長嶋有
『夕子ちゃんの近道
』(新潮社、2006年04月30日発行)
第1回大江健三郎賞の受賞作。連作。「夕子ちゃんの近道」について大江健三郎は
を取り上げて、受賞の決め手にしたというようなことをどこかの新聞で語っていた。
「なんと呼ぶかわからないが」。
この節はほんとうにおもしろいと思う。普通、小説は「なんと呼ぶかわからないが」というものを「地」には書かない。書いていない。読者が知っていようが知るまいが、無関係に製品名を書く。知らなければ読者が調べればいいのである。
「なんと呼ぶかわからないが」がそのまま「地」の部分になっているということは、それが実は主人公の「視点」をそのまま反映しているからだ。そして、その「視点」の反映のさせ方が自然なのだ。主人公にもわからないことはたくさんある。それをわからないということばそのままに取り込み、そのときにできる主人公と世界との距離(尺度)を一定に守り続ける。そこから独自の世界がひろがりはじめる。
たしかに象徴的な文章だと思う。
ほかの作品を読んだことがないのではっきりしないが、「地」に主人公の感覚をそのまま持ち込むときの手法が少し風変わりなのは長嶋の特徴かもしれない。
会話の部分も独特の書き方をしている。
普通は、
と書くだろう。主人公の話したことばをわざわざ「 」の外へ出したりはしないだろう。
主人公は、実際に声に出したのはどこまでなのだろう。
作者が「 」のなかに入れていることばが実際に声になったことばであり、「 」の外のことばは主人公がこころの中で思っただけのことばかもしれない。たしかに、そんなふうにつかいわけているのだ。
ひとはことばにして相手にいうことばと、思っていても声にしないことばがある。そして、その思っていても声にしないことばは、では通じないかというと、通じる。現実の場では、長嶋が「 」の外に出していることばは発言されなくても、言外の意味として明確に伝わってくる。
長嶋は、こうした「言外の意味」(言外のことば)をくっきりと聞き取る耳をもっているのだろう。その耳に特徴があるのだろう。
洗濯物干しの描写にでてきた「なんと呼ぶかわからないが」も、実は「言外の意味」(言外のことば)である。
から「なんと呼ぶかわからないが」を省略してみると、そのことがよくわかる。
現実の風景は少しもかわらない。小説のなりゆきにどんな変化もない--と一瞬思ってしまう。
ところがそうではない。
「なんと呼ぶかわからないが」によって、主人公の人間性に深みが出てくる。主人公の生き方、考え方が、主張という形ではなく、じわーっとにじみでてくる。
長嶋はたしかに新しい文体を確立したのだと思う。大江健三郎は、新しい文体の小説を探し出し、そこに小説の、文学の可能性を見出そうとしているのだと思った。
第1回大江健三郎賞の受賞作。連作。「夕子ちゃんの近道」について大江健三郎は
窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶかわからないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。
を取り上げて、受賞の決め手にしたというようなことをどこかの新聞で語っていた。
「なんと呼ぶかわからないが」。
この節はほんとうにおもしろいと思う。普通、小説は「なんと呼ぶかわからないが」というものを「地」には書かない。書いていない。読者が知っていようが知るまいが、無関係に製品名を書く。知らなければ読者が調べればいいのである。
「なんと呼ぶかわからないが」がそのまま「地」の部分になっているということは、それが実は主人公の「視点」をそのまま反映しているからだ。そして、その「視点」の反映のさせ方が自然なのだ。主人公にもわからないことはたくさんある。それをわからないということばそのままに取り込み、そのときにできる主人公と世界との距離(尺度)を一定に守り続ける。そこから独自の世界がひろがりはじめる。
たしかに象徴的な文章だと思う。
ほかの作品を読んだことがないのではっきりしないが、「地」に主人公の感覚をそのまま持ち込むときの手法が少し風変わりなのは長嶋の特徴かもしれない。
会話の部分も独特の書き方をしている。
「うち、風呂ないですよ」銭湯ですよ、知ってるでしょう。
「あるでしょう、風呂」瑞枝さんはうんと若い頃にフラココ屋の二階に住んでいたのだ。
「あるけど、物置になっているんです」もうずっと使われてないみたいです。
普通は、
「うち、風呂ないですよ。銭湯ですよ、知ってるでしょう」
「あるでしょう、風呂」瑞枝さんはうんと若い頃にフラココ屋の二階に住んでいたのだ。
「あるけど、物置になっているんです。もうずっと使われてないみたいです」
と書くだろう。主人公の話したことばをわざわざ「 」の外へ出したりはしないだろう。
主人公は、実際に声に出したのはどこまでなのだろう。
作者が「 」のなかに入れていることばが実際に声になったことばであり、「 」の外のことばは主人公がこころの中で思っただけのことばかもしれない。たしかに、そんなふうにつかいわけているのだ。
ひとはことばにして相手にいうことばと、思っていても声にしないことばがある。そして、その思っていても声にしないことばは、では通じないかというと、通じる。現実の場では、長嶋が「 」の外に出していることばは発言されなくても、言外の意味として明確に伝わってくる。
長嶋は、こうした「言外の意味」(言外のことば)をくっきりと聞き取る耳をもっているのだろう。その耳に特徴があるのだろう。
洗濯物干しの描写にでてきた「なんと呼ぶかわからないが」も、実は「言外の意味」(言外のことば)である。
窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶかわからないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。
から「なんと呼ぶかわからないが」を省略してみると、そのことがよくわかる。
窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。
現実の風景は少しもかわらない。小説のなりゆきにどんな変化もない--と一瞬思ってしまう。
ところがそうではない。
「なんと呼ぶかわからないが」によって、主人公の人間性に深みが出てくる。主人公の生き方、考え方が、主張という形ではなく、じわーっとにじみでてくる。
長嶋はたしかに新しい文体を確立したのだと思う。大江健三郎は、新しい文体の小説を探し出し、そこに小説の、文学の可能性を見出そうとしているのだと思った。