ギリシア旅行の最初の訪問地はメテオラ修道院群でした。(2007年4月5日の地図参照)メテオラはギリシア語で「中空」を意味します。ギリシア本土の中央部にある奇岩群、低いもので30m、高いもので400mもある「岩の塔」に点々と5つの修道院(最盛期には25)があります。修道士は1人で俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるのが本来でした。この地には9世紀ごろからこれらの人が住み始めましたが14世紀になり集団で修行をする修道院が造られるようになりました。
写真はその中で一番大きいメガロ・メテオロン修道院です。一番大きい岩の上にある建物がそうです。岩と岩の間にかすかに白く見えるのは3000m級の山の雪です。
この写真は以前(2006年2月27日)にも紹介しています。この写真はトルコの有名なカッパドキアの近くで写した旧ギリシア人村の標識でそこは観光地になっており小数のギリシア系トルコ人が住んでいました。なおこの旅行のとき(7年前)のトルコ人ガイドの祖父はギリシアから帰った人物でした。
ここまで述べてくれば”When in Turkey ***Do what most Turkish people do”の意味はおのずとお分かりと思います。蛇足的に説明すれば、ここには古代ギリシアの遺跡もあるが、この地はギリシアではなく、トルコだと主張しているのです。私の推論は間違っているかな?
ギリシアの英雄ヴェニゼロスの写真を紹介したのでトルコの英雄ケマル・アタチュルク(1880~1938)もと思ったのですが残念ながら私のアルバムにありませんでした。そこで、彼の業績のひとつ、アラビア文字を廃止してラテン文字(英語などで使用されているアルファベット)に切り替えることを布告した文書を紹介しておきます。アンカラのアタチュルク廟にあったものです。現在トルコ語はラテン文字で表記されます。
さてヴェニゼロスに率いられたトルコ軍は現トルコ領内から追い出されましたが1923年のローザンヌ条約で現在の国境が確定しました。そのときトルコ領内に居たギリシア人150万人はギリシアに(大多数はアテネの貧民街へ)、ギリシア領に居たトルコ人40万人がトルコに帰ることになりました。
伊藤さんから興味深くほのぼのとした初恋物語の寄稿文が入りました。なお写真は話の中のムハンマドの結婚式のではなく今回イエメンのサナアというところで偶然出会った時の結婚式(男女別々)だそうです。
イエメンでお世話になったガイドのムハンマドの話。
彼は32歳で物静かなおんこうな青年で奥さんとの間に5人の子供がいる。イスラム圏にいくとお客さんはムスリムの結婚とかにすごく興味をもつので彼に結婚のいきさつを話してもらった。 彼の奥さんは、幼馴染。 幼少のころはよく一緒に遊んだ。とてもかわいい女の子でその思い出はずっとムハンマドの胸のなかで生きていたそうです。 イエメンでは小学校に上がるころには、兄弟以外の異性は一緒に遊んだりすることはなくなる。ムハンマドはいつしか彼女と一緒に遊ぶことはなくなったそうです。 小学校にあがると彼女はアバヤという身体をすっぽりとおおう服をきて顔にはスカーフをつけるようになりムハンマドは彼女の顔を直接見ることはなくなった。
時が過ぎて彼が一人前になり独立して結婚を考えるようになるとすぐに思い浮かんだのが彼女だった。 しかしもう20年近く彼女の素顔を見ていない、、、大きくなって変わってしまっていたら、、、彼はちょっと不安になった。そこで彼は一計を案じる。 妹に頼んで彼女のいまの素顔がどんなか確かめてもらうことにした。
妹は、彼女が通うハマム(共同浴場)にいきさりげなく彼女の姿をたしかめてムハンマドに話した。ムハンマドの心配は、結局杞憂で彼女はとても美しい大人の女性になっていた。 そこでムハンマドは、彼の母親にそろそろ妻を迎えてひとり立ちするときがきたこと、彼には意中の人がいることを伝えた。 そして母親は彼女の家に赴き、息子の現状(息子がどんなに立派に成長したか、また彼の現在の経済状況)を説明したあとムハンマドの意向を伝えた。 彼女の母親は、彼女にムハンマドの話をした。 彼女もムハンマドと一緒にすごした幼少の思い出を大事にしておりムハンマドと一緒になりたいと母親に伝えた。 ここまでのいきさつを両家の父親も追認した。 ムハンマドと彼女は晴れてみんなから祝福されて一緒になることができた。
(写真は) イエメンの結婚式の様子。結婚式は男女が席をあわせることがない。
クレタ島イラクリオンにあるヴェニゼロス(1864~1936)の像です。彼はこのクレタ島の出身です。かれの一生は波乱万丈でした。今もギリシアでは敬愛されておりアテネの空港には彼の名前が付けられています。
2007年5月1日で何故トルコ領エフェソスなのかについてすこし触れましたが、その玄関口クシャダスの港に下り立ったとき面白い物を見つけました。(写真)そうなんです”、When in Turkey ***Do what most Turkish people do.” と書いてありました。直訳すれば「トルコに居るときは、多くのトルコ人がするようにしなさい」日本の諺で言えば「郷に入れば郷に従え」となるのでしょうか。普通ならば” Welcome to Turkey”「トルコへようこそ」だと思うのですが。
そこで今回は私流にこの謎解きをして見ます。この謎解きのキーワードは「ギリシアとトルコは犬猿の仲」と思います。添乗員の稲葉さんが面白い話しをしてくれました。煮出しのトルココーヒーは有名ですが、全く同じものがギリシアのもあります。そこでギリシアでトルココーヒーをくださいというと突然不機嫌になりそんなものはありませんというそうです。
不和の原因はどこかの国と同じように歴史問題があります。1453年にオスマントルコがコンスタンティノープル(現イスタンブール)を占領して以来1830年に独立するまでギリシアはトルコの支配下にありました。しかしその後もエーゲ海の島々はギリシア領土ではありませんでした。そこでトルコが第一次世界大戦で敗北したのをきっかけとして大ギリシア主義を掲げたヴェニゼロス(次ページの写真)に率いられたギリシア軍が現トルコ領エーゲ海沿岸の地域(エフェソスの近くのイズミールなど)を占領してギリシア領にしようとしました。そのときこのトルコ亡国の危機を救ったのがトルコのケマルアタチュルク(その後新生トルコの初代大統領)でヴェニゼロス率いるギリシア軍を打ち破ります。長くなりそうなので次回へ。
そして、ヒトラー、スターリン、ムッソリニーなどの雑誌?本?があります。写真を撮るのをついうっかりしたのですが(撮っていてもここに公開できない)これらの本と並んでポルノ雑誌・DVDが公然と売られていました。この雑誌・DVDの表紙でも日本の刑法には触れるものでした。私の海外旅行でこれほど公然とポルノが売られているのを見たのは初めてでした。百科辞典 ヒトラー ポルノ この三題噺は。
写真はロードス島(2007年4月5日地図参照、なおロードス島については後記の予定)で見た釣り風景で左側は風車跡です。実はこの釣り風景は珍しいのです。ギリシアはエーゲ海を内海にする海洋国家です。ところが私たちが殆ど海ばかりを見てきた旅行期間中で釣り風景はここだけなのです。私たちが海岸線といえば釣り風景と磯の香りを連想しますが、ギリシアでは違います。あくまでも紺碧の海と無臭の海だけです。港でも海はきれいです。「無臭―釣り風景がないー魚が少ないー陸地に緑が少ない」 関係あるような気がします。
ここはアテネのアゴラ跡(注)でのワンちゃんです。犬たちは決して吼えたり噛み付いたりしません。のんびりと寝そべっています。遺跡では観光案内?をしてくれるワンちゃんもいます。餌は誰がやるのですかね。
(注)古代ギリシア都市国家ポリスの市民広場。市場があり、市 民が憩い、政治家が政治を論じ、哲学者が哲学を論ずる場所。
写真はアテネの繁華街です。ワンちゃんが気持ちよく寝そべっています。この犬ノラなんです。アテネでは珍しい光景ではありません。オリンピックの時に野良犬をすべて捕獲して、不妊手術、予防注射をして一時収容しましたが、オリンピック終了後すべて釈放?しました。
もう1人はクルーズでの日本人ガイド木元さんです。写真はクルーズ船内のレストランです。彼女はギリシア人と結婚する時にギリシア正教徒に改宗したそうです。教会に入った時には十字を切って礼拝をしていました。
改宗といえば2005年10月18日に紹介したルーマニアの現地ガイドコリーナさんを思い出しました。
巫女さんコメントありがとうございました。
Kumagai さんコメントでないコメントありがとうございました。ブログは耳栓をしなくてもよいので、今後ともよろしく。くだらない話に付き合えない!でしょうが2007年4月25日のようなユーラシア旅行社の伊藤さんのすばらしいレポートが今後載る予定なので時々はご覧ください。