詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(24)

2014-04-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(24)          

 「総督領」には「きみ」という人物が登場する。「きみ」は「総督領」の長官に任命される。それに対して詩人は「それでいいのかい? きみはそれで満足なのかい?」と問う。総督領の長官はだれにでも手に入れることのできる地位ではないのだけれど……。

あんまりだ。
きみは偉大な 高貴な行為のために
造られた人間じゃないか。

 「偉大な 高貴な行為」を「詩人(芸術家)」あるいは「学者」と考えると、カヴァフィスの書いていることがわかる。政治は偉大な仕事、高貴な仕事ではない。これは間接的にカヴァフィスが、自分の仕事は偉大、高貴な行為であるということになるのだが。
 こういうことを正面切っていうのではなく、仲間うちの口語で語るところがカヴァフィスの特徴である。仲間うちの口調であることによって、「政治の高官は偉大な仕事ではない」という認識が仲間のあいだで共有されていることがわかる。カヴァフィスには仲間がいる。カヴァフィスは、一対一の関係のなかでことばを動かしているのではなく、常に他人を含めた関係のなかでことばを動かしている。ことばに自分以外の、他者の認識(過去)を反映させている。そのために、そこで動くことばがドラマチックになる。「いま」を語っているのに、その「いま」に複数の「過去」が噴出してくる。

きみの魂が焦がれ泣くのは別のもの。
地区民とソフィストの称賛だ。
こりゃあ得難い極み。金で測れない値打ちの願いさ。
アゴラ、劇場、月桂樹のかんむり--、
どれもアルタクセルクセスからは得られない。
どもも総督領にゃない。
それなしでどんな人生を送る気だい?

 「魂」が満足するのは、魂が発することばへの称賛である。詩人はそれなしでは生きられない。これは同類(詩人)からの、同類の人間に対する告白でもある。カヴァフィスは自分自身を語っている。自分と「きみ」とを区別していない。それが口調となって表現されている。中井久夫は、そういう人間関係を口調によって訳出している。
 「魂」ということばは、この詩のなかでは抽象的で、何か浮き立って見えるかもしれないが、そういうことばが浮き立つのはまったくの他人の関係のときである。何度も語り合い、親しい間柄なら、抽象的な言語に対しても共通の認識がある。
 カヴァフィスはだれとどんなことばを共有し、だれとどんなことばを共有していないかを識別してことばを動かしている。中井久夫はそれを向き合いながら、詩人のこころのなかで起きている「こと」を描いている。
 「きみ」なしでは、この市も私もさびしいよ、と間接的に語っている。

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