最近は、歌舞伎座には月に1回だけ行くことにしており、今回は、仁左衛門の助六については、襲名公演が最高の舞台であったであろうから封印して、もう一度、白鸚の「佐倉義民伝」を見ることにした。
1851年に、江戸中村座で初演されたと言うから、本当は、勘九郎あたりが、宗吾を演じれば、勘三郎追善興行になるのであろうが、まだ、もう少し年季が要るのであろう。
しかし、弟の七之助が、宗吾の妻おさんを演じて、若さを抑えた円熟味さえ感じさせる味のある芸を披露して、感動的であった。
前に観た時には、このおさんを福助が演じていたのだが、やはり、芝翫の血であろう、流石に上手い。
この宗吾は、宗吾霊堂の主神であるから、正に、神性をおびさえした高潔な役柄であるのだが、菅丞相や良弁上人は、仁左衛門が適役だとしても、この宗吾は、白鸚でなければならず、白鸚の極め付きの舞台だと思う。
宗吾霊堂にほど近い、この物語の故地である佐倉に、長く住んでいたのだが、残念ながら、まだ、行ったことはない。
しかし、佐倉は、江戸時代には江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族・譜代大名が入封する重要な藩であって、
幕末の藩主で老中でもあった堀田正睦が、蘭学をはじめ学問を奨励し、順天堂を開き、また、ペリー来航以降、外国事務取扱の老中として、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走するなど、幕末の日本開国時代の立役者の一人であり、津田塾大の津田梅子の出生地だとかで、非常に文明開化した素晴らしい藩であったと言う印象を持っていたので、藩主の悪政に百姓一揆的な戦いを挑んだ佐倉惣五郎が、将軍に直訴までして、義民として祀り上げられたと言う物語に大いに興味を感じた。

歴博の資料によると、
佐倉藩と"惣五郎一揆"については、証明しうる史料はない。彼が行ったとされる将軍直訴の年代も、いくつかの説がある。ただ公津台方(こうづだいかた)村に惣五郎という百姓がいたことは、地押(じおし)帳、名寄(なよせ)帳の記載から確かである。この惣五郎が藩と公事(くじ:訴訟)して破れ、恨みを残して処刑されたこと、その惣五郎の霊が祟りを起こし、堀田氏を滅ぼしたことがあり、人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったという話が、公津村を中心に佐倉領内の人々に伝えられており、
宝暦二(1752)年は惣五郎の百周忌にあたる延享三(1746)年、山形から入封した堀田正亮(正信の弟正俊の家系)は、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚した。
藩が認めた惣五郎の話は、十八世紀後半に一挙に体裁を整えた。
『地蔵堂通夜物語』・『堀田騒動記』という惣五郎物語が完成した。
この物語は、苛政→門訴(もんそ)→老中駕籠(かご)訴→将軍直訴→処刑→怨霊という筋を持ち、化政期から幕末にかけて盛んに筆写された。
明治30年代ごろから、「佐倉義民伝」として定着し、見せ場は宗吾と叔父光然の祟りと、歌舞伎で挿入された甚兵衛渡し・子別れという宗吾の苦悩、甚兵衛の義心である。嘉永のヒットの要因は祟りの場であったが、明治以降次第に減少し、甚兵衛渡しと子別れが物語の中心となる。
と言うことだが、歌舞伎では、印旛沼渡し小屋、木内宗吾内と裏手、東叡山直訴の場となっており、クライマックスは、最終場面の直訴の場であろうが、芝居として感動的なのは、厳しい囲いを搔い潜ってやっと自宅に辿り着いた宗吾が、親子対面の名残も尽きぬまま、間を置かずに泣き縋る妻子を振り切って江戸へ旅立つ「子別れ」の場であろう。
ウィキペディアによると、惣五郎は、上野寛永寺に参詣した四代将軍の徳川家綱に直訴したということで、この直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われたのだが、、惣五郎夫妻は磔となり、男子4人も死罪となった。成田市の東勝寺(宗吾霊堂)の縁起では、澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬し、その地が寺地内にある現在の「宗吾様御廟」だと言うことであり、宗吾霊場の由縁である。
この歌舞伎で、実に健気で優しい子役が3人、子別れの悲哀を演じて観客を釘づけにしていたが、徳川幕府は、そのいたいけない子供たちを死罪にしたと言うのだから、赤穂浪士の切腹と同様に、どこかタガがは外れていたと言うことであろうか。
この歌舞伎だが、最終幕の松平伊豆守(高麗蔵)が、大音声で、将軍徳川家綱(勘九郎)に向かって全文を読み上げて、許し難いと言いながら、直訴状の中身だけ抜いて懐に収めて、封書だけを投げ捨てるシーンなど、感動的で、風格と気品を湛えた勘九郎の将軍もそうだが、先の大江山酒呑童子で濯ぎ女若狭を演じた両刀遣いの高麗蔵の重臣姿も絵になって素晴らしい。
それを見上げて、一部始終を実感して、万感胸に迫る感動を噛みしめる白鸚の横顔は、実に清々しくて美しい。
冒頭の印旛沼渡し守甚兵衛は、前には段四郎が実に人情味豊かな老船頭を演じて感動的であったが、当代では、この甚兵衛は、歌六以外には、演じきれる筈がないと思っていたので、この白鸚の宗吾との邂逅シーンは、秀逸であった。
勿論、ヤクザな幻の長吉を演じた彌十郎の性格俳優ぶりの凄みも舞台のツマ、面白い。
勘三郎の七回忌追善興行でもあったのだが、昼の部では、
三人吉三巴白浪で、七之助がお嬢吉三、大江山酒呑童子で、勘九郎が酒呑童子、佐倉義民伝で、勘九郎が徳川家綱、七之助がおさんを演じて、素晴らしい舞台を見せており、まだ、20年以上の活躍を棒に振って逝った勘三郎の早世が、悔やまれて仕方がない。




1851年に、江戸中村座で初演されたと言うから、本当は、勘九郎あたりが、宗吾を演じれば、勘三郎追善興行になるのであろうが、まだ、もう少し年季が要るのであろう。
しかし、弟の七之助が、宗吾の妻おさんを演じて、若さを抑えた円熟味さえ感じさせる味のある芸を披露して、感動的であった。
前に観た時には、このおさんを福助が演じていたのだが、やはり、芝翫の血であろう、流石に上手い。
この宗吾は、宗吾霊堂の主神であるから、正に、神性をおびさえした高潔な役柄であるのだが、菅丞相や良弁上人は、仁左衛門が適役だとしても、この宗吾は、白鸚でなければならず、白鸚の極め付きの舞台だと思う。
宗吾霊堂にほど近い、この物語の故地である佐倉に、長く住んでいたのだが、残念ながら、まだ、行ったことはない。
しかし、佐倉は、江戸時代には江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族・譜代大名が入封する重要な藩であって、
幕末の藩主で老中でもあった堀田正睦が、蘭学をはじめ学問を奨励し、順天堂を開き、また、ペリー来航以降、外国事務取扱の老中として、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走するなど、幕末の日本開国時代の立役者の一人であり、津田塾大の津田梅子の出生地だとかで、非常に文明開化した素晴らしい藩であったと言う印象を持っていたので、藩主の悪政に百姓一揆的な戦いを挑んだ佐倉惣五郎が、将軍に直訴までして、義民として祀り上げられたと言う物語に大いに興味を感じた。

歴博の資料によると、
佐倉藩と"惣五郎一揆"については、証明しうる史料はない。彼が行ったとされる将軍直訴の年代も、いくつかの説がある。ただ公津台方(こうづだいかた)村に惣五郎という百姓がいたことは、地押(じおし)帳、名寄(なよせ)帳の記載から確かである。この惣五郎が藩と公事(くじ:訴訟)して破れ、恨みを残して処刑されたこと、その惣五郎の霊が祟りを起こし、堀田氏を滅ぼしたことがあり、人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったという話が、公津村を中心に佐倉領内の人々に伝えられており、
宝暦二(1752)年は惣五郎の百周忌にあたる延享三(1746)年、山形から入封した堀田正亮(正信の弟正俊の家系)は、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚した。
藩が認めた惣五郎の話は、十八世紀後半に一挙に体裁を整えた。
『地蔵堂通夜物語』・『堀田騒動記』という惣五郎物語が完成した。
この物語は、苛政→門訴(もんそ)→老中駕籠(かご)訴→将軍直訴→処刑→怨霊という筋を持ち、化政期から幕末にかけて盛んに筆写された。
明治30年代ごろから、「佐倉義民伝」として定着し、見せ場は宗吾と叔父光然の祟りと、歌舞伎で挿入された甚兵衛渡し・子別れという宗吾の苦悩、甚兵衛の義心である。嘉永のヒットの要因は祟りの場であったが、明治以降次第に減少し、甚兵衛渡しと子別れが物語の中心となる。
と言うことだが、歌舞伎では、印旛沼渡し小屋、木内宗吾内と裏手、東叡山直訴の場となっており、クライマックスは、最終場面の直訴の場であろうが、芝居として感動的なのは、厳しい囲いを搔い潜ってやっと自宅に辿り着いた宗吾が、親子対面の名残も尽きぬまま、間を置かずに泣き縋る妻子を振り切って江戸へ旅立つ「子別れ」の場であろう。
ウィキペディアによると、惣五郎は、上野寛永寺に参詣した四代将軍の徳川家綱に直訴したということで、この直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われたのだが、、惣五郎夫妻は磔となり、男子4人も死罪となった。成田市の東勝寺(宗吾霊堂)の縁起では、澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬し、その地が寺地内にある現在の「宗吾様御廟」だと言うことであり、宗吾霊場の由縁である。
この歌舞伎で、実に健気で優しい子役が3人、子別れの悲哀を演じて観客を釘づけにしていたが、徳川幕府は、そのいたいけない子供たちを死罪にしたと言うのだから、赤穂浪士の切腹と同様に、どこかタガがは外れていたと言うことであろうか。
この歌舞伎だが、最終幕の松平伊豆守(高麗蔵)が、大音声で、将軍徳川家綱(勘九郎)に向かって全文を読み上げて、許し難いと言いながら、直訴状の中身だけ抜いて懐に収めて、封書だけを投げ捨てるシーンなど、感動的で、風格と気品を湛えた勘九郎の将軍もそうだが、先の大江山酒呑童子で濯ぎ女若狭を演じた両刀遣いの高麗蔵の重臣姿も絵になって素晴らしい。
それを見上げて、一部始終を実感して、万感胸に迫る感動を噛みしめる白鸚の横顔は、実に清々しくて美しい。
冒頭の印旛沼渡し守甚兵衛は、前には段四郎が実に人情味豊かな老船頭を演じて感動的であったが、当代では、この甚兵衛は、歌六以外には、演じきれる筈がないと思っていたので、この白鸚の宗吾との邂逅シーンは、秀逸であった。
勿論、ヤクザな幻の長吉を演じた彌十郎の性格俳優ぶりの凄みも舞台のツマ、面白い。
勘三郎の七回忌追善興行でもあったのだが、昼の部では、
三人吉三巴白浪で、七之助がお嬢吉三、大江山酒呑童子で、勘九郎が酒呑童子、佐倉義民伝で、勘九郎が徳川家綱、七之助がおさんを演じて、素晴らしい舞台を見せており、まだ、20年以上の活躍を棒に振って逝った勘三郎の早世が、悔やまれて仕方がない。



