谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(44)(創元社、2018年02月10日発行)
「八ヶ岳高原音楽堂に寄せて」は「音楽の前の……」からつづいている詩、「音楽の前に……」の別バージョンの作品なのかもしれない。二連目に、
という一行がある。でも、違うかもしれない。直前の作品では、「音楽の始まる前の」
この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている
と「この」があった。
「この」とは何か。「この」としか言えない何かだ。だから何度も「この静けさは」と繰り返し、「この」を言いなおしていた。「未生のことば」を生み出そうとしていたのが前の作品である。
「八ヶ岳」では「この」静けさではなく、違うものが語られている。「木立をそよがす風が」や「木々の緑をホリゾントとして地平をのぞみ」という行もあるが、「静けさ」よりも「音(音楽)」の方にことばの「重心」が移っている。
「音楽の始まる前の静けさに抱かれて」という行があり、それが「私たちの鼓膜は」とつづいていくので、「主語」は「私たち(聞き手)」のように書かれているが、私はこの詩を「音楽の作り手」を「主役」にして書かれていると読み直す。
「音楽の作り手」という「主語」を補うと、この連は
ということになる。
前の二行で「音楽の作り手」が「私たち(音楽の聞き手)」とどう違うかを書く。主役を「音楽の作り手」にしてことばを動かす。後半の二行で「私たち(音楽の聞き手)」を主人公にすることで、「対構造」をつくりだしている。
そして、この「対構造」の中心に、
という「書かれない一行」がある。
詩はいつでも「書かれるもの」だが、同時に「書かれないことば」を持っている。「書かれないことば」というのは、詩人にとってわかりきっていることなので「書き忘れる」のである。
「音楽の作り手」という「主語」も「書かれていない」。谷川が「音楽の作り手」について書いている意識が「肉体」にしみついてしまっているので、「主語」としてあらわれてこないのだ。「無意識」の奥でことばを突き動かしているからだ。
この「無意識」のかすかな「あらわれ」が「という」という「伝聞」のことばであらわされている。
この一行は「絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取る」にしても「意味」はかわらない。むしろ「強い」印象(断定)になる。けれど「という」を省略し、断定にしてしまうと、谷川が「無意識」と交渉しながらことばを動かしているということがわからなくなる。「無意識」がことばを動かしている、「無意識」にことばが動かされているという感じがなくなる。
「音楽の前の……」では「この」が繰り返され、その「内部」を充実させながらことばが動いた。この詩では、何かが「意識」されないまま、一回だけ、谷川を強く動かしている。
「音楽」が「沈黙」と向き合っている。「沈黙」を不可欠な「対」の要素として向き合っているとするならば、「詩」もまた「書かれないことば(沈黙)」と向き合っている。
私のこの感想は「雑音」のようなものかもしれないが、「雑音」こそが「沈黙」なのである。
「雑音」があるから「沈黙」がある。「沈黙」は「信号」と言いなおされているが、その「信号」は「音楽の作り手」にしか聞こえない音だからである。
最終行、
は、「絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取る」を言いなおしたものである。「無」とは「雑音の中」の「中」であり、「沈黙」だ。
「沈黙」を、書かれていなことばを、演奏されていない音を聴く。
「書かれたことば」と「書かれたことば」、「演奏された音」と「演奏された音」の「あいだ(中)」に「書かれていないことば」を読み、「演奏されていない音」を聴く。
これが詩を読み、音楽を聴く喜びではないだろうか。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
「八ヶ岳高原音楽堂に寄せて」は「音楽の前の……」からつづいている詩、「音楽の前に……」の別バージョンの作品なのかもしれない。二連目に、
音楽の始まる前の静けさに抱かれて
という一行がある。でも、違うかもしれない。直前の作品では、「音楽の始まる前の」
この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている
と「この」があった。
「この」とは何か。「この」としか言えない何かだ。だから何度も「この静けさは」と繰り返し、「この」を言いなおしていた。「未生のことば」を生み出そうとしていたのが前の作品である。
「八ヶ岳」では「この」静けさではなく、違うものが語られている。「木立をそよがす風が」や「木々の緑をホリゾントとして地平をのぞみ」という行もあるが、「静けさ」よりも「音(音楽)」の方にことばの「重心」が移っている。
宇宙に澄まされる精密な耳は
絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという
音楽の始まる前の静けさに抱かれて
私たちの鼓膜は見えない指の愛撫を待っている
「音楽の始まる前の静けさに抱かれて」という行があり、それが「私たちの鼓膜は」とつづいていくので、「主語」は「私たち(聞き手)」のように書かれているが、私はこの詩を「音楽の作り手」を「主役」にして書かれていると読み直す。
「音楽の作り手」という「主語」を補うと、この連は
「音楽の作り手は」、宇宙に向けて精密な耳を澄ます
「音楽の作り手は」、絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聞きとる
(「音楽の作り手は」、そのかすかな信号を音楽に変える/そこから音楽を生み出す)
(私たちは)、音楽の始まる前の静けさに抱かれて
私たちは、「音楽の作り手の」見えない指が私たちの耳を愛撫するのを待っている
ということになる。
前の二行で「音楽の作り手」が「私たち(音楽の聞き手)」とどう違うかを書く。主役を「音楽の作り手」にしてことばを動かす。後半の二行で「私たち(音楽の聞き手)」を主人公にすることで、「対構造」をつくりだしている。
そして、この「対構造」の中心に、
「音楽の作り手は」、そのかすかな信号を音楽に変える/そこから音楽を生み出す
という「書かれない一行」がある。
詩はいつでも「書かれるもの」だが、同時に「書かれないことば」を持っている。「書かれないことば」というのは、詩人にとってわかりきっていることなので「書き忘れる」のである。
「音楽の作り手」という「主語」も「書かれていない」。谷川が「音楽の作り手」について書いている意識が「肉体」にしみついてしまっているので、「主語」としてあらわれてこないのだ。「無意識」の奥でことばを突き動かしているからだ。
この「無意識」のかすかな「あらわれ」が「という」という「伝聞」のことばであらわされている。
絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという
この一行は「絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取る」にしても「意味」はかわらない。むしろ「強い」印象(断定)になる。けれど「という」を省略し、断定にしてしまうと、谷川が「無意識」と交渉しながらことばを動かしているということがわからなくなる。「無意識」がことばを動かしている、「無意識」にことばが動かされているという感じがなくなる。
「音楽の前の……」では「この」が繰り返され、その「内部」を充実させながらことばが動いた。この詩では、何かが「意識」されないまま、一回だけ、谷川を強く動かしている。
「音楽」が「沈黙」と向き合っている。「沈黙」を不可欠な「対」の要素として向き合っているとするならば、「詩」もまた「書かれないことば(沈黙)」と向き合っている。
私のこの感想は「雑音」のようなものかもしれないが、「雑音」こそが「沈黙」なのである。
絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという
「雑音」があるから「沈黙」がある。「沈黙」は「信号」と言いなおされているが、その「信号」は「音楽の作り手」にしか聞こえない音だからである。
最終行、
無から生まれ出た音楽というもの
は、「絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取る」を言いなおしたものである。「無」とは「雑音の中」の「中」であり、「沈黙」だ。
「沈黙」を、書かれていなことばを、演奏されていない音を聴く。
「書かれたことば」と「書かれたことば」、「演奏された音」と「演奏された音」の「あいだ(中)」に「書かれていないことば」を読み、「演奏されていない音」を聴く。
これが詩を読み、音楽を聴く喜びではないだろうか。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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