詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(23)

2015-05-22 09:26:10 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(23)(思潮社、2015年04月30日発行)


脱ぐ

服を脱いで
あなたは裸になる
裸を脱いで
あなたはあなたになる
野良猫があなたを見つめる

あなたを脱いで
あなたはいなくなるが
それは言葉の上だけのこと
栃の木の葉が風に散っている

言葉を脱いでもあなたはいる
そんなあなたを呼ぶのは詩
渚で蛤が息をしている

脱ぎ捨てられた言葉をかき集めて
詩が思いがけないあなたになる

あなたはセーターを脱ぐ

 この作品でも「言葉」は「表現」と同じ意味をもっている。二連目の「言葉」を「表現」と置き換えてみると、そのことがよくわかる。

あなたを脱いで
あなたはいなくなるが
それは「表現」の上だけのこと

 「あなたを脱ぐ」ということがすでに「表現」である。「ことば」だけで可能なことであり、現実に「あなた」が「あなた」を「脱ぐ」というようなことは、そのままでは実行できない。その「実行」というのは、一連目の「服を脱いで/あなたは裸になる」との比較でいうのだが……。
 
 最初から読んでみる。「服を脱いで/あなたは裸になる」というのは「表現」であると同時に、現実にそういうことができる「事実」でもある。「裸」というのは「肉体」であり、その「肉体」は表面上は何も「隠していない」。「裸」ということばは「肉体」をあらわすと同時に、「裸=隠さない」という「表現/ものの見方」としても「定型」的につかわれる。
 この「定型」を利用して、「裸を脱いで/あなたはあなたになる」とことばがつづけられるとき、私たちは「肉体」が隠しているものを脱いで、その「奥」に存在するものを「見せる」という動きを感じ取る。「裸」を脱いだあとの「あなた」は「肉体」ではなく、「肉体」の奥の「精神/感情」ということになる。「裸の肉体の裸を脱いで/あなたは裸の精神としてのあなたになる」。「裸の下」に隠れている、目に見えない「こころ/魂」としての「あなた」を見せる。むき出しの「あなた」に「なる」。
 ここからさらに「あなた(精神/感情/こころ/魂)」を脱ぎさることはできるか。「精神/感情をあらわす「定型の言葉」を脱ぎ捨てる、「無心」になる。「無心」とは、ある意味では「心」が「ない」と同時に「あなた」がないということでもある。「心=ひと」という「論理」にもとづけば。
 でも、こうしたことは、あくまでも「表現」の上だけのことである。「表現」として、そう言いうる。そう考えることができる。「表現」は「ものの見方」であり「考え方」でもある。「考え」というものは「ある」ものだけではなく、「ない」についても考えることができるので、なんだか、ややこしい。「矛盾」のようなものが、どこかで動き、人間をつまずかせる。
 それで、三連目「言葉を脱いでもあなたはいる」ということになるのだが、これは「表現(ものの見方)」を捨て去って「無心」になったとしても「無心のあなた」がいるということか。そして、その「無心のあなた」を「詩が呼ぶ」と「論理」を進めていくと、なんだかかっこいいのだが、かっこよすぎてうさんくさい。
 また「言葉(表現=精神、感情の存在形式)を脱いでも、今度は逆に肉体(もの)そのもののあなたはいる(肉体がそこにある)」。精神/感情をもたない無意味な存在(人間の価値は精神や感情の価値として語られることが多い)、いわゆる「無意味な肉体」の、その「無意味」が詩を呼ぶ。詩は無意味。肉体の無意味と詩の無意味が共鳴して、世界が始まる。--あ、これもかっこよすぎる。うさんくさい。

 少し引き返す。「言葉を脱いでもあなたはいる」。三連目で「あなた」は「いる」という「述語」で描写されているが、それまでは「あなたは裸になる」「あなたはあなたになる」「あなたはいなくなる」と「なる」という「動詞」で描写されていた。
 「なる」と「いる」は違う。「いる」は「ある」とも言いなおすことができる。けれど「なる」をそのまま「ある」とは言いなおせない。
 「なる」というのは「変化」をあらわす。「変化」するというのは、ある意味では以前存在したもの(ある)がその存在ではなくなることであり、「以前の存在の不在(ない)」が「なる」を「ある」に変える。「裸になる」は「裸の状態として、あなたはある」という意味だ。さらに「裸を脱いで/あなたはあなたになる」とは「裸」という「比喩/表現」さえも脱ぎ捨てて、さらに肉体の奥に存在する、目に見えない「精神/感情」としての存在になり、「こころの状態として、あなたはある」という意味だ。
 二連目の「あなたを脱いで/あなたはいなくなる」と一連目の「裸を脱いで/あなたはあなたになる」は「対」になっている。「対」になりながら、「なる(なって、そこにある)」を「いない」という「矛盾」で浮かび上がらせている。しかし、こういう「矛盾」はあくまで表現(ことば)の上で起きていることであって、現実には、三連目の「言葉(表現)を脱いでも(肉体としての=無心としての)あなたはいる(ある)」ということになる。
 「肉体」と「無心」がここでイコールになってしまうのなら、なぜ一連目で「裸を脱いで」というようなことが書かれるのか。「裸を脱いで」というのは、あくまで「比喩(思考の定型)」であって、それは「ほんとうの裸」ではないからだ。「肉体」も「無心」も「表現(言葉)」だから、どんなふうにでも「論理」を捏造できてしまうのだ。「論理」というのは「ことばの定義」を少しずつずらして(少しずつ正確にして、というひともいるだろう)、どこまでもごまかせるものである。
 「かっこよすぎてうさんくさい」と書いたのは、そういうことを指している。

 さて、三連目「言葉を脱いでもあなたはいる」とどう読めばいいのだろう。「裸を脱いで/あなたはあなたになる」「あなたを脱いで/あなたはいなくなる」という行と「対」になっている、とだけわかればいいのだろう。その「対」について何か語ろうとすれば、いろいろな言い方ができるが、それが「論理」を目指して動くとき、それはどう動いてもうさんくさくなる。散文はうさんくさい。

 視点を換えて、突然出てきた「詩」について考えてみる。
 「言葉を脱いで/無心になって/肉体だけになった」あなたを呼ぶのは「詩」。その「詩」は「渚で蛤が呼吸している」という一行となって、三連目では書かれている。
 「あなた」とはまったく無関係の、そして私がこれまで書いてきたこととはまったく無関係の「描写」。
 この一行は「野良猫があなたを見つめる」(一連目)、「栃のこの葉が風に散っている」(二連目)と「対」になっている。「脱ぐ」という「あなた」の行為とはまったく無関係という共通性をもっている。こういう、それまでの「論理」(ことばの動かし方)を切断し、「無関係なことばの動かし方」を接続することが詩。それぞれの連の最終の一行そのものが詩であるというよりも、そういう行でそれまでの世界を破壊し、あらたなものを接続させるということが詩なのだ。
 切断と接続という変化そのものが詩。
 こう書いてしまうと、これも、うさんくさい。

 四連目は、それまでの連で書いてきたことを、反対側から見つめたものである。反対側からことばを動かしている、つまり「論理」を展開していることになる。
 「脱ぎ捨てられた言葉」というのは、この作品の中では、具体的にいうと各連の最終行のことである。「あなた」と「ことば」のことを考えてことばを動かしていた。そのとき「野良猫」だの「栃」だの「蛤」というのは「論理」に関係してこない。「脱ぐ」「脱がない」という意識からさえも捨てられてしまっていたことばである。
 それをかき集めてみると、そこに「あなた」が現われてくる。あ、「あなた」は野良猫に気がつくひとなのだ。栃の木の葉の動きを見るひとなのだ。蛤の息にこころを動かすひとなのだ。そういうことがわかる。それは「思いがけない」ことかもしれない。なんといっても「あなた」が無意識にこころを動かし、肉体を動かしてつかんでいる「世界」だから。そういうものが、「あなた」に「なる」。「あなた」は「裸を脱ぐ」「あなたはいない」「あなたはいる」というようなことを考えていたが、そういう考えを離れ、突然、思いがけない「あなた」と「なる」。
 そのあと、一行あいて「あなたはセーターを脱ぐ」ということば。これは書き出しの「服を脱いで」と似ているけれど、違う。「服」が「セーター」と少し具体的になっている。詩は、こんなふうに人間を少し具体的にととのえてくれるものなのだ。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社


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