梅雨時だと言うのに木挽町の歌舞伎座は、沸いている。
いろいろ話題に事欠かないが、一つの楽しみは、昼の部で「荒川の佐吉」、そして、夜の部の「身替座禅」で、菊五郎と仁左衛門が競演していて素晴らしい舞台を展開しているのである。
先月の團菊祭で質の高い舞台を勤めた菊五郎が、今月は、また、更に素晴らしい舞台を見せてくれている。
「荒川の佐吉」での相模屋政五郎の堂々とした風格のある大親分の貫禄、それに、「身替座禅」での、色好みの腑抜けたなんとも陽気な大名が恐妻家の妻を出し抜いて昔馴染みに逢引に行く可笑しみ、とにかく、地で行く菊五郎の魅力全開であり、流石に人間国宝であると思わせてくれる。
一方の仁左衛門は、先に「菅原伝授手習鑑の道明寺」で、管丞相を演じて天神さんになったが、今度は、粋でスマートな佐吉を演じ、それに、「身替座禅」で、夫の大名を手玉にとっていびり通す実にユニークな山の神を演じたのである。
一度の公演には、一演目に限りたいと言っていたのに、夫々に重い役を、今回は2演目も派手に演じている。
この2演目だけでも見ごたえあるのに、今回は、この他に、幸四郎と染五郎父子の「双蝶々曲輪日記の角力場」と「暗闇の丑松」、吉右衛門の「藤戸」、そして、梅玉の「二人夕霧」等の意欲的な舞台が続いている。
よく舞台にかかる演目ながら「身替座禅」は、あまり記憶にないので私にとっては始めかも知れない。
とにかく、菊五郎と仁左衛門の両極端を行くキャラクターの醸し出すオカシミが溜まらなかった。
菊五郎にとっては家の芸で、これまでに10回も山藤右京を演じていて言わば体にしみこんだ芸と言うべきか。
色好みながら恐妻家の右京は、昔深い契りを交わした花子が久しぶりに上洛したので、何とか会いたい一心で理屈を並べ立てて一日だけの持仏堂での座禅を許されて喜び勇んで出かける。
家来の太郎冠者(中村翫雀)に身代わりに座禅をさせて、自分はいそいそと花子とのランデブーに出かける。
座禅中の右京を見舞いにやって来た奥方玉の井は身替りに気づいて、代わりに自分が座禅をして待っていると、逢瀬を楽しんで夢心地で帰ってきた右京が、衾を被って座禅をしているのが奥方だと知らずに一夜の醜態を有頂天に自慢し始める。
座禅衾をとって見てみると、太郎冠者ではなくて角を生やした奥方、右京は口から出任せを言って逃げ回る。
外出を許される前と後の二人の駆け引きと、右京の変わり様がコミカルで面白いが、一夜の逢瀬を楽しんでほろ酔い機嫌で帰ってくる右京を、花道で、菊五郎が幸せの絶頂と言わんばかりの腑抜け姿で実に上手く演じている。
舞台に登場しない花子を髣髴とさせる演技で、近かったので菊五郎の赤く染まったふ抜け顔が双眼鏡にはみ出るくらいにクローズアップされたびっくりしたが、流石に千両役者で、愛の交歓の一夜の素晴らしさを表現する為に良くあんな表情が出来るのだなあと妙に感心して観ていた。
仁左衛門は、あの長身でスマートな体全身で、気品と威厳を保ちながら恐持ての奥方を実にユニークに演じていて、浮気の虫である夫の大名をいびるところなど、1オクターブ下げた地声の男声になって威嚇する。
何故か、鼻の穴を少し余分に黒く墨を塗っていて髷を剃っており、その上、端正な顔立ちなので一寸コミカルな顔作りになっているが、腰を後ろに浮かせて足を前に出してスーッと歩くところなど優雅で、とにかく、意表をついた仁左衛門の女形で、先代萩の八汐とは一寸違った仁左衛門の女形を観て楽しかった。
ご主人が愛おしくてしかたがない、そういう感じが出せれば、と思います、と本人は言っているのだが、やはり、正直に言えと言われても、昔馴染みが来たので逢いたいとは、右京といえども奥方には言えないであろう。
ところで真山青果の「荒川の佐吉」は、これは、正真正銘の仁左衛門の舞台である。
三下奴の佐吉が、盲目の赤子を手塩にかけて育てる人情話が重要なテーマの一つだが、それでも、結局手放して親元に返さなければならない人生の悲哀を、仁左衛門は噛み締めるように演じて観客の胸を打つ。
影のように付きつ離れつ付き添う辰五郎の染五郎が味があって実に上手い。
段四郎、孝太郎、時蔵、夫々適役で素晴らしかったが、佐吉の親分である仁兵衛の芦燕に元気がなく、プロンプターの声よりも数テンポ遅れて語っていたのが惜しまれる。
いろいろ話題に事欠かないが、一つの楽しみは、昼の部で「荒川の佐吉」、そして、夜の部の「身替座禅」で、菊五郎と仁左衛門が競演していて素晴らしい舞台を展開しているのである。
先月の團菊祭で質の高い舞台を勤めた菊五郎が、今月は、また、更に素晴らしい舞台を見せてくれている。
「荒川の佐吉」での相模屋政五郎の堂々とした風格のある大親分の貫禄、それに、「身替座禅」での、色好みの腑抜けたなんとも陽気な大名が恐妻家の妻を出し抜いて昔馴染みに逢引に行く可笑しみ、とにかく、地で行く菊五郎の魅力全開であり、流石に人間国宝であると思わせてくれる。
一方の仁左衛門は、先に「菅原伝授手習鑑の道明寺」で、管丞相を演じて天神さんになったが、今度は、粋でスマートな佐吉を演じ、それに、「身替座禅」で、夫の大名を手玉にとっていびり通す実にユニークな山の神を演じたのである。
一度の公演には、一演目に限りたいと言っていたのに、夫々に重い役を、今回は2演目も派手に演じている。
この2演目だけでも見ごたえあるのに、今回は、この他に、幸四郎と染五郎父子の「双蝶々曲輪日記の角力場」と「暗闇の丑松」、吉右衛門の「藤戸」、そして、梅玉の「二人夕霧」等の意欲的な舞台が続いている。
よく舞台にかかる演目ながら「身替座禅」は、あまり記憶にないので私にとっては始めかも知れない。
とにかく、菊五郎と仁左衛門の両極端を行くキャラクターの醸し出すオカシミが溜まらなかった。
菊五郎にとっては家の芸で、これまでに10回も山藤右京を演じていて言わば体にしみこんだ芸と言うべきか。
色好みながら恐妻家の右京は、昔深い契りを交わした花子が久しぶりに上洛したので、何とか会いたい一心で理屈を並べ立てて一日だけの持仏堂での座禅を許されて喜び勇んで出かける。
家来の太郎冠者(中村翫雀)に身代わりに座禅をさせて、自分はいそいそと花子とのランデブーに出かける。
座禅中の右京を見舞いにやって来た奥方玉の井は身替りに気づいて、代わりに自分が座禅をして待っていると、逢瀬を楽しんで夢心地で帰ってきた右京が、衾を被って座禅をしているのが奥方だと知らずに一夜の醜態を有頂天に自慢し始める。
座禅衾をとって見てみると、太郎冠者ではなくて角を生やした奥方、右京は口から出任せを言って逃げ回る。
外出を許される前と後の二人の駆け引きと、右京の変わり様がコミカルで面白いが、一夜の逢瀬を楽しんでほろ酔い機嫌で帰ってくる右京を、花道で、菊五郎が幸せの絶頂と言わんばかりの腑抜け姿で実に上手く演じている。
舞台に登場しない花子を髣髴とさせる演技で、近かったので菊五郎の赤く染まったふ抜け顔が双眼鏡にはみ出るくらいにクローズアップされたびっくりしたが、流石に千両役者で、愛の交歓の一夜の素晴らしさを表現する為に良くあんな表情が出来るのだなあと妙に感心して観ていた。
仁左衛門は、あの長身でスマートな体全身で、気品と威厳を保ちながら恐持ての奥方を実にユニークに演じていて、浮気の虫である夫の大名をいびるところなど、1オクターブ下げた地声の男声になって威嚇する。
何故か、鼻の穴を少し余分に黒く墨を塗っていて髷を剃っており、その上、端正な顔立ちなので一寸コミカルな顔作りになっているが、腰を後ろに浮かせて足を前に出してスーッと歩くところなど優雅で、とにかく、意表をついた仁左衛門の女形で、先代萩の八汐とは一寸違った仁左衛門の女形を観て楽しかった。
ご主人が愛おしくてしかたがない、そういう感じが出せれば、と思います、と本人は言っているのだが、やはり、正直に言えと言われても、昔馴染みが来たので逢いたいとは、右京といえども奥方には言えないであろう。
ところで真山青果の「荒川の佐吉」は、これは、正真正銘の仁左衛門の舞台である。
三下奴の佐吉が、盲目の赤子を手塩にかけて育てる人情話が重要なテーマの一つだが、それでも、結局手放して親元に返さなければならない人生の悲哀を、仁左衛門は噛み締めるように演じて観客の胸を打つ。
影のように付きつ離れつ付き添う辰五郎の染五郎が味があって実に上手い。
段四郎、孝太郎、時蔵、夫々適役で素晴らしかったが、佐吉の親分である仁兵衛の芦燕に元気がなく、プロンプターの声よりも数テンポ遅れて語っていたのが惜しまれる。