谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(22)(創元社、2018年02月10日発行)
「あのひとが来て」は最終連に「音楽」ということばが出てくる。それまでは「あのひとが来て」はじまった一日が語られている。
きのうは長い感想になったので、きょうは短い感想にしたい。
最終連だけを取り上げる。
この「音楽」とは何か。ベートーベン、モーツァルト、ショパンの曲を指しているわけではない。具体的な音を指してはいない。実際には聞こえない「音楽」、つまり「沈黙の音楽」を指している。
それはどこにあるか。
「対比」が「音楽」となって響く。
この一行にはいくつかの「対比」がある。「娘(女)」と「息子(男)」の対比はわかりやすいが、ほかにもある。そのことはあとでふれることにして、
から見ていく。
「夜になって」の「夜」は書かれていない「昼」ということばと「対比」することができる。「昼」は、詩の前半に書かれている。「なる」という「動詞」が「昼」を呼び出し、同時に否定する、あるいは超えていく。
「雨」と「星」は共存しない。これも「対比」といえる。雨が「上がり」は「晴れる」。そのあとに星が瞬く。「上がる」という動詞が「対比」を「移行」(変化)として書かれているので、見落としてしまいそうになるが、「対比」である。「動詞」が「対比」されているものを接続している。連続させている。この「接続」には「雨が上がる」(雨がやむ)という「中断」が含まれている。「断絶」が「上がる」という「動詞」で「接続」されるという、おもしろい構造になっている。この構造は「暮らし」に密着しているので、ついつい見落としてしまう。
「夜になって」が「夜になる前は昼だった」ということを意味するのだが、そういうことをいちいち意識しない。ここにも「暮らし」のなかにある「接続と切断(切断と接続)」がある。
この「切断と接続(接続と切断)」は、
ということばの奥にも隠れている。「哀しみ(母)」からやがて「歓び(息子)」が生まれる。それは「生む」ということばでは正確には伝えられない「変化」なのだが、私たちは確かに「哀しみ」がずっーと「哀しみ」のまま人間を苦しめるのではなく、どこからともなく「歓び」がやってくることを知っている。歓びは哀しみを超えていく。そこには「切断と接続」がある。間にあるのは不思議な「時間」である。
その「時間」から、
を読み直すと、そこに書かれているものがとても複雑になる。
「時間は永遠の娘」ということばを単独で読んだとき、「時間」は「一瞬(いま)」と読むことができる。「永遠」という「長い時間」のなかの「一瞬(いま)」は、「永遠」という「母」から生まれた存在。「娘(瞬間)」は「母(永遠)」につながっている。
でも、その「時間」は「瞬間」であると同時に、「永遠」ではないけれど「幅(長さ)」をもった「時間」であることもある。「幅(長さ)」があれば、そのなかで「変化」が起きる。「切断と接続(接続と切断)」も起きる。
この「変化(動き)」を起点に考え直すと「時間」は動くが「永遠」は動かないということになる。動くものが動かないものを浮かび上がらせる、とも言える。「永遠は時間の娘」と言っていいかどうかむずかしいが、私は、一瞬混乱する。
どちらが「母」、どちらが「娘/息子」とは言えない。
「哀しみは歓びの息子」というようなことも「暮らし」には存在する。「遊びすぎているから、そんな痛い目にあうのだ」「怠けているから、そうなったのだ」というような言い方は「暮らし」のなかに根付いている。
「対比されるもの」、「対」になっているものは、ときには「入れ替え」が可能なのだ。むしろ、それは固定化せずに、入れ代わるものとして「対」そのものとし把握しないといけないのかもしれない。
そうすると「対比」とは結局何になるのだろうか。
「対比(対)」とはことばによって「つくりだされたもの」にならないか。
「対比(対)」という意識によって整えられないかぎり、それはただ「ある」だけのもの。
「対比(対)」は「ことば」によってつくりだされる。「ある」だけのものが、ことばによって「対(対比)」に「なる」。
「つくりだす」という「動詞」から「音楽」を振り返ってみる。
谷川は「自然の音」と「音楽」を対比して、「音楽」を「人間が創るもの」と定義していた。「人間が創るもの」が「音楽」ならば、「つくりだされた対比」もまた「音楽」ということになる。「楽器」や「声」によって表現される「音楽」ではなく「ことば」でかかれた「音楽」ということになる。
この「音楽」と「沈黙」の関係はどうなるか。「音楽」と「沈黙」は切り離せないもの。同時に固く結びついて存在するもの。
この一行に戻ってみる。
「雨」と「星」を「対比」させていたのは何か。なにがそれを接続し、また切断したのか。「上がる」という「動詞」である。
「動詞」は不思議だ。「雨」や「星」は、「それ」と指し示すことができる。でも「上がる」という「動詞」は指し示せない。「動き」を「方便」として「上がる」と呼んでいるが、それは「固定」できない。
「上がる」と「ことば」にしているが、「雨」や「星」に比べると、それは「存在」とは違う。「動き」は存在するが、それを固定化すると「動き」ではなくなる。「動詞」は、「沈黙」に相当しないだろうか。「名づけられていないもの」にならないだろうか。「動詞」は「名詞」を生み出すための、「ことばにならない」何かということにならないか。
最終行の「終わらない」は「動き続ける」ということである。
「あのひと」と「私」は別個の存在である。つまり「切断」されている。けれども「触れる」ことができる。「接続」できる。二人の間で「切断と接続(接続と切断)」は繰り返され、終わることがない。「切断と接続」は、その都度「対比(対)」を浮かび上がらせる。「対」を生み出し続ける。
それが「音楽」だ。
「あなた」と「私」は、それぞれ個別の「音」。そのふたりの「あいだ」に「沈黙」がある。「音のない間」がある。それが「動く」。「沈黙」が動き、「あなた」と「私」という「音」を変化させる。いや、「沈黙」そのものが変化するとも言える。
楽器ではないもの(沈黙)が奏でる「音楽」がそこにある。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
「あのひとが来て」は最終連に「音楽」ということばが出てくる。それまでは「あのひとが来て」はじまった一日が語られている。
きのうは長い感想になったので、きょうは短い感想にしたい。
最終連だけを取り上げる。
夜になって雨が上がり星が瞬き始めた
時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子
あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた
この「音楽」とは何か。ベートーベン、モーツァルト、ショパンの曲を指しているわけではない。具体的な音を指してはいない。実際には聞こえない「音楽」、つまり「沈黙の音楽」を指している。
それはどこにあるか。
「対比」が「音楽」となって響く。
時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子
この一行にはいくつかの「対比」がある。「娘(女)」と「息子(男)」の対比はわかりやすいが、ほかにもある。そのことはあとでふれることにして、
夜になって雨が上がり星が瞬き始めた
から見ていく。
「夜になって」の「夜」は書かれていない「昼」ということばと「対比」することができる。「昼」は、詩の前半に書かれている。「なる」という「動詞」が「昼」を呼び出し、同時に否定する、あるいは超えていく。
「雨」と「星」は共存しない。これも「対比」といえる。雨が「上がり」は「晴れる」。そのあとに星が瞬く。「上がる」という動詞が「対比」を「移行」(変化)として書かれているので、見落としてしまいそうになるが、「対比」である。「動詞」が「対比」されているものを接続している。連続させている。この「接続」には「雨が上がる」(雨がやむ)という「中断」が含まれている。「断絶」が「上がる」という「動詞」で「接続」されるという、おもしろい構造になっている。この構造は「暮らし」に密着しているので、ついつい見落としてしまう。
「夜になって」が「夜になる前は昼だった」ということを意味するのだが、そういうことをいちいち意識しない。ここにも「暮らし」のなかにある「接続と切断(切断と接続)」がある。
この「切断と接続(接続と切断)」は、
歓びは哀しみの息子
ということばの奥にも隠れている。「哀しみ(母)」からやがて「歓び(息子)」が生まれる。それは「生む」ということばでは正確には伝えられない「変化」なのだが、私たちは確かに「哀しみ」がずっーと「哀しみ」のまま人間を苦しめるのではなく、どこからともなく「歓び」がやってくることを知っている。歓びは哀しみを超えていく。そこには「切断と接続」がある。間にあるのは不思議な「時間」である。
その「時間」から、
時間は永遠の娘
を読み直すと、そこに書かれているものがとても複雑になる。
「時間は永遠の娘」ということばを単独で読んだとき、「時間」は「一瞬(いま)」と読むことができる。「永遠」という「長い時間」のなかの「一瞬(いま)」は、「永遠」という「母」から生まれた存在。「娘(瞬間)」は「母(永遠)」につながっている。
でも、その「時間」は「瞬間」であると同時に、「永遠」ではないけれど「幅(長さ)」をもった「時間」であることもある。「幅(長さ)」があれば、そのなかで「変化」が起きる。「切断と接続(接続と切断)」も起きる。
この「変化(動き)」を起点に考え直すと「時間」は動くが「永遠」は動かないということになる。動くものが動かないものを浮かび上がらせる、とも言える。「永遠は時間の娘」と言っていいかどうかむずかしいが、私は、一瞬混乱する。
どちらが「母」、どちらが「娘/息子」とは言えない。
「哀しみは歓びの息子」というようなことも「暮らし」には存在する。「遊びすぎているから、そんな痛い目にあうのだ」「怠けているから、そうなったのだ」というような言い方は「暮らし」のなかに根付いている。
「対比されるもの」、「対」になっているものは、ときには「入れ替え」が可能なのだ。むしろ、それは固定化せずに、入れ代わるものとして「対」そのものとし把握しないといけないのかもしれない。
そうすると「対比」とは結局何になるのだろうか。
「対比(対)」とはことばによって「つくりだされたもの」にならないか。
「対比(対)」という意識によって整えられないかぎり、それはただ「ある」だけのもの。
「対比(対)」は「ことば」によってつくりだされる。「ある」だけのものが、ことばによって「対(対比)」に「なる」。
「つくりだす」という「動詞」から「音楽」を振り返ってみる。
谷川は「自然の音」と「音楽」を対比して、「音楽」を「人間が創るもの」と定義していた。「人間が創るもの」が「音楽」ならば、「つくりだされた対比」もまた「音楽」ということになる。「楽器」や「声」によって表現される「音楽」ではなく「ことば」でかかれた「音楽」ということになる。
この「音楽」と「沈黙」の関係はどうなるか。「音楽」と「沈黙」は切り離せないもの。同時に固く結びついて存在するもの。
夜になって雨が上がり星が瞬き始めた
この一行に戻ってみる。
「雨」と「星」を「対比」させていたのは何か。なにがそれを接続し、また切断したのか。「上がる」という「動詞」である。
「動詞」は不思議だ。「雨」や「星」は、「それ」と指し示すことができる。でも「上がる」という「動詞」は指し示せない。「動き」を「方便」として「上がる」と呼んでいるが、それは「固定」できない。
「上がる」と「ことば」にしているが、「雨」や「星」に比べると、それは「存在」とは違う。「動き」は存在するが、それを固定化すると「動き」ではなくなる。「動詞」は、「沈黙」に相当しないだろうか。「名づけられていないもの」にならないだろうか。「動詞」は「名詞」を生み出すための、「ことばにならない」何かということにならないか。
あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた
最終行の「終わらない」は「動き続ける」ということである。
「あのひと」と「私」は別個の存在である。つまり「切断」されている。けれども「触れる」ことができる。「接続」できる。二人の間で「切断と接続(接続と切断)」は繰り返され、終わることがない。「切断と接続」は、その都度「対比(対)」を浮かび上がらせる。「対」を生み出し続ける。
それが「音楽」だ。
「あなた」と「私」は、それぞれ個別の「音」。そのふたりの「あいだ」に「沈黙」がある。「音のない間」がある。それが「動く」。「沈黙」が動き、「あなた」と「私」という「音」を変化させる。いや、「沈黙」そのものが変化するとも言える。
楽器ではないもの(沈黙)が奏でる「音楽」がそこにある。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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