金子鉄夫「やわらかい骨」ほか(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)
金子鉄夫「やわらかい骨」にはとても気になる1行がある。たぶん、私の「誤読」なのだが、私は「誤読」したいのだ。
私が気になるのは「いいわけがないわけではないが」である。これをどう読むか。
「いい」は「よい」だろうか。「……していい(よい)わけ(理由)がないわけ(訳=条理)じゃないが」という意味だろうか。「理由」と「条理」は逆でもいいかもしれない。「……することは悪いことなのだが、あえて、そうする。そして、それをする理由がある」という意味。
もう一つの読み方。
「言い訳がないわけじゃはないが」。つまり、実は「言い訳があるのだが」。
どっちだろう。
「漢字まじり」で書けばはっきりするのだろうが、ひらがなだけなのでわからない。
わからないことをいいことにして、私は「言い訳がないわけじゃないが」と読むのである。あらゆることに、「わたし」は「言い訳」をもっている。「言い訳」も、まあ、「理由」かもしれないが、だれにでも共有される「理由」ではない。自分の都合。自分勝手な言い分である。
この「自分勝手な言い分」(言い訳と言い分は似ていて違うのか、違っているが似ているのか、よくわからないところがある)のポイント(?)は「言い分/言い訳」ではなく、きっと「自分勝手」である。「自分勝手」ということばは書かれていないのだが、書かれていないだけに「肉体」にしみついている。「思想」そのものである。
この「自分勝手」が、金子のあらゆることばにしみついている。「へんな色のしる」ということばが2行目に出てくるが、その「へんな色のしる」のようなものが、金子のことばにからみついている。「いいわけがないわけじゃないが」が、そのへんな色のしるのために、手ごわいもの--抵抗感のある魅力になっている。
で、これから先は、私のいつものいいかげんな感想だが。(いままで書いてきたこともいいかげんな感想だが)。
こういう抵抗感のある1行に出会うと、私はその作品が好きになるのである。いろんなことを考えて楽しくなるのである。
夕暮れ。一日の後半。まあ、肉体は疲れているな。足はつかれて、歩くというより、何か邪魔なものを蹴散らすことを楽しみに動いている。そういう肉体を考える。
こういうとき、呼吸はどうなる?
ここが、ほんとうはいちばん好きなのだ。この不思議なことばが好きなので、「言い訳がないわけじゃないが」と私は読むのである。
耳の裏で呼吸をする--変でしょ? ちょっと、空気中の「エラ呼吸」みたいな感覚。一日の終わりの空気におぼれそう。で、それを耳の裏で濾過(?)しながら、呼吸する。耳はエラだ。
「変身」してしまっているのだ。
そして、そのことに対して「言い訳」がある。
その「言い訳」というのが、「わたしには/いっぽんのネジ」になる「覚悟」がないということだ。「ネジ」になれない。しかも、歩くネジである。そんなものにはなれない。そして、そのことに対しては「言い訳=言い分」がある。
何かが、肉体の「うちから冷めて」しまうのだ。そして、「考え」が動いてしまうのだ。「考える」ということ、「言い訳」(言い分)を探すというのは、考えるということ。そして、それは「冷める」ことでもある。興奮からはるかに遠い。きょうの、真昼の興奮ではなく--そこから遠ざかり、疲れた感じ。
うまく説明できないが、そういう感覚が、なぜか私を誘うのである。
「しんじゅく」。そこに書かれている「ひらがな」の感覚かもしれないなあ。
「新宿」と書いてしまえば何かイメージがはっきりするが(まあ、錯覚だけれど)、それが「しんじゅく」と一つ一つの「音」に解体されて、ほどかれていくと、同時に「肉体」もほどかれる。
本来なら「鼻」や「のど」(口)で呼吸するはずなのに、「耳のうら」で呼吸するという感覚も、「しんじゅく」から始まっているのだ。
あ、私の感想は、どうもあっちこっち前後して、整理されていないね。
実は、私はあえて整理しないのだ--というとかっこよくて、ほんとうのことろは、私は思いつくままにキーボードを叩き、読み返しもしないから、どうしてもことばが行ったり来たりする。徘徊する。いいかげんになる。あいまいになる。でも、いいのだ、と私は思っている。金子には申し訳ないが、詩、なのだから、あらゆることが論理的に整理されるはずがないのだ。詩のことばは、どうしてもどこかで入りくんで、からみあって、わかったようでわからなくなるものなのだ。
わかったか、わからないか、よくわからないところへ迷い込んで「あ、わかった」と自分勝手に思い込むのが詩なのだ。詩のことばは、書いた瞬間から作者のものではなく、読むもののものだから、どんなふうに読もうといいのだ。
--私は、わがままだから、そんなふうにして読むだけである。
で、何がいいたいか、というと。単純である。「やわらかい骨」は何が書いてあるかわからないけれど、「ゆうぐれるしんじゅくのまち」から始まる数行は何度も何度も読んでしまう。読んで、あれこれ、ああでもない、こうでもないと思うとき、そのことばが私自身の「肉体」と同化していく感じがある。
「誤読」を承知で書くのだが、金子の数行を読むと、私自身が「しんじゅく」のゆうぐれを歩き、耳のうらで呼吸しているのを感じるのである。「しんじゅく」のゆうぐれを、耳のうらで呼吸しながら歩いてみたいと思うのである。
そして、
ということばにたどりつく前に、違うことばへと歩いてみたいと思うのである。
(あ、「そして」から以後、何が書いてあるかわからないでしょ? わからないように書いているのである。この部分はセンチメンタルすぎて--清水鉄夫、じゃなかった、哲男みたいで、好きになれない。こういう部分が好きな人は「酒乱」を読んでくださいね。)
*
ちょっと脱線。
木葉揺「陽のあたる午後」。そのなかほど。
金子の「耳のうらで/呼吸して」ということばがふいによみがえってきた。耳には「うら」もあれば「後ろ」もある。「うら」と「うしろ」は音も似ているが、その「場」も似ているかなあ。
そして、それは「異界」への入り口のように感じられる。「肉体」には、まだまだ、そういう「場」があるに違いない。そういう「場」を浮かび上がらせることばが私は好きなのだ。きっと。そこから始まるのは「異界」だから--つまり、いま/ここでつかっていることばとはまったく違うことばが動くはずの場だから、そこから先に起きることは、ほんとうにどう読んでもいいのだ。あらゆる「誤読」が許される場なのだ--と、強引に私は私の感想補強するのである。
金子鉄夫「やわらかい骨」にはとても気になる1行がある。たぶん、私の「誤読」なのだが、私は「誤読」したいのだ。
いつものように
へんな色のしる
を腫らした
あしたちが
(さまざまなかたちだ)
あわただしく蹴散らす
ゆうぐれる
ゆうぐれるしんじゅくのまち
きょうもいちにち耳のうらで
呼吸をして
いいわけがないわけじゃないが
うちから冷めて考えてしまうことは
やはりわたしには
いっぽんのネジ
としてあゆむ覚悟がないということ
私が気になるのは「いいわけがないわけではないが」である。これをどう読むか。
「いい」は「よい」だろうか。「……していい(よい)わけ(理由)がないわけ(訳=条理)じゃないが」という意味だろうか。「理由」と「条理」は逆でもいいかもしれない。「……することは悪いことなのだが、あえて、そうする。そして、それをする理由がある」という意味。
もう一つの読み方。
「言い訳がないわけじゃはないが」。つまり、実は「言い訳があるのだが」。
どっちだろう。
「漢字まじり」で書けばはっきりするのだろうが、ひらがなだけなのでわからない。
わからないことをいいことにして、私は「言い訳がないわけじゃないが」と読むのである。あらゆることに、「わたし」は「言い訳」をもっている。「言い訳」も、まあ、「理由」かもしれないが、だれにでも共有される「理由」ではない。自分の都合。自分勝手な言い分である。
この「自分勝手な言い分」(言い訳と言い分は似ていて違うのか、違っているが似ているのか、よくわからないところがある)のポイント(?)は「言い分/言い訳」ではなく、きっと「自分勝手」である。「自分勝手」ということばは書かれていないのだが、書かれていないだけに「肉体」にしみついている。「思想」そのものである。
この「自分勝手」が、金子のあらゆることばにしみついている。「へんな色のしる」ということばが2行目に出てくるが、その「へんな色のしる」のようなものが、金子のことばにからみついている。「いいわけがないわけじゃないが」が、そのへんな色のしるのために、手ごわいもの--抵抗感のある魅力になっている。
で、これから先は、私のいつものいいかげんな感想だが。(いままで書いてきたこともいいかげんな感想だが)。
こういう抵抗感のある1行に出会うと、私はその作品が好きになるのである。いろんなことを考えて楽しくなるのである。
夕暮れ。一日の後半。まあ、肉体は疲れているな。足はつかれて、歩くというより、何か邪魔なものを蹴散らすことを楽しみに動いている。そういう肉体を考える。
こういうとき、呼吸はどうなる?
「耳のうらで/呼吸をして」
ここが、ほんとうはいちばん好きなのだ。この不思議なことばが好きなので、「言い訳がないわけじゃないが」と私は読むのである。
耳の裏で呼吸をする--変でしょ? ちょっと、空気中の「エラ呼吸」みたいな感覚。一日の終わりの空気におぼれそう。で、それを耳の裏で濾過(?)しながら、呼吸する。耳はエラだ。
「変身」してしまっているのだ。
そして、そのことに対して「言い訳」がある。
その「言い訳」というのが、「わたしには/いっぽんのネジ」になる「覚悟」がないということだ。「ネジ」になれない。しかも、歩くネジである。そんなものにはなれない。そして、そのことに対しては「言い訳=言い分」がある。
何かが、肉体の「うちから冷めて」しまうのだ。そして、「考え」が動いてしまうのだ。「考える」ということ、「言い訳」(言い分)を探すというのは、考えるということ。そして、それは「冷める」ことでもある。興奮からはるかに遠い。きょうの、真昼の興奮ではなく--そこから遠ざかり、疲れた感じ。
うまく説明できないが、そういう感覚が、なぜか私を誘うのである。
「しんじゅく」。そこに書かれている「ひらがな」の感覚かもしれないなあ。
「新宿」と書いてしまえば何かイメージがはっきりするが(まあ、錯覚だけれど)、それが「しんじゅく」と一つ一つの「音」に解体されて、ほどかれていくと、同時に「肉体」もほどかれる。
本来なら「鼻」や「のど」(口)で呼吸するはずなのに、「耳のうら」で呼吸するという感覚も、「しんじゅく」から始まっているのだ。
あ、私の感想は、どうもあっちこっち前後して、整理されていないね。
実は、私はあえて整理しないのだ--というとかっこよくて、ほんとうのことろは、私は思いつくままにキーボードを叩き、読み返しもしないから、どうしてもことばが行ったり来たりする。徘徊する。いいかげんになる。あいまいになる。でも、いいのだ、と私は思っている。金子には申し訳ないが、詩、なのだから、あらゆることが論理的に整理されるはずがないのだ。詩のことばは、どうしてもどこかで入りくんで、からみあって、わかったようでわからなくなるものなのだ。
わかったか、わからないか、よくわからないところへ迷い込んで「あ、わかった」と自分勝手に思い込むのが詩なのだ。詩のことばは、書いた瞬間から作者のものではなく、読むもののものだから、どんなふうに読もうといいのだ。
--私は、わがままだから、そんなふうにして読むだけである。
で、何がいいたいか、というと。単純である。「やわらかい骨」は何が書いてあるかわからないけれど、「ゆうぐれるしんじゅくのまち」から始まる数行は何度も何度も読んでしまう。読んで、あれこれ、ああでもない、こうでもないと思うとき、そのことばが私自身の「肉体」と同化していく感じがある。
「誤読」を承知で書くのだが、金子の数行を読むと、私自身が「しんじゅく」のゆうぐれを歩き、耳のうらで呼吸しているのを感じるのである。「しんじゅく」のゆうぐれを、耳のうらで呼吸しながら歩いてみたいと思うのである。
そして、
そんなおまえにさえも
本籍というものがあって
砂のようにくちない勤めがある
ということばにたどりつく前に、違うことばへと歩いてみたいと思うのである。
(あ、「そして」から以後、何が書いてあるかわからないでしょ? わからないように書いているのである。この部分はセンチメンタルすぎて--清水鉄夫、じゃなかった、哲男みたいで、好きになれない。こういう部分が好きな人は「酒乱」を読んでくださいね。)
*
ちょっと脱線。
木葉揺「陽のあたる午後」。そのなかほど。
I am afraid of・・・
耳の後ろから別の世界がある
金子の「耳のうらで/呼吸して」ということばがふいによみがえってきた。耳には「うら」もあれば「後ろ」もある。「うら」と「うしろ」は音も似ているが、その「場」も似ているかなあ。
そして、それは「異界」への入り口のように感じられる。「肉体」には、まだまだ、そういう「場」があるに違いない。そういう「場」を浮かび上がらせることばが私は好きなのだ。きっと。そこから始まるのは「異界」だから--つまり、いま/ここでつかっていることばとはまったく違うことばが動くはずの場だから、そこから先に起きることは、ほんとうにどう読んでもいいのだ。あらゆる「誤読」が許される場なのだ--と、強引に私は私の感想補強するのである。