詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(90)

2014-06-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(90)          

 「デメトリオス・ソーテール(前一六二-前一五〇)について」は長い詩である。古代を描いているが、ギリシャの現代史を重ねて読むことができる、と中井久夫はセフェリスの説を紹介している。
 その「重なり」を、「声」の重なりとして読んでみよう。人の対応の「声」。人が人に応対するときの「感じ」は時代や場所を超えて共通するものがある。

ローマにおける朕の痛苦よ。
友のことばにかぎつけた不快よ。
もとより友は名家の若き公達。
朕をセレウコス・フィロパルトの子と
心得て礼儀に欠けず、
心づかいも至極こまやか。
だが、いつも感じた、隠されたさげすみ、
ギリシャ人王朝へのひそかな侮蔑。

 「こまやかな礼儀」に対して感じる「さげすみ」「侮蔑」。それは「隠され」ている。「ひそかに」されている。それを人は「かぎつけ」てしまう。ひそかに隠されれば隠されるほど、「かぎつけ」てしまう。
 そして、このときデメトリオス・ソーテールのこころのなかで、抑えていたことばが動く。声に出されなかった主張が。

「どうしてくれよう。
やつらの思いもよらぬ何かしでかす。
決意に欠ける朕ではないぞ。
行動する。闘う。オトシマエを付ける。

 「決意に欠ける朕ではないぞ。」という礼儀正しい(?)表現と「しでかす」「オトシマエをつける」という俗語がまじりあう。この対比がおもしろい。怒りによって、ことばが動詞だけの短いことばになっていくのはカヴァフィスの文体か、中井久夫の文体か。
 鍵括弧のなかに入らない部分にも、口語で洗い流したような、口語で整えなおしたようなスピードがある。これまで読んできたカヴァフィス以外の「声の文体」がある。

よいわ。やるだけやった。
力のかぎり闘った。
この白けの果ての幻滅にあって
朕の誇りはただ一つ。
挫折においても
変わらず不屈の勇気を世に示したることぞ。


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