風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

菜根譚と特別吟詠

2016年12月15日 | 論語と
今年最後の菜根譚の授業の日。
まず、12月は、特別に20分の時間を詩吟の時間としていただいています。
今日は、二度目。

そのほとんどが、前回の北千住論語に出席している方たちなので、詩吟の前説を全く同じ物では面白くないと考えて、角度を変えてみました。

教科書通りの漢詩の説明は、ここでは必要がないのです。
須藤先生の漢詩の解釈をお聞きする前には、心を動かさずして、よくも吟詠をしていたものだと、あきれるくらい、関心がなかったのです。
詩を手にして、心が動くとは、こういうことか、と、次から次へと想像が広がるようになりました。
そんなわけで、ボタンを二つくらい外した、私見をご披露をいたしました。
そんな、おしゃべりを聞いて、しゃくし定規でなくてよいのだねぇと思ってくだされば、うれしい。

やはり、「除夜の作」「山中幽人と対酌す」「山中の月」では、「山中幽人と対酌す」に思いがあふれて、たくさん時間を費やしました。
結句の「思い有らば」に気づいてから、果たして李白は、わがままだったのかと思い至ったことをおしゃべりしました。

詩吟を続ける中で、いろんな、わくわくのある朋友とのかかわりを今年は特に強く感じる年でしたから、いくらでも、話をする核になるものはあるので、話には事欠きません。

ただ、そんな話は、サッサとおしまいにして、須藤先生のお話をたくさん聞きたいという方もいらっしゃるはずです。
そんな方にも、興味を引くように、漢詩に対する説明をしてくださって、ボタンを一つ外しすぎたところの穴を埋めてくださいました。

これだから、私は、安心して、漢詩への私感を心置きなくしゃべることができるというもの。

今日のお二人の三題の吟詠は、何時になくさえわたっていて、前回の上を行く吟詠のテクニックで、さりげないけれど、たっぷりの情感とで、素晴らしい吟でした。
お二人に完全に任せてしまったのが、却って、良かったなぁと思いました。
うれしくてワクワクし、期待を裏切られたことでまた、さらに、高揚感にみたされました。

これぞまさに、恋の瞬間。



そして、須藤先生の講義
最終盤に差し鰍ゥった菜根譚の中で語られた洪自誠のことば。
今日の須藤先生の読みときの中に、「あるがまま」でいなさいと。自分はじぶんでしかないのだからと。
そして、次の章では、天地の実態とは何か、それは、桜花爛漫の時ではなく、晩秋の水が乾き、木の葉が落ちて、岩や石が痩せ、崖や岸も枯れてしまったその時が真の姿だというのです。
桜花爛漫の春の景色は、幻であり、仮の姿であるという。

あるがままのとらえ方が、難しい。あるがままだからと言って、裸身のまま何もしないということではない。
欲に駆られて頑張るのは、違うのだろう。









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足立論語

2016年12月01日 | 論語と
数日まえ、急なことだったのですが、詩吟チームへ、20分の時間を提供するので、いつもの先生が選んだ漢詩一吟ではなく、私たちが選んで、組み立てた吟詠をしてくださいとのお申し出を頂きました。

先生の中では、突然のことではなく、心の中で温めていた構想のようでしたが、お聞きしたのが、三日前。

電話で、手短に説明しただけで、戸惑いながらも、お引き受けくださったのは、さすが芦孝会精鋭の頼りになるお二人です。

明けて、当日のお昼にお二人が選んだ吟題を伺い、ランチをしながらの打ち合わせをしました。

12月にふさわしい「除夜の作」 お酒の好きなお二人そのままの「山中幽人と対酌す」 そして、「山中の月」

ベストチョイスです。月は真山民が「月は私」と言ったように、そうでありたいと思い続け、絵にも月の作品が数多くある須藤先生の好むテーマです。


まず、私が司会をし、手短に詩の説明をして、それぞれの独吟と連吟をいたしました。

いつも須藤先生がしていただく、格調高い漢詩の解説は私にはできませんから、その詩吟をするときに思い描く思いや感想を、下世話に語りました。

それが、観客をグイと引きつけたとは、その様子を見ていたお二人の感想。
私は、お二人の紹介と漢詩の紹介をいかに私らしく語るかということに注力していたので、その、一瞬をとらえることはできませんでした。残念!

そして、さらりと関吟芦孝会の精鋭ですと、紹介して、バトンタッチです。

日頃、詩吟仲間の前で、吟じる時と違ってまた別の緊張がみなぎっていました。
そして、みなさんを感動させる吟詠をしてくださいました。

拍手喝さい、この拍手はあいさつ代わりのものではなく、本当の拍手でした。

チャンスをくださった須藤先生、ありがとうございました。
心を傾けて聞いてくださった、皆様、ありがとうございました。


この後は、予定通り、忘年会です。
心から、嬉しい、楽しくてしょうがない、飲み会となりました。







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菜根譚

2016年11月17日 | 論語と
3日の論語の日をお休みしたので、とても久しぶりに先生にお目にかかる気がしました。

教室が変わっていたのを失念していて、廊下のベンチでぐずぐずしていたので、授業が始まる前に、キチンとご挨拶ができず、大変失礼をしました。

菜根譚もあと1回を残して、終了となる予定で、今日は、前半を総復習の形で、原文と解説文とを全員で素読をした上で、さらに先生の解説を聞きました。

菜根譚の言葉を読み、素読をして、先生の解説を聞き、ひらかなで読んでいたのが、漢字で読んでいるような気分になってきました。
ただ、漢字で読めるようになると、その意味するところの、単一ではない伝わり方がして、ゆるぎない理解とはならないことを知るのです。

それは、その言葉が、まだ、体にしみこむところまで行ってないので、わかった気になってみたり、わかったつもりが全然わかっていなかったり、聞けば聞くほど、奥深い学びがあることを知ります。

安易に、「今日はこれを習いました」と書けなくなってきました。
それは、何もわかっていないことがわかって、わかっていないことを知られるのが、恥ずかしいと思うからでしょうか。

一歩前進したと考えて良いのでしょうか。
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新越谷論素読の会10月

2016年10月24日 | 論語と
今月の漢詩は、「富嶽」です。
芦孝会の会員さんによる交代の吟詠は、相変わらず続いています。
須藤先生は漢詩と吟詠がお好きで、詩吟をする人への応援の気持ちも変わらずお引き立てを
頂いています。

先生の著書12人の思想家の本を、音読、素読をしながら、丁寧な講義がなされます。

20日の菜根譚の講義も今日の講義も、お話はとても深い味わいがあり、わかりやすい表現でしてくださいます。


今、先生のお話を聞きながら、私の頭をめぐるのは、「技術だけでなく心も共に磨かねば」というテーマです。
考えても考えても、自己本位の答えにしかいたらなくて、自分のわがままさ加減に気が付いて、苦しくなります。

苦しいのは、そのことを考える一瞬のことで、日々の暮らしに追い立てられて、すぐに忘れます。

それでも、飽きず、先生のお話を聞きたいのは、先生の優しく深い語り口に救われるからでしょう。

先生は、生活そのものが、論語であり、菜根単であり、中国の思想家の思いを常に頭に置いているから、その繰り出す言葉が、多彩で、含蓄のあるものになるのですね。

深い思索で、膨らみ、やがてはそぎ落とされる。

そぎ落とされて、簡素になったものの奥には、深くて豊かな心を携えていて、そのうえで、上級の技術を備えていることが、心技一体ということなのだろうか。



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菜根譚

2016年08月18日 | 論語と
何気なさそうにしているのも、執着の表れとは、厳しい言葉。

「きにしない」という言葉こそ、気にしているってこと。

と言うことは、私は、どうなのと振り返る。


リオオリンピックまっさかり、メダルの数を競い、「銅」を勝ち取ったのに、手放しで喜べない。

対戦型の競技は、金は当然のことながら、銅も買って取るのだが、「銀」は、負けて取る。

なんてことだろうねぇ。

安心してみていられる競技はよい、負けそうな競技もそれはそれで、頑張れといえる。

痛々しくて見ていられないのは、その教義のことをあまりよく知らないからのせいもあるけれど、すでに心が負けているように感じられるのは、スイッチを切ってしまう。


あー、たかが「金」されど「金」

やっぱり、「金」は唯一無二だ。獲得した人は、ただ喜んでいれば良い。

逆転で金を取ったゲームに、やったー、とかヨシッとこぶしを握っていたのに、菜根譚の学びで、『事をなして喜ぶより、才能多きよりは、無能無才で天真を全うする方がましである。』と学ぶ。

心は、乱れて、糸の如しでございます。

装わず、心のままに、無為無能の生き方ができるのは、人間だけなのである。

そういう生き方は、ぐうたらな生き方と思うのは、素人なのだね。

それと思わず、気にもせずにいられるなら、最上の生き方。
凡人は、無能無才を恥じて、あがいてしまうものよねぇ。




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新越谷論語素読の会

2016年07月25日 | 論語と





中江藤樹が、伝えようとした「明徳」と言う最高の宝は、この詩にある堯帝の治世にあった。

今日の論語の素読は、「堯日第二十」です。
 今月の吟詠として、中江藤樹が思いをはせた堯民を題材した、この詩を選んで、下さいました。

今日は、尺八の先生も参加していらっしゃるので、論語仲間の吟友が尺八の伴奏で、「戊子の夏諸生と月を見て偶成る」を吟じてくださいました。

須藤先生の、論語の素読と解説に、こよなく愛する吟詠とを組み合わせた今日の講座です。


諸生たちは、清々しい風に吹かれ、月の輝く世俗を離れたこの場に、仲間とひざを交えて時も忘れて語り合う様子を、堯帝の安泰な治世のように思われた。


私たちも、どんなところにいても、平和な世の中のおかげで、朋友とともに、膝を交え、時に酒を酌み交わして、語り合うことがあります。

また、須藤先生とも、講座の始まる前の一時を、先生の言葉に耳を傾け、目を輝かせる。

平和で安泰な世であってこその、この楽しみが、損なわれることのないように。



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論語講座

2016年07月21日 | 論語と
楽学の会主宰の論語講座三日目

「辞はたっするのみ」

相手に届くことが一番大事なことなのだけれど、どうしても、伝えたいことを言葉にし、伝わらないともがいてしまう。

相手に届くためには、相手をよく知ること、私を知ってもらうことではない。

私を知ってもらいたいと思っているわけではないと思いつつ、私を、私の言葉を押し付けているわけで、毎回、どこまで届いたのか、届かなかったのかが、気になる。

届いたと思っても、また、するりと抜け落ちていて、ちゃんと受け取ってよと、咎めたくなるのを、あ、いやいや、届け方が間違っていたのだと思いなおす。

そして、やはり、届け方を考える前に、相手をよく知ってその方法を考えることと、反省。


反省が、着実に実っているかと言うと、同じところで、間違いを犯してしまうのは、おそらく相手のことを知るための、ベースとなるものが、私でしかないから、また、同じ間違いを犯しているのだ。


        「辞はたっするのみ」


孔子の言葉は、短いなぁ。その言葉の深淵は計り知れず、その淵にやっと届こうとしている私には、単語が、頭の中で、踊るだけだ。
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論語講座 

2016年07月13日 | 論語と
『論語』でたどる孔子の生涯と思想の流れ

共催 NPO法人あだち学習支援ボランティア「楽学の会」
   足立区生涯学習センタ―
   足立区教育委員会

講師 須藤明実先生

日時 7月6日(水)7月13日(水)7月21日(木)午後2時から4時

場所 学びピア研修室1


毎年、7月に行われる須藤先生の論語講座3日間シリーズです。

今日は、その2回目 「孔子の思想の流れを『四書』にも学ぼう」

今までは、先生の言葉をくまなくピックアップしようとして、失敗していましたが、思考と集中力の波を上手に乗って、今日のトピック(私の)を一つ持ち帰るように、ちょっとばかし賢くなってきました。


今日の、お持ち帰りは、荀子の言葉。
四書のなかの孟子を習い始めると孟子の性善説と五経のなかの荀子の性悪説とは、どうしても並列して、論じられるようです。

孟子と荀子のことばを対比して、須藤先生の言葉で、語られると、途端に、文字が立ち上がって、私にとって意味のある言葉になって、歩きだす。

「善」はすべて良しと思ってきたところへ、荀子の性悪説が始めて語られたとき、「悪」の文字がある故に、拒否感がありました。



孟子と荀子のお話は、何度目になるでしょうか、須藤先生の著書の『里仁』を手に、そこに先生の熱いことば加わると、エネルギ―が満たされます。

そして、とうとう、私の「悪」という漢字への忌避感に風穴が空いて、荀子の言っている言葉が、やっと、意味のある言葉として、入ってくるようになりました。

「青はこれを藍よりとりて、しかも藍より青し、、、」
 
「小人の額は耳より入りて、口より出ず、口耳の間は四寸のみ、何ぞもって七尺の躯を美るに足らんや」

「蓬も麻中に生ずれば、援けずして直く、白沙も涅にあらば、これと共に黒し」

荀子のこの考え方は、とても興味深い。
「悪」という文字に、惑わされて、別の箱に入って、二度と触らないはずだったのが、須藤先生の手で、箱から出されて、白日にさらされると、なんと、暖かい言葉ではないか。

これを、単純に、悪には染まりやすいものだととらえてしまったら、もったいない言葉であるなぁと、思う。

人の天性は、人為的に変えられるものではないが、学ぶことによって、身についてくるものがある。


少し、意味がわかってくると、また、あれとこれとが、こんがらがってくるのですが、また、更に先生の言葉を聞いていると、胸にストンと落ちてきて、次の思考回路へと、繋がっていきます。

様々な学びは、今すぐに、理路線然と語ることが難しくても、頂いた言葉に血を通わせて、体温に近い温かみを持つようになると、幸福感が増してきます。

そして、『その言葉が、溢れて語りたくてしょうがなくなったら、何かの機会に、たった一つ章句でよいから、あなたの言葉で、身近な人たちに語れるようになってください。』と言うのが、須藤先生の願いです。

感動した章句と須藤先生の解説を口伝えすることは、できても、私の言葉で、表現し伝えるのは、まだ、難しいなぁ。



次週の三回目は、どんな話が聴けるか、楽しみです。




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新越谷 12人の思想家

2016年06月27日 | 論語と
「孫子」と「呉子」   漢文学窓 『里仁』教科書  p179 
  須 藤 明 実 著
 
「孫子の兵法」戦いの指南書として、日々戦いのさ中にあるビジネスマンにも、どう戦うかとの指標を与えているとの印象を持っていました。

中国戦国時代後期では、「家ごとに孫・吾の書を蔵す」と言われ、今の世の中でも次々に「孫子の兵法」の書物が発行されているのには、大きな意味がある。
戦争の技術が書かれているだけではなく、人間の本質を見極め、人間を看通す洞察力から生まれた、今に活きる人間の書物だからだと、須藤先生はおっしゃる。

相手との関係に於いて、実り多きを得ようとするなら、相手をよく知り、静かに優位に立ちなさいと。


そして、呉子は、戦うのでなく、守って勝つのが一番と言い、上に立つものは、人のありようを見て、やる気にさせなさい。と言う。


相手をよく観察して、その喜ぶ様子を想像する、そして、その道筋を考え準備する。
戦うためのではなく、よりよい人間関係を維持するハウツーなのですねぇ。





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足立『論語」の会

2016年06月02日 | 論語と
孔子は、すでにあった言葉に孔子の魂を吹き込み、タダの言葉だったのが、人の心の支えとなり、どんどん広まって多くの人が知るところとなる。

その、一つ「温故知新」

孔子以前には無かった言葉。それは、「聞道」道を聞く。もっとも偉大な言葉の一つ。


           = お知らせ =

毎年7月に、3回シリーズで、「論語」のセミナーが開かれます。

講師 須藤明実

このセミナーを開くにあたり、須藤先生は主催者との打ち合わせに大変なのです。
先生のお考えがどの程度受け入れられているのかわかりませんが、何事も真摯に取り組まれる先生です。
毎回、このセミナーを受けて、第一木曜日の足立『論語』の会に、更に学びたいと参加なさる方が、いらっしゃいます。





7月6日 13日は水曜日 21日は木曜日です。

21日は、第三木曜日で、菜根譚とはじめの一歩の日のはずでしたが、このセミナーの日と重なったために、お休みとなります。



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