夏目美知子「ホウセンカ」(「乾河」66、2013年02月01日発行)
夏目美知子「ホウセンカ」はホウセンカが弾けるときのことを書いている。
押すと弾ける--それがおもしろくて何度も何度も球を押したことを私も覚えている。この覚えていることを夏目は「肉体」にしっかり「覚えている」。あ、変な文章になってしまった。夏目は「覚えている」を「残っている」と書いている。「覚える」は肉体に「残る」ということ。「肉体」から消えないということ。そのときの肉体は「指の腹」とどこまでも個別的だ。個別的であることによって「正確」になる。この「正確さ」が「残った球はくるりときれいに裏返っている」ととらえる「目」にも反映している。「肉体」のそれぞれの部位は別々の名前で「目」とか「指」とか、さらには「指の腹」と呼ばれるけれど、相互につながって「ひとつ」になっている。「肉体」として「もの(ホウセンカ)」に向き合っている。この感じがなかなかいい。
この3連目。最後の行の末尾にはには、たぶん「思い返した」ということばが省略されている。1行目の「思い返していると」と連動し、「思い返していると」……「思い返した(思った/考えた)」と、「肉体」から「精神(思考?)」が独立して動いているのがわかる。「肉体」が「覚えている」ことから出発し、思考が動きはじめている。
「肉体」のなかで、ことばがことばになろうとしている。「押すと……押し返してくる」というのが「肉体」が直接的に「覚えている」ことだが、それはそれだけでいいのか。そういう疑問をもった、ということだろう。この「疑問」というのは、「肉体」ではなく「精神(思考)」の働き、「頭」の働きだね。それはしかし「空想」ではなく、「肉体」の点検でもある。「肉体」はこんな具合に「覚えている」が、それでいいのか。それだけで「世界」をとらえることができるのか。ホウセンカという人間とは違った存在(もの)をきちんとつかまえたことになるのか--そういう具合に、世界を点検しているのかもしれない。「肉体」だけでとらえられる世界より、世界は広い。肉体の外にも世界は広がっているから、その肉体の外を夏目はつかまえようとしているのだ。
私は「頭」で書かれた詩は好きではないが、こういう具合に「肉体」が「覚えている」ことをほんとうにそうなのかと問いかける(自問する)「頭」の動きは信頼している。「覚えている」を「肉体」で反芻してから、「ことば(頭)」でもう一度反芻する。そうすることでことばも「肉体」も確かになる、と思う。
で、夏目は、
ホウセンカにも「思い」があるということを見つけ出す。ホウセンカにも「肉体」があり、それが「押してきた」。つまりそれは「ホウセンカ」の「肉体」をうごかす力がホウセンカの内部にあり、それを「思い」と言うことができる、というところにたどりつく。「思い」がぶつかり世界をはっきり感じる。思いは自分の肉体の外もある。それが世界だ。
それを夏目は「頭」だけではなく、「今も指に残るこの感触」からつかみとっている。ホウセンカの「肉体」に夏目の「肉体(指/感触)」が呼応して、そのかけ離れたものをつなぐために「思い」というものが動いているのだ。
「ことばの肉体」が動いているだ。「思い(思考)」は「ことばの肉体」が動いたときに、「人間の肉体」から自由になって誕生するものなのだ。「思い(思考)」とは「ことばの肉体」の自立した運動のことなのだ。
夏目美知子「ホウセンカ」はホウセンカが弾けるときのことを書いている。
黄緑の球を指で押すと
その途端、球は弾けて種が飛び出す
残った球はくるりときれいに裏返っている
ホウセンカは
昔、どこにでもあった素朴な花だ
押すと押し返してくる
その感触が
私の親指と人差し指の腹に
残っている
押すと弾ける--それがおもしろくて何度も何度も球を押したことを私も覚えている。この覚えていることを夏目は「肉体」にしっかり「覚えている」。あ、変な文章になってしまった。夏目は「覚えている」を「残っている」と書いている。「覚える」は肉体に「残る」ということ。「肉体」から消えないということ。そのときの肉体は「指の腹」とどこまでも個別的だ。個別的であることによって「正確」になる。この「正確さ」が「残った球はくるりときれいに裏返っている」ととらえる「目」にも反映している。「肉体」のそれぞれの部位は別々の名前で「目」とか「指」とか、さらには「指の腹」と呼ばれるけれど、相互につながって「ひとつ」になっている。「肉体」として「もの(ホウセンカ)」に向き合っている。この感じがなかなかいい。
そんなことを思い返していると
けれど、それだけでなかったような
まだ何かあるような
それは何だろうかと
押したから押し返してきたのだろうかと
この3連目。最後の行の末尾にはには、たぶん「思い返した」ということばが省略されている。1行目の「思い返していると」と連動し、「思い返していると」……「思い返した(思った/考えた)」と、「肉体」から「精神(思考?)」が独立して動いているのがわかる。「肉体」が「覚えている」ことから出発し、思考が動きはじめている。
「肉体」のなかで、ことばがことばになろうとしている。「押すと……押し返してくる」というのが「肉体」が直接的に「覚えている」ことだが、それはそれだけでいいのか。そういう疑問をもった、ということだろう。この「疑問」というのは、「肉体」ではなく「精神(思考)」の働き、「頭」の働きだね。それはしかし「空想」ではなく、「肉体」の点検でもある。「肉体」はこんな具合に「覚えている」が、それでいいのか。それだけで「世界」をとらえることができるのか。ホウセンカという人間とは違った存在(もの)をきちんとつかまえたことになるのか--そういう具合に、世界を点検しているのかもしれない。「肉体」だけでとらえられる世界より、世界は広い。肉体の外にも世界は広がっているから、その肉体の外を夏目はつかまえようとしているのだ。
私は「頭」で書かれた詩は好きではないが、こういう具合に「肉体」が「覚えている」ことをほんとうにそうなのかと問いかける(自問する)「頭」の動きは信頼している。「覚えている」を「肉体」で反芻してから、「ことば(頭)」でもう一度反芻する。そうすることでことばも「肉体」も確かになる、と思う。
で、夏目は、
違う
指を当てただけで
自分から
押してきたのだった、確かに
今でも指に残るこの感触は
待ちきれない
ホウセンカの思い
弾けるというのは
そういうこと
ホウセンカにも「思い」があるということを見つけ出す。ホウセンカにも「肉体」があり、それが「押してきた」。つまりそれは「ホウセンカ」の「肉体」をうごかす力がホウセンカの内部にあり、それを「思い」と言うことができる、というところにたどりつく。「思い」がぶつかり世界をはっきり感じる。思いは自分の肉体の外もある。それが世界だ。
それを夏目は「頭」だけではなく、「今も指に残るこの感触」からつかみとっている。ホウセンカの「肉体」に夏目の「肉体(指/感触)」が呼応して、そのかけ離れたものをつなぐために「思い」というものが動いているのだ。
「ことばの肉体」が動いているだ。「思い(思考)」は「ことばの肉体」が動いたときに、「人間の肉体」から自由になって誕生するものなのだ。「思い(思考)」とは「ことばの肉体」の自立した運動のことなのだ。
![]() | 私のオリオントラ |
夏目 美知子 | |
詩遊社 |