田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」(3)(思潮社、2014年03月30日発行)
詩集の後ろの方に「訳詩」が載っている。田原が訳した詩ではなく、田原が中国語で書いたものを日本人が訳したもの。それを読みながら、そうか、田原の日本語と日本人の日本語はこんなに違うのか、と思った。
というのは変な書き方で……。
財部鳥子訳の「汽車が長江を渡る」を読んだとき、私は、そこに漢詩の翻訳の音楽を感じた。財部は田原の漢詩を訳しているのだから、そこに漢詩の翻訳の音楽があると書いたのでは、何の説明にもならないかもしれないが。
なんといえばいいのだろう。日本の漢詩翻訳の音楽が踏まえられていて、財部の訳は「現代詩」という感じから少しずれている。「古典」っぽい。出てくるものはたしかに「現代」のものが出てくるのだが、ことばとことばが通い合うときの「音楽」がいままでの漢詩翻訳の音楽に似ている。漢詩のもっている、静かな美しさを引き継いでいるように感じられる。
それは田原の書いている日本語の「音楽」とはまったく違う。田原の音楽はもっと激しい音に満ちている。静かさとは違う音楽が貫いていると思う。
そのために、これが田原の詩である、と私には感じられない。財部鳥子の詩そのものとして耳に聴こえてくる。
財部の日本語には「開放感」、いや、何か「ゆったりしている」感じ、「ゆるい」感じがある。
漢詩(定型詩)には凝縮と開放のぶつかりあいがあって、それがとてもおもしろいが、財部は「開放感」を「ゆったり(広がり)」に置き換える感じで日本語にしていると思う。ここには、漢詩(古典)の日本語の印象がずいぶん反映していると思う。
書き出しの「私はずっと立ったまま車窓から見ていた 東を向いて」の、1字あきのあとの「東を向いて」ということばのほうりだし方が特徴的だ。(もとの詩を読まずに、私は書いているのだから、私の印象はいいかげんなものだが……。)田原が最初から日本語で書いていたら、こういう「広く、ゆったりした感じ」はないだろうと思う。もっと「切断力」が強く、同時に「粘着力」がある。「東を向く」という動詞が、きびしく動く。東を向いているが東へ進むのではないという感じが強くなる。去っていく、去ることを余儀なくされるという感じが強くなると思う。
財部の訳にはきびしい何かが書けている。中国の古典の詩人たちの「左遷」のときの「感慨」の調子で、この書き出しを訳している。「左遷」なのだけれど、そこには「文学」の夢があるというような「古典」の感じ、静かな音楽でことばを統一している。「照らす」ではなく「照らしている」、「満載する」ではなく「満載している」という、動詞を直接活用させるのではなく「している」と「状態」にして訳出することで、なんというのだろうか、「動詞(左遷する)」を弱めている。弱めることで、そこに「静か/あるいはさびしい」が入ってくるのを赦している。抒情が紛れ込むのを赦している。
「東を向いて」も「東を向いている」という感じで財部は訳している。この動詞を状態として訳出する感じが、どうも、田原っぽくない。
「一艘の船」の「一」に田原の強くきじしいこころ、孤独が反映していると思うのだが、財部の訳ではきびしさがつたわって来ない。「一」が行頭にあって、長いことばにのみこまれてしまうからかもしれない。「一」ではなく「満載」の「満」に意識が動いてしまう。「一」と「満」が「対」になりきれず、「満」のなかに吸収されてしまう。
この「未知なる風景」が、財部の訳では何か「未知」のもののきびしさを感じさせない。古典の「左遷」では「未知」は「未知」であっても、何かしらの情報があって、それが左遷される詩人に一種の「文学の夢」を与えた。田原の「西へ向かう」とそれとは違うのではないだろうか。田原には、それはほんとうに「未知(まったくわからない)」という状態ではないのか。そのきびしい不安が、財部の訳からはつたわって来ない。
この天と大地の向きあい方も「している」という「状態(静止)」のことばによって、なにか静かなものになってしまっている。
うーん、違うぞ、と感じてしまう。
これは桑山龍平の翻訳でも感じることである。「作品第一号」。
「保っている」「九メートルである」という動詞の「静止性」が、どうも田原の呼吸とは違うと感じる。
この「発散している」も「静止」だ。この動詞がどうも、私には田原らしく感じられない。
反対に、「清香」というのは田原のつかっている熟語(?)なのだろうと思うが、その「清香」という熟語には、私は、田原を強く感じる。「清香」ということばを私は知らないが、意味はわかる。「清い香り」(前の行に出てくる)。「清香」と熟語にしてしまうと「名詞」に見えて、静止している感じがするかもしれないが、私にはこのことばは「名詞」ではない。また、静止ではない。
「清香」を読んで私が感じるのは、「清く香る(動詞)」か、「香りが清い(用言)」であり、それは動いている。静止していない。だから田原を感じる。
それが「動く」ものであるからこそ、九メートルという動かない距離と「対句」になる。静止していては「対」にはならず、並んでしまう。そこが、田原のことばになりきれていない。
最初の引用の「九メートルである」というのも「九メートル」が静止しているのではない。動くことで「九メートルを維持する」というのが田原のことばの運動だと思う。「同じ」に見えるもののなかに「動き」がある。
それが桑山の日本語では出て来ない。
うーん、と私は考え込んでしまう。
しかし、私は財部の翻訳や、桑山の翻訳が間違っているとか、悪いといいたいのではない。そうではなくて、ただ、田原が書いている日本語から感じるものと、財部、桑山の翻訳から感じるものは、私の中では一致しないといいたいのである。田原のことばは、「静的」ではなく「動的」である。「動詞」に対する向き合い方が違う思う。
これはしかし、田原の日本語を知っているから感じることであって、田原の書いている日本語を読まずに、財部や桑山の訳をはじめて読むのだったら、こいう印象にはならないかもしれない。
詩集の後ろの方に「訳詩」が載っている。田原が訳した詩ではなく、田原が中国語で書いたものを日本人が訳したもの。それを読みながら、そうか、田原の日本語と日本人の日本語はこんなに違うのか、と思った。
というのは変な書き方で……。
財部鳥子訳の「汽車が長江を渡る」を読んだとき、私は、そこに漢詩の翻訳の音楽を感じた。財部は田原の漢詩を訳しているのだから、そこに漢詩の翻訳の音楽があると書いたのでは、何の説明にもならないかもしれないが。
なんといえばいいのだろう。日本の漢詩翻訳の音楽が踏まえられていて、財部の訳は「現代詩」という感じから少しずれている。「古典」っぽい。出てくるものはたしかに「現代」のものが出てくるのだが、ことばとことばが通い合うときの「音楽」がいままでの漢詩翻訳の音楽に似ている。漢詩のもっている、静かな美しさを引き継いでいるように感じられる。
それは田原の書いている日本語の「音楽」とはまったく違う。田原の音楽はもっと激しい音に満ちている。静かさとは違う音楽が貫いていると思う。
そのために、これが田原の詩である、と私には感じられない。財部鳥子の詩そのものとして耳に聴こえてくる。
私はずっと立ったまま車窓から見ていた 東を向いて
昇る朝日が長江を赤々と照らしている
水も砂も泥も岸辺の草木も
一艘の船はあたかも陽光と霧だけを満載しているみたいだ
江の中の 重い逆流は
西へと向かい 這いずる愚かな亀のように
私を乗せた列車は轟音を鳴り響かせて橋を越えようとしている
私の未知なる風景へと向かって西へと 走って行く
船の煙突が吐き出す煙の広がりは
天を低くし大地を圧している
船の運命は太陽と同じく
いま西の空 長江の上流に沈んでゆく
財部の日本語には「開放感」、いや、何か「ゆったりしている」感じ、「ゆるい」感じがある。
漢詩(定型詩)には凝縮と開放のぶつかりあいがあって、それがとてもおもしろいが、財部は「開放感」を「ゆったり(広がり)」に置き換える感じで日本語にしていると思う。ここには、漢詩(古典)の日本語の印象がずいぶん反映していると思う。
書き出しの「私はずっと立ったまま車窓から見ていた 東を向いて」の、1字あきのあとの「東を向いて」ということばのほうりだし方が特徴的だ。(もとの詩を読まずに、私は書いているのだから、私の印象はいいかげんなものだが……。)田原が最初から日本語で書いていたら、こういう「広く、ゆったりした感じ」はないだろうと思う。もっと「切断力」が強く、同時に「粘着力」がある。「東を向く」という動詞が、きびしく動く。東を向いているが東へ進むのではないという感じが強くなる。去っていく、去ることを余儀なくされるという感じが強くなると思う。
財部の訳にはきびしい何かが書けている。中国の古典の詩人たちの「左遷」のときの「感慨」の調子で、この書き出しを訳している。「左遷」なのだけれど、そこには「文学」の夢があるというような「古典」の感じ、静かな音楽でことばを統一している。「照らす」ではなく「照らしている」、「満載する」ではなく「満載している」という、動詞を直接活用させるのではなく「している」と「状態」にして訳出することで、なんというのだろうか、「動詞(左遷する)」を弱めている。弱めることで、そこに「静か/あるいはさびしい」が入ってくるのを赦している。抒情が紛れ込むのを赦している。
「東を向いて」も「東を向いている」という感じで財部は訳している。この動詞を状態として訳出する感じが、どうも、田原っぽくない。
「一艘の船」の「一」に田原の強くきじしいこころ、孤独が反映していると思うのだが、財部の訳ではきびしさがつたわって来ない。「一」が行頭にあって、長いことばにのみこまれてしまうからかもしれない。「一」ではなく「満載」の「満」に意識が動いてしまう。「一」と「満」が「対」になりきれず、「満」のなかに吸収されてしまう。
私の未知なる風景へ向かって西へと 走っていく
この「未知なる風景」が、財部の訳では何か「未知」のもののきびしさを感じさせない。古典の「左遷」では「未知」は「未知」であっても、何かしらの情報があって、それが左遷される詩人に一種の「文学の夢」を与えた。田原の「西へ向かう」とそれとは違うのではないだろうか。田原には、それはほんとうに「未知(まったくわからない)」という状態ではないのか。そのきびしい不安が、財部の訳からはつたわって来ない。
天を低くし大地を圧している
この天と大地の向きあい方も「している」という「状態(静止)」のことばによって、なにか静かなものになってしまっている。
うーん、違うぞ、と感じてしまう。
これは桑山龍平の翻訳でも感じることである。「作品第一号」。
馬と私は九メートルの距離を保っている
馬は木の杭に繋がれ また
馬車につけられて遠い遠いところへ行くが
馬と私の距離はいつも九メートルである
「保っている」「九メートルである」という動詞の「静止性」が、どうも田原の呼吸とは違うと感じる。
多くの草が枯れてしまっても
馬はまだ咀嚼しながら清い香りを発散している
その清香も私から九メートルだ
この「発散している」も「静止」だ。この動詞がどうも、私には田原らしく感じられない。
反対に、「清香」というのは田原のつかっている熟語(?)なのだろうと思うが、その「清香」という熟語には、私は、田原を強く感じる。「清香」ということばを私は知らないが、意味はわかる。「清い香り」(前の行に出てくる)。「清香」と熟語にしてしまうと「名詞」に見えて、静止している感じがするかもしれないが、私にはこのことばは「名詞」ではない。また、静止ではない。
「清香」を読んで私が感じるのは、「清く香る(動詞)」か、「香りが清い(用言)」であり、それは動いている。静止していない。だから田原を感じる。
それが「動く」ものであるからこそ、九メートルという動かない距離と「対句」になる。静止していては「対」にはならず、並んでしまう。そこが、田原のことばになりきれていない。
最初の引用の「九メートルである」というのも「九メートル」が静止しているのではない。動くことで「九メートルを維持する」というのが田原のことばの運動だと思う。「同じ」に見えるもののなかに「動き」がある。
それが桑山の日本語では出て来ない。
うーん、と私は考え込んでしまう。
しかし、私は財部の翻訳や、桑山の翻訳が間違っているとか、悪いといいたいのではない。そうではなくて、ただ、田原が書いている日本語から感じるものと、財部、桑山の翻訳から感じるものは、私の中では一致しないといいたいのである。田原のことばは、「静的」ではなく「動的」である。「動詞」に対する向き合い方が違う思う。
これはしかし、田原の日本語を知っているから感じることであって、田原の書いている日本語を読まずに、財部や桑山の訳をはじめて読むのだったら、こいう印象にはならないかもしれない。
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