詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

テレンス・ヤング監督「007/ロシアより愛をこめて」(★★★★)

2012-01-12 19:53:57 | 午前十時の映画祭
監督 テレンス・ヤング 出演 ショーン・コネリー、ダニエラ・ビアンキ、ペドロ・アルメンダリス、ロッテ・レーニヤ、ロバート・ショウ

 昔の映画は品があるねえ。そして、その品とは何かなあ、と考え始めたとき、あ、肉体なんだと気がついた。普通の肉体の、普通の動き。その、普通に品がある。いまの映画はアクションが普通の動きじゃないからね。そんなに走り続けられるわけがない、そんな危険なことができるはずがない・・・。
 でも、この映画はそのまま普通の人ができるアクションだよね。
 象徴的なのが、最後。メイドに扮したおばあさんが、靴に仕込んだ毒針でボンドと戦う。そのとき、ボンドはどうしてる? 椅子でおばあさんの動きを封じている。いまならこんなことをしないね。おばあさんの毒針自体がのんびりしすぎている。ボンドが素手で戦えない(椅子以外は素手だけど、この場合の素手は道具なし、という意味)なんてありえない。「マトリックス」なんか弾丸にだって素手で立ち向かう。(あ、これは違う?)
 だいたいすごい肉体訓練してるでしょ? 空手(カンフー)、柔道なんてお手の物。ボクシングだって。いわゆる格闘技全般をいまの役者はこなしてしまう。
 でも、この時代のアクションは、つまるところ取っ組み合い。ボンドとロバート・ショウの列車内の格闘がそうでしょ? 多少、けんかに心得がある程度の格闘だね。鞄にしかけた催涙ガスなんていうのも、ゆったりした感じ。そういう肉体が普通に動いて、それでも格闘といえる映画だからこそ、おばあさんお毒針さえもが最終兵器。おもしろいよねえ。
 このとき、役者の動きというのはあくまで観客もまねができる。その、普通さが品だと思う。品というのは、普通の最大公約数――だれもがそれでいいと感じることのできるものだ。
 で、ね。
 ここからは私の強引な飛躍。
 「007」にはボンド・ガールが出てくる。それが売り。セックスシンボル。ボンドはセックスを楽しみ、殺しもするのだが、ほら、殺しが普通の肉体(いや、かっこいい肉体なんだけれど)でやれることなら、セックスも普通の肉体でできること。何もかわったセックスしていないよね。普通にやることにはみんな品がある。その証拠が、売り物のセックスシーン、女の裸、だね。
 こんなことは昔は思わなかったけれどね。

 ぜんぜん関係ないことだろうけれど、ショーン・コネリー以外に、ロバート・ショウも裸を披露しているねえ。私は、このロバート・ショウの恥ずかしそうな目が好きだなあ。ほんとうかどうか知らないけれど、なんでも子だくさん。小説も書いているインテリ(古臭い!)なんだけれど、その子だくさんの養育費を稼ぐために役者をしているんだとか。どうりで、シャイだね。




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1 コメント

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は? (Unknown)
2012-01-13 23:37:50
>でも、この時代のアクションは、つまるところ>取っ組み合い。ボンドとロバート・ショウの列>車内の格闘がそうでしょ? 多少、けんかに心>得がある程度の格闘だね。

>このとき、役者の動きというのはあくまで観客もまねができる。

あの格闘シーンを見てそういうことを言う人がアクション映画を語るのは1億年早い。
みっともないのでやめてください。

ちなみに真似してやってみてくださいよ。
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