英太夫が、呂太夫を襲名披露した頃に出版されたが、まだ、読んでいなかったので、昨年の襲名披露公演記念のNHKの番組を観ながら、遅ればせながら読んでみたが、結構面白かった。
昨年5月の国立小劇場での呂太夫の襲名披露狂言は、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」であった。
その前の「寺入りの段」は、義太夫を呂勢太夫と三味線を清治、「寺子屋の段」は、前を呂太夫と清介、切を咲太夫と燕三であった。
松王丸を玉男、千代を勘十郎、武部源蔵を和生、戸浪を勘壽が遣い、感動的な舞台であった。
ところで、文楽の太夫の修業や人形遣いの途轍もない苦労話など、芸にのめり込む執念の凄さなどは、これまでに、住大夫や初代玉男や簑助などの履歴書や書物をかなり読んで知っているので、呂太夫のその方面には、殆ど関心はなかった。
大阪弁での語り口がそうさせるのか、実際そうなのかはよく分からないのだが、悪く言えば、ちゃらんぽらんと言うか行き当たりばったり、良く言えば、幸運なり偶然が、呂太夫の人生を決定してきたような気がして、非常に面白かった。
まず、クリスチャンになった切っ掛けだが、母がミッション出であったり日曜学校に通っていたとしても、中学時代の番長仲間のM君に誘われて、教会でのキリスト降誕の芝居で、一人足りない東方3博士にエキストラ出演して、その高校生クラスに、凄く可愛らしい名門の女子学院高校生がいて、清楚な感じのめちゃくちゃかわいい、好きなタイプなきれいな子で、すぐ辞めるつもりだったが、「もうちょっとだけいよか」。教会に逆戻り、これが、今の奥さんだと言う。
小説家になる夢も劇団に入る希望も潰えて、勉強していたが、大学入試に2浪。5代目呂太夫兄さんに、「君は声が大きいから絶対に太夫になれる。東京を離れて大阪へ行って、修業みたいなもん適当にやっといて、やっぱり太夫はあきまへん、こんどはどっかへトンズラして文学の勉強したらええねん」と言われて、名案やと思って、いわば、家出の口実のために文楽に入ったんです。と言う。
尤も、切っ掛けがどうであろうと、大変な苦労と努力奮闘、弛まぬ厳しい稽古と研鑽があってこその今日の呂太夫があるのであって、笑って済まされないと思うが、これも人生であろうと思う。
呂太夫は、さらりと語ってはいるが、いぶし銀のような人生の軌跡を開陳しており、非常に感動的である。
恥ずかしながら、自分自身を振り返ってみても、特に、確固たる目標や希望があって、今日まで生き抜いてきたと言うよりも、偶然の連続で生きてきたような気がしている。
大学も、最初は法学部を目指していたが、経済の方が面白いと思って入試直前に学部を変更したり、大学に入っても、何を目指すべきか判然としていなかったし、就職先も特に選んだわけでもなく、何となく入ったと言う感じであったし、
まあ、スタートとしては、偶々、良い大学を出て大企業に入って、アメリカ留学に派遣されて、それがトップクラスのMBA大学院であったが故に、そして、Japan as No.1の日本経済の全盛期であったことが幸いして、ロンドンパリを股にかけて、世界中を駆け回り、切った張ったの人生を歩んできた。と言うことであろう。
世俗的には、成功しなかったが、世界の歴史の現場・故地や貴重な文化遺産や劇場や博物館・美術館などを逍遥して、真善美の追求を通じて、人間の凄さを実感してきた。幸せだったと思っている。
もう一度繰り返せるかどうかは別として、良かれ悪しかれ、人生は、何度も十字路に直面して苦しみながらも、結果的には、偶然の連続であるような気がしている。
昨年5月の国立小劇場での呂太夫の襲名披露狂言は、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」であった。
その前の「寺入りの段」は、義太夫を呂勢太夫と三味線を清治、「寺子屋の段」は、前を呂太夫と清介、切を咲太夫と燕三であった。
松王丸を玉男、千代を勘十郎、武部源蔵を和生、戸浪を勘壽が遣い、感動的な舞台であった。
ところで、文楽の太夫の修業や人形遣いの途轍もない苦労話など、芸にのめり込む執念の凄さなどは、これまでに、住大夫や初代玉男や簑助などの履歴書や書物をかなり読んで知っているので、呂太夫のその方面には、殆ど関心はなかった。
大阪弁での語り口がそうさせるのか、実際そうなのかはよく分からないのだが、悪く言えば、ちゃらんぽらんと言うか行き当たりばったり、良く言えば、幸運なり偶然が、呂太夫の人生を決定してきたような気がして、非常に面白かった。
まず、クリスチャンになった切っ掛けだが、母がミッション出であったり日曜学校に通っていたとしても、中学時代の番長仲間のM君に誘われて、教会でのキリスト降誕の芝居で、一人足りない東方3博士にエキストラ出演して、その高校生クラスに、凄く可愛らしい名門の女子学院高校生がいて、清楚な感じのめちゃくちゃかわいい、好きなタイプなきれいな子で、すぐ辞めるつもりだったが、「もうちょっとだけいよか」。教会に逆戻り、これが、今の奥さんだと言う。
小説家になる夢も劇団に入る希望も潰えて、勉強していたが、大学入試に2浪。5代目呂太夫兄さんに、「君は声が大きいから絶対に太夫になれる。東京を離れて大阪へ行って、修業みたいなもん適当にやっといて、やっぱり太夫はあきまへん、こんどはどっかへトンズラして文学の勉強したらええねん」と言われて、名案やと思って、いわば、家出の口実のために文楽に入ったんです。と言う。
尤も、切っ掛けがどうであろうと、大変な苦労と努力奮闘、弛まぬ厳しい稽古と研鑽があってこその今日の呂太夫があるのであって、笑って済まされないと思うが、これも人生であろうと思う。
呂太夫は、さらりと語ってはいるが、いぶし銀のような人生の軌跡を開陳しており、非常に感動的である。
恥ずかしながら、自分自身を振り返ってみても、特に、確固たる目標や希望があって、今日まで生き抜いてきたと言うよりも、偶然の連続で生きてきたような気がしている。
大学も、最初は法学部を目指していたが、経済の方が面白いと思って入試直前に学部を変更したり、大学に入っても、何を目指すべきか判然としていなかったし、就職先も特に選んだわけでもなく、何となく入ったと言う感じであったし、
まあ、スタートとしては、偶々、良い大学を出て大企業に入って、アメリカ留学に派遣されて、それがトップクラスのMBA大学院であったが故に、そして、Japan as No.1の日本経済の全盛期であったことが幸いして、ロンドンパリを股にかけて、世界中を駆け回り、切った張ったの人生を歩んできた。と言うことであろう。
世俗的には、成功しなかったが、世界の歴史の現場・故地や貴重な文化遺産や劇場や博物館・美術館などを逍遥して、真善美の追求を通じて、人間の凄さを実感してきた。幸せだったと思っている。
もう一度繰り返せるかどうかは別として、良かれ悪しかれ、人生は、何度も十字路に直面して苦しみながらも、結果的には、偶然の連続であるような気がしている。