自宅に居て時間があると、結構、庭に出ることが多い。
短時間だと、そんなに変化はない筈なのだが、いつの間にか気がつかない内に、球根から新芽が出ていたり、花がほころびかけてきたり、たった、一晩おいただけでも、草木は変化をし続けており、びっくりすることがある。
特に、春になって急に温かさを増してくると、草花などの成長と変化が激しくなる。
ところで、この千葉の家に引っ越してきて、25年以上になるのだが、最初は、専門の植木職人に頼んで、門被りの槙の木をはじめとして主木や庭周りの生垣など主な植栽をしてもらったのだが、それ以降は、全く我流で私自身で庭つくりを続けてきた。
最初の数年間で、殆ど、庭つくりを終えて、ヨーロッパに赴任したので、多くの木や芝庭などその頃の雰囲気をそのまま残しているのだが、8年間のヨーロッパ生活を終えて帰ってきた時には、素人考えで植えた多くの木が、正に、様変わりの変化を遂げて鬱蒼と茂っていて、どこから手を着ければ良いのか、奮闘した記憶がある。
通信講座で、花咲き実なる講座などを受けて見たり、沢山のガーデニングや植木や草花などの園芸本を買い込んで勉強して、どうにか、それらしき知識と経験を身に着けて、自分で花木の剪定まで、殆ど総てをやれるようになった。
勿論、素人である私自身で出来ることは限られているし、それに、高木の剪定など危険でもあるので、定期的に専門の植木屋さんに頼んで、庭の管理を助けてもらっている。
しかし、庭に何を植えて、何を間引くのかなどは、総て私の一存なので、今ある庭は、その私自身の試行錯誤の連続の結果である。
最初の頃は、どうしても一度植えた木は、中々処分出来ずに悩んだのだが、長い年月で植えたい木や草花が、どんどん、増えて行くばかりなので、最近では、木の剪定も迷わずドラスティックに、そして、庭に合わない木なども、まず、移植などを考えるが、時には、思い切って退場を願っている。
最初は、庭造りの専門書を見ながら、若い頃に、京都などの名所旧跡の名園などを見て回った思い出を大切にしながら、自分自身の庭のグランド・デザインを描いて、意欲的に取り掛かった筈なのだが、専門家に頼まない限り到底無理で、結局、空いている庭の空間に、自分のイメージに合った木を植えて行くと言う結果に終わってしまって、今の庭が出来上がったと言うことになる。
最初に、植木屋さんが設定してくれた庭は、正に、古い形の日本の庭で、門被りの槙の木に、主木は散らし玉作りに仕立てたイヌツゲ、門前の黒松、そして、水周りには金木犀。隣との境界には、大きなモッコクを並べて、伽羅の生垣、そして、庭の外周には、玉作りの柘植の連植、と言った調子で、それなりに体を成していた。
ところが、この後に、お祝いに貰った楠を植え、桜とサクランボ、ヤマモモ、それに、ブラジルの思い出としてフェジョアを何本も植えたのであるから、ヨーロッパから帰って来た時には、手が着けられなくなっていたのは当然であった。
結局、桜とサクランボは切り倒し、楠とヤマモモは、2メートル一寸上で幹を切り、フェジョアは、大剪定をして、どうにか庭に収まっている。
その後、隣との庭の境界に、月桂樹とアオキの生垣を作った。
庭の相当部分には、色々な種類の椿を植えて行ったのだが、アメリカ・ハナミズキや、枝垂れ梅、ゆずなどの柑橘類、枇杷、百日紅、ブルーベリー、沈丁花、皐月、ツツジ、モミジ、バラ、牡丹、馬酔木、コデマリ、紫陽花、山吹、クチナシ、ハナザクロ、紫式部、キンメイモウソウなどの竹、萩等々、自分でも良く分からないくらい雑多な色々な花木を植えているのだが、かなりの混みようである。
これまで、随分、色々な花木を植えては切り、切っては植えてきたので入れ替わりが激しい。
結局、陽の当たり具合や庭との相性などによって、自然と植栽が安定して来て、今の庭に落ち着いたと言うのが正直なところかも知れない。
庭の中央には、私自身で芝生を植えて芝庭にし、庭回りの花木との間が花壇となっているのだが、明確な境界はなく、これも、殆ど球根や宿根草などは植えっぱなしで、毎年、春と秋に、球根や草花を追加して植えているので、色々な草花が入り乱れて咲いている。
芝生の間から、クロッカスやヒヤシンス、ムスカリなどが顔を出すこともあれば、スノードロップやハナニラの咲く真っ白の空間からチューリップが伸びて真っ赤な花を咲かせることもあれば、芍薬が勢いよくピンクの芽を伸ばすこともある。
先日、写真家の友人が来て、これこそ写真の被写体として最高だと言って、しきりにシャッターを切っていた。
私自身、意識して、こんな庭にしようと考えてやってきた訳ではないのだが、長い年月の間に、試行錯誤を繰り返しながら、今の庭に到達した。
兎に角、考え方によっては、常識外れのはちゃめちゃな私の作った我流の庭だが、季節の移り変わりに素晴らしい自然の美しさを見せてくれるので、私自身は、結構満足している。
結局、庭作りなどと大上段に振り被らなくても、庭も生きており、生活とともに、変化して行くものだと思っている。
短時間だと、そんなに変化はない筈なのだが、いつの間にか気がつかない内に、球根から新芽が出ていたり、花がほころびかけてきたり、たった、一晩おいただけでも、草木は変化をし続けており、びっくりすることがある。
特に、春になって急に温かさを増してくると、草花などの成長と変化が激しくなる。
ところで、この千葉の家に引っ越してきて、25年以上になるのだが、最初は、専門の植木職人に頼んで、門被りの槙の木をはじめとして主木や庭周りの生垣など主な植栽をしてもらったのだが、それ以降は、全く我流で私自身で庭つくりを続けてきた。
最初の数年間で、殆ど、庭つくりを終えて、ヨーロッパに赴任したので、多くの木や芝庭などその頃の雰囲気をそのまま残しているのだが、8年間のヨーロッパ生活を終えて帰ってきた時には、素人考えで植えた多くの木が、正に、様変わりの変化を遂げて鬱蒼と茂っていて、どこから手を着ければ良いのか、奮闘した記憶がある。
通信講座で、花咲き実なる講座などを受けて見たり、沢山のガーデニングや植木や草花などの園芸本を買い込んで勉強して、どうにか、それらしき知識と経験を身に着けて、自分で花木の剪定まで、殆ど総てをやれるようになった。
勿論、素人である私自身で出来ることは限られているし、それに、高木の剪定など危険でもあるので、定期的に専門の植木屋さんに頼んで、庭の管理を助けてもらっている。
しかし、庭に何を植えて、何を間引くのかなどは、総て私の一存なので、今ある庭は、その私自身の試行錯誤の連続の結果である。
最初の頃は、どうしても一度植えた木は、中々処分出来ずに悩んだのだが、長い年月で植えたい木や草花が、どんどん、増えて行くばかりなので、最近では、木の剪定も迷わずドラスティックに、そして、庭に合わない木なども、まず、移植などを考えるが、時には、思い切って退場を願っている。
最初は、庭造りの専門書を見ながら、若い頃に、京都などの名所旧跡の名園などを見て回った思い出を大切にしながら、自分自身の庭のグランド・デザインを描いて、意欲的に取り掛かった筈なのだが、専門家に頼まない限り到底無理で、結局、空いている庭の空間に、自分のイメージに合った木を植えて行くと言う結果に終わってしまって、今の庭が出来上がったと言うことになる。
最初に、植木屋さんが設定してくれた庭は、正に、古い形の日本の庭で、門被りの槙の木に、主木は散らし玉作りに仕立てたイヌツゲ、門前の黒松、そして、水周りには金木犀。隣との境界には、大きなモッコクを並べて、伽羅の生垣、そして、庭の外周には、玉作りの柘植の連植、と言った調子で、それなりに体を成していた。
ところが、この後に、お祝いに貰った楠を植え、桜とサクランボ、ヤマモモ、それに、ブラジルの思い出としてフェジョアを何本も植えたのであるから、ヨーロッパから帰って来た時には、手が着けられなくなっていたのは当然であった。
結局、桜とサクランボは切り倒し、楠とヤマモモは、2メートル一寸上で幹を切り、フェジョアは、大剪定をして、どうにか庭に収まっている。
その後、隣との庭の境界に、月桂樹とアオキの生垣を作った。
庭の相当部分には、色々な種類の椿を植えて行ったのだが、アメリカ・ハナミズキや、枝垂れ梅、ゆずなどの柑橘類、枇杷、百日紅、ブルーベリー、沈丁花、皐月、ツツジ、モミジ、バラ、牡丹、馬酔木、コデマリ、紫陽花、山吹、クチナシ、ハナザクロ、紫式部、キンメイモウソウなどの竹、萩等々、自分でも良く分からないくらい雑多な色々な花木を植えているのだが、かなりの混みようである。
これまで、随分、色々な花木を植えては切り、切っては植えてきたので入れ替わりが激しい。
結局、陽の当たり具合や庭との相性などによって、自然と植栽が安定して来て、今の庭に落ち着いたと言うのが正直なところかも知れない。
庭の中央には、私自身で芝生を植えて芝庭にし、庭回りの花木との間が花壇となっているのだが、明確な境界はなく、これも、殆ど球根や宿根草などは植えっぱなしで、毎年、春と秋に、球根や草花を追加して植えているので、色々な草花が入り乱れて咲いている。
芝生の間から、クロッカスやヒヤシンス、ムスカリなどが顔を出すこともあれば、スノードロップやハナニラの咲く真っ白の空間からチューリップが伸びて真っ赤な花を咲かせることもあれば、芍薬が勢いよくピンクの芽を伸ばすこともある。
先日、写真家の友人が来て、これこそ写真の被写体として最高だと言って、しきりにシャッターを切っていた。
私自身、意識して、こんな庭にしようと考えてやってきた訳ではないのだが、長い年月の間に、試行錯誤を繰り返しながら、今の庭に到達した。
兎に角、考え方によっては、常識外れのはちゃめちゃな私の作った我流の庭だが、季節の移り変わりに素晴らしい自然の美しさを見せてくれるので、私自身は、結構満足している。
結局、庭作りなどと大上段に振り被らなくても、庭も生きており、生活とともに、変化して行くものだと思っている。