科学技術の発展に伴って、宗教的な真理や教条が、次々と論破されて行き、ホモ・サピエンスの世界観を大きく変えて行ったのだが、ハラリは、その科学と宗教との関係をどのように考えているのか、興味を感じていた。
先に、3000年前に、森羅万象の創造主が、ホモ・サピエンスと言う種の成員に、同性愛行為を慎むよう命じたと聖書のレビ記に見られると言うのを紹介したが、
ハラリは、その聖書を誰が書いたか、専門家の査読を受けた科学研究の大半の内容は一致しており、聖書は、記述していると称する出来事が起こってから何世紀も後に、それぞれ異なる書き手によって書かれた、おびただしい文書の集成であり、これらの文書が単一の聖なる書物にまとめられたのは、聖書時代のずっと後になってからのことだった。と言う。
実際には、倫理的な判断と事実に関する言明は、何時も簡単に区別できるわけではない。「神が聖書を書いた」と言う事実に関する言明は、「あなたは聖書を神が書いたと信じるべきである」と言う倫理的な命令に変わってしまうことがあまりにも多く、事実に関するこの言明を信じることが美徳となり、疑うことは恐ろしい罪となる。
イスラム原理主義者は、幸せになるために天国に行きたがり、自由主義者は人間の自由を増せば幸福を最大化できると信じており、ドイツの国家主義者はドイツ政府が世界の舵取りを任されればあらゆる人の境遇が改善されると考えている。と言うのである。
しかし、実際には、幸福の科学的定義も測定法もない以上、このような見識を使って倫理にまつわる言い争いに決着をつけることは至難の業であある。例えば、三峡ダムが、事業の究極の目的が世界を幸せにすることだとしても、安い電気を生み出すことが、環境破壊を阻止して、伝統的な生活様式を守ったり、珍しい揚子江川イルカを救ったりするよりも、全世界の幸福に貢献するとどうして言えようか。と疑問を呈する。
したがって、科学には、越えられない一線があって、何らかの宗教的な導きがなければ、大規模な社会的秩序を維持するのは不可能である。科学革命が始まったのは、教条主義的で不寛容な宗教的な社会においてであったが、宗教は、科学研究の倫理的正当性を提供し、それと引き換えに、科学の方針と科学的発見の利用法に影響を与えた。
宗教は秩序に関心があり社会構造を創り出して維持することを目指す。科学は何をおいても力に関心がある。科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先するので、両者は相性が良い。真理の断固とした探求は霊的な旅で、宗教や科学の主流の中にはめったに収まりきらない。
したがって、近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。現代社会は、人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためではなく、それを実行に移すために科学を利用する。のだと言う。
21世紀には、人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだが、この両者を結びつける契約が崩れ去って、全く違った種類の取り決め、すなわち、科学と何らかのポスト人間至上主義の宗教との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある。と言うのである。
このことについては、下巻で論じているので、その時に考える。
ところで、ハラリは、宗教に関して興味深いことを言っている。
キリスト教など既成宗教では、聖典には、私たちのあらゆる疑問に対する答えが記されている、と宣言している。そして、裁判所と政府と企業に圧力をかけ、聖典の内容に沿って行動させる。賢明な人が聖典を読み、それから世の中を眺めると、聖典と世の中が現に一致しているのが見て取れる。
たとえ聖典が現実の本質を偽るものだったとしても、何千年にもわたって権威を保つことが出来、聖書の歴史観は間違っているが、それでも、首尾よく世界に広まり、膨大な数の人が今なお信じていて、聖書は、一神教の全能の神によって支配されていると主張している。
しかし、聖書時代にも、はるかに正確な歴史認識を持っている文化があって、アニミズムや多神教の信奉者は、単一の神ではなく、おびただしい数の力が働く場としてこの世界を描き出していた。多くの出来事が自分やお気に入りの神とは無関係であり、そうした出来事が自分の罪でもなければ、善行に対する報いでもないことを難なく受け入れていた。
ヘロドトスやトゥキュディデスや司馬遷は、私たちの現代的な見方に非常によく似た、高度な歴史理論を構築しており、今日の学者は、聖書よりも、彼らと意見が一致する。と説いている。
アメリカの経済が躓くと、聖書を篤く信仰する(トランプや)共和党党員さえ、自分自身の罪ではなく中国を公然と非難する。
この点については、以前に紹介した梅原猛氏の、
「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。
そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。と言う見解を思い出す。
これは、非常に重要な論点でもあるので、場を改めて考えてみたい。
先に、3000年前に、森羅万象の創造主が、ホモ・サピエンスと言う種の成員に、同性愛行為を慎むよう命じたと聖書のレビ記に見られると言うのを紹介したが、
ハラリは、その聖書を誰が書いたか、専門家の査読を受けた科学研究の大半の内容は一致しており、聖書は、記述していると称する出来事が起こってから何世紀も後に、それぞれ異なる書き手によって書かれた、おびただしい文書の集成であり、これらの文書が単一の聖なる書物にまとめられたのは、聖書時代のずっと後になってからのことだった。と言う。
実際には、倫理的な判断と事実に関する言明は、何時も簡単に区別できるわけではない。「神が聖書を書いた」と言う事実に関する言明は、「あなたは聖書を神が書いたと信じるべきである」と言う倫理的な命令に変わってしまうことがあまりにも多く、事実に関するこの言明を信じることが美徳となり、疑うことは恐ろしい罪となる。
イスラム原理主義者は、幸せになるために天国に行きたがり、自由主義者は人間の自由を増せば幸福を最大化できると信じており、ドイツの国家主義者はドイツ政府が世界の舵取りを任されればあらゆる人の境遇が改善されると考えている。と言うのである。
しかし、実際には、幸福の科学的定義も測定法もない以上、このような見識を使って倫理にまつわる言い争いに決着をつけることは至難の業であある。例えば、三峡ダムが、事業の究極の目的が世界を幸せにすることだとしても、安い電気を生み出すことが、環境破壊を阻止して、伝統的な生活様式を守ったり、珍しい揚子江川イルカを救ったりするよりも、全世界の幸福に貢献するとどうして言えようか。と疑問を呈する。
したがって、科学には、越えられない一線があって、何らかの宗教的な導きがなければ、大規模な社会的秩序を維持するのは不可能である。科学革命が始まったのは、教条主義的で不寛容な宗教的な社会においてであったが、宗教は、科学研究の倫理的正当性を提供し、それと引き換えに、科学の方針と科学的発見の利用法に影響を与えた。
宗教は秩序に関心があり社会構造を創り出して維持することを目指す。科学は何をおいても力に関心がある。科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先するので、両者は相性が良い。真理の断固とした探求は霊的な旅で、宗教や科学の主流の中にはめったに収まりきらない。
したがって、近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。現代社会は、人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためではなく、それを実行に移すために科学を利用する。のだと言う。
21世紀には、人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだが、この両者を結びつける契約が崩れ去って、全く違った種類の取り決め、すなわち、科学と何らかのポスト人間至上主義の宗教との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある。と言うのである。
このことについては、下巻で論じているので、その時に考える。
ところで、ハラリは、宗教に関して興味深いことを言っている。
キリスト教など既成宗教では、聖典には、私たちのあらゆる疑問に対する答えが記されている、と宣言している。そして、裁判所と政府と企業に圧力をかけ、聖典の内容に沿って行動させる。賢明な人が聖典を読み、それから世の中を眺めると、聖典と世の中が現に一致しているのが見て取れる。
たとえ聖典が現実の本質を偽るものだったとしても、何千年にもわたって権威を保つことが出来、聖書の歴史観は間違っているが、それでも、首尾よく世界に広まり、膨大な数の人が今なお信じていて、聖書は、一神教の全能の神によって支配されていると主張している。
しかし、聖書時代にも、はるかに正確な歴史認識を持っている文化があって、アニミズムや多神教の信奉者は、単一の神ではなく、おびただしい数の力が働く場としてこの世界を描き出していた。多くの出来事が自分やお気に入りの神とは無関係であり、そうした出来事が自分の罪でもなければ、善行に対する報いでもないことを難なく受け入れていた。
ヘロドトスやトゥキュディデスや司馬遷は、私たちの現代的な見方に非常によく似た、高度な歴史理論を構築しており、今日の学者は、聖書よりも、彼らと意見が一致する。と説いている。
アメリカの経済が躓くと、聖書を篤く信仰する(トランプや)共和党党員さえ、自分自身の罪ではなく中国を公然と非難する。
この点については、以前に紹介した梅原猛氏の、
「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。
そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。と言う見解を思い出す。
これは、非常に重要な論点でもあるので、場を改めて考えてみたい。