみどころがないが、それは「頭」でつかみとろうとするからつめないのであって、感覚でならつかむことができる。「意味」はわからなくても、悔しいんだ、妬んでいるんだというような感情(欲望)がわかることばをカヴァフィスは人間にしゃべらせる。
 視覚詩人のリッツォスは、そういうことが苦手だ。リッツォスが得意なのは、視覚と抽象的なことばの結合である。「おとがいを両手でくるみこんで支えた。一つの単語を二つの疑問符で挟んだみたいだった。」この比喩はリッツォスの発明だ。カヴァフィスはこういうことができない。しようともしない。
 「このさまを見ているとおぼろげに見えてくる。」はリッツォスの基本的な姿である。見ていると見えてくる。見ているとわかってくる。逆に言えば見えないとわからない。これがリッツォスである。そして、「見る」から「わかる」までの間には時間がある。「見る」と「わかる」の間の時間を抽象的なことばで埋めて、「見る/見える」を「わかる」に変える。
 カヴァフィスは、そういう間接的なことばの動かし方をしない。世界のつかみ方をしない。「見る」をつかうとすれば「見ればわかる」という形だろう。二つの動詞はぴったりとつくっついている。融合している。余分な概念で「見る」と「わかる」をつなぐ必要がない。
 リッツォスは、何かと融合するとすれば、それは「孤独」とだけ一体になる。ほかのものとは一体にならない。


八 誤解

詩人のこの曖昧さは我慢ならないな。この曖昧さはぼくらを試しているんだ。詩人自身も試されているわけだけれど。詩人の曖昧さはむろん本心ではない。詩人の躊躇も、怯惰も、確固たる信念の欠如も。きっと、ぼくらを詩人の錯雑たる世界に巻き込もうとしているのだ。詩人は眼差しをはるかに遣る。こころの広い、鷹揚なひとに見える。(甘やかされたひとのようでもある)。真白なシャツに薄いグレイの完璧なスーツ。ボタンの孔に菊が一輪。だが詩人が立ち去った後、詩人の立っていた箇所の床に、ぼくらは小さな明るい赤色の水たまりを見てしまう。美しい素描き。きっとギリシャの地図みたいだ。地球の縮図だ。陸と海の切れ込み具合はいいんだが、国境線はずいぶんあやふやだ。国境は色の一様さのためにないも同然ではないか。七月という月、生徒たちが皆、目くるめく浜に去って、しっかりと戸を閉めた白い学校の地球儀だ。

 これは、とてもおもしろい。「詩人のこの曖昧さは我慢ならないな。」とリッツォスは率直に書いている。私は、しかしカヴァフィスのあいまいさが大好きだ。あいまいさのなかにずぶずぶとひきこまれてゆき、身動きがとれなくなる。おぼれるしかない。そういう時にカヴァフィスの詩を読む愉悦を感じる。「詩人の曖昧さはむろん本心ではない。詩人の躊躇も、怯惰も、確固たる信念の欠如も。」とリッツォスは書くが、私は逆に感じている。すべてが「本心」である。「主観(本能)」である。
 (甘やかされたひとのようでもある)と括弧でくくられている部分に、私はカヴァフィスを見る。カヴァフィスの美しさは甘やかされて育った人間の美しさだ。本能、欲望が抑圧されていない。禁忌によって傷ついていない。その、のびやかな輝きが艶っぽい粘着力になって私を誘う。リッツォスは逆に抑制に耐えて生き延びた本能の孤独で私を魅了する。。
 この詩にはまったくわからないところがある。「詩人の立っていた箇所の床に、ぼくらは小さな明るい赤色の水たまりを見てしまう。」の「赤色の水たまり」が何なのかわからない。比喩なのか。「素描き」「ギリシャの地図」という表現が続くから、ギリシャの現実と何か関係するのだと思う、想像がつかない。

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