この日の企画公演は、狂言「枕物狂」と喜多流の能「竹生島」で、滋賀県の観光展示も来ていて、意欲的な公演であった。
先日、NHKで放映されていた野村万蔵家三代による野村萬の「枕物狂」を観て、非常に面白いと思って鑑賞させて貰い、今回の舞台は茂山千五郎家による茂山千作の「枕物狂」にも、非常に感銘を受けたので、印象を綴ってみたい。
囃子や地謡も登場する能と同じような本格的な45分の大舞台で、狂言の懐の深さを実感させる素晴らしい曲である。
今回のキャスティングは、つぎのとおり。
シテ(祖父):茂山千作
アド(孫):茂山茂
アド(孫):茂山逸平
アド(乙):茂山千三郎
地頭 :茂山七五三
後見 :茂山千五郎
平凡社の百科事典を引用させて貰うと、
まくらものぐるい【枕物狂】
狂言の曲名。雑狂言。大蔵,和泉両流にある。百歳を超えた祖父(おうじ)が,近ごろ恋に悩むという噂なので,2人の孫は,それが事実ならかなえさせたいと,祖父を訪問して,ことの真相を尋ねる。初めは隠していた祖父も,ついに,秘めた恋の相手は先月の地蔵講の頭人であった刑部三郎の娘おとであると告白する。孫の1人がおとを連れてきて祖父に引き合わせる。祖父は老いの恥をさらした恨み言を謡に託して言うものの,喜びは隠しきれずに,おとと連れ立って幕に入る。
揚幕から、よろっと顔を覗かせた祖父は、枕を結び付けた笹をもって橋掛かりを夢遊病のような風体で、「枕ものにや狂うらん……」と謡いながら彷徨い出てくるのだが、このスタイルは、笹をもって登場する能の物狂いのシテと同じだが、「花子」の男の出と同じだろうが、100歳の老人の恋狂いと言うか深刻な恋病いであるから、揚幕から舞台までの橋掛かりの演技が難しいのであろう。
孫たちが、恋をしておられるのだろうと尋ねると、祖父は、何じゃ、鯉かとはぐらかし、恋とは若者のすることといなして、先人の恋の話として、志賀寺の上人が京極の御息所に一目ぼれしたことや、柿の本の紀僧正が染殿の后に恋をして入水自殺をした恋の恐ろしい昔物語を語っているうちに、つい感極まって「祖父もこの恋かなわずは、いかなる井戸の中、溝の底へも身を投げ……」と切ない恋心を謡い上げてバレてしまう。
しかたなく、地蔵講の時に刑部三郎の娘乙の笑顔に魅せられたことなど語り始めると、囃子と地謡が伴奏を始めて、雰囲気を盛り上げる。
乙のえくぼが可愛くて、ふとももを抓ったら、乙に枕を取って打たれてまっくら(枕)になったと述懐して、大切に持っていたのを、先ほど投げ捨てた枕を拾い上げて、「足摺してぞ泣き居たる。」
この小道具の枕だが、枕を交わすと言えば愛の交歓、この投げつけられた枕を笹に結わえて、恋の妄執に悶々とする祖父と言う設定だが、実に意味深な狂言であると思う。
打ちひしがれて蹲っていた祖父は、眼前に現れた愛しい乙の姿を見てびっくり、喜びをかみしめながら、乙と連れ立って揚幕に消えて行くのだが、老醜をさらした祖父の恋を、何となく色香を漂わせながら、しかも上品に演じなければならないところに、むずかしさがある。 と言う。
大蔵流の茂山家の祖父は、面を掛けずに直面で演じているので、千作の非常に繊細で微に入り細に入り心を込めたリアルな表情が、劇的効果を表して、喜劇としての面白さを表出していて分かり易い。
祖父の千作は、「こちらへわたしめ、こちらへわたしめ」と言って、橋掛かりを退場して行くのだが、後からついて橋掛かりに入って来る乙をちらっと見て、実に嬉しそうに幸せの絶頂、にっこりと笑って歩を進めるところなど、老いらくの恋も捨てたものではないと言う証か、老醜の欠片さえなく、微笑ましささえ感じさせて秀逸。
一方、野村萬は、三光尉に似た品のある祖父面をつけていたが、セリフが主体だとは言っても、顔の表情などは殆ど変えずに、恐らく直面の能楽師のように演じていたはずで、リアルさをセーブしている点、象徴的で、ラストシーンなども、頷く仕草で乙との関係を得心して幸せを滲ませて終えている。
ところで、今回の乙の面だが、どう考えても魅力的とは思えないようなおかめ面。(万蔵家の乙面は、鼻が低いだけで可愛い。)
この場合は、「にっこと笑うた顔を見たれば、のうしおらしや、天目ほどのえくぼが七八十も入った。」と言っているから、「あばたも笑窪」と言うのであろうか、「蓼食う虫も好き好き」と言うか、恋は異なもの味なもの、恋は不可思議なものであると言うことであろうか。
若い時は、美醜に拘るが、歳を取ると、もっと人間的な心の感興と言うか滲み出た女性の愛しさに魅かれるのかも知れないとも思う。
この舞台で、孫たちに恋をしているだろうと聞かれて、「総じて、恋の思いということは、十九や二十の者にこそあれ、この百年にあまる祖父が恋などするものか」と強がりを言っているのだが、(総じて、)恋には歳など関係ないのであろう。
しかし、この曲は、殆ど3世代ほども離れた恋物語でありながら、ハッピーエンドで終わっているのだが、恋の仲立ちを買って出る孫たちの気持ちも実にモダンで、人間の優しさ愛しさ悲しさ、色々な感情を綯い交ぜにした心の軌跡を、老人の恋と言う俗っぽい、しかし、人間の究極に触れたテーマで語っていて面白い。
私自身、老いらくの恋の気持ちも分かるし、何となく共感する世代であると言うことでもあろうと思う。
先日、NHKで放映されていた野村万蔵家三代による野村萬の「枕物狂」を観て、非常に面白いと思って鑑賞させて貰い、今回の舞台は茂山千五郎家による茂山千作の「枕物狂」にも、非常に感銘を受けたので、印象を綴ってみたい。
囃子や地謡も登場する能と同じような本格的な45分の大舞台で、狂言の懐の深さを実感させる素晴らしい曲である。
今回のキャスティングは、つぎのとおり。
シテ(祖父):茂山千作
アド(孫):茂山茂
アド(孫):茂山逸平
アド(乙):茂山千三郎
地頭 :茂山七五三
後見 :茂山千五郎
平凡社の百科事典を引用させて貰うと、
まくらものぐるい【枕物狂】
狂言の曲名。雑狂言。大蔵,和泉両流にある。百歳を超えた祖父(おうじ)が,近ごろ恋に悩むという噂なので,2人の孫は,それが事実ならかなえさせたいと,祖父を訪問して,ことの真相を尋ねる。初めは隠していた祖父も,ついに,秘めた恋の相手は先月の地蔵講の頭人であった刑部三郎の娘おとであると告白する。孫の1人がおとを連れてきて祖父に引き合わせる。祖父は老いの恥をさらした恨み言を謡に託して言うものの,喜びは隠しきれずに,おとと連れ立って幕に入る。
揚幕から、よろっと顔を覗かせた祖父は、枕を結び付けた笹をもって橋掛かりを夢遊病のような風体で、「枕ものにや狂うらん……」と謡いながら彷徨い出てくるのだが、このスタイルは、笹をもって登場する能の物狂いのシテと同じだが、「花子」の男の出と同じだろうが、100歳の老人の恋狂いと言うか深刻な恋病いであるから、揚幕から舞台までの橋掛かりの演技が難しいのであろう。
孫たちが、恋をしておられるのだろうと尋ねると、祖父は、何じゃ、鯉かとはぐらかし、恋とは若者のすることといなして、先人の恋の話として、志賀寺の上人が京極の御息所に一目ぼれしたことや、柿の本の紀僧正が染殿の后に恋をして入水自殺をした恋の恐ろしい昔物語を語っているうちに、つい感極まって「祖父もこの恋かなわずは、いかなる井戸の中、溝の底へも身を投げ……」と切ない恋心を謡い上げてバレてしまう。
しかたなく、地蔵講の時に刑部三郎の娘乙の笑顔に魅せられたことなど語り始めると、囃子と地謡が伴奏を始めて、雰囲気を盛り上げる。
乙のえくぼが可愛くて、ふとももを抓ったら、乙に枕を取って打たれてまっくら(枕)になったと述懐して、大切に持っていたのを、先ほど投げ捨てた枕を拾い上げて、「足摺してぞ泣き居たる。」
この小道具の枕だが、枕を交わすと言えば愛の交歓、この投げつけられた枕を笹に結わえて、恋の妄執に悶々とする祖父と言う設定だが、実に意味深な狂言であると思う。
打ちひしがれて蹲っていた祖父は、眼前に現れた愛しい乙の姿を見てびっくり、喜びをかみしめながら、乙と連れ立って揚幕に消えて行くのだが、老醜をさらした祖父の恋を、何となく色香を漂わせながら、しかも上品に演じなければならないところに、むずかしさがある。 と言う。
大蔵流の茂山家の祖父は、面を掛けずに直面で演じているので、千作の非常に繊細で微に入り細に入り心を込めたリアルな表情が、劇的効果を表して、喜劇としての面白さを表出していて分かり易い。
祖父の千作は、「こちらへわたしめ、こちらへわたしめ」と言って、橋掛かりを退場して行くのだが、後からついて橋掛かりに入って来る乙をちらっと見て、実に嬉しそうに幸せの絶頂、にっこりと笑って歩を進めるところなど、老いらくの恋も捨てたものではないと言う証か、老醜の欠片さえなく、微笑ましささえ感じさせて秀逸。
一方、野村萬は、三光尉に似た品のある祖父面をつけていたが、セリフが主体だとは言っても、顔の表情などは殆ど変えずに、恐らく直面の能楽師のように演じていたはずで、リアルさをセーブしている点、象徴的で、ラストシーンなども、頷く仕草で乙との関係を得心して幸せを滲ませて終えている。
ところで、今回の乙の面だが、どう考えても魅力的とは思えないようなおかめ面。(万蔵家の乙面は、鼻が低いだけで可愛い。)
この場合は、「にっこと笑うた顔を見たれば、のうしおらしや、天目ほどのえくぼが七八十も入った。」と言っているから、「あばたも笑窪」と言うのであろうか、「蓼食う虫も好き好き」と言うか、恋は異なもの味なもの、恋は不可思議なものであると言うことであろうか。
若い時は、美醜に拘るが、歳を取ると、もっと人間的な心の感興と言うか滲み出た女性の愛しさに魅かれるのかも知れないとも思う。
この舞台で、孫たちに恋をしているだろうと聞かれて、「総じて、恋の思いということは、十九や二十の者にこそあれ、この百年にあまる祖父が恋などするものか」と強がりを言っているのだが、(総じて、)恋には歳など関係ないのであろう。
しかし、この曲は、殆ど3世代ほども離れた恋物語でありながら、ハッピーエンドで終わっているのだが、恋の仲立ちを買って出る孫たちの気持ちも実にモダンで、人間の優しさ愛しさ悲しさ、色々な感情を綯い交ぜにした心の軌跡を、老人の恋と言う俗っぽい、しかし、人間の究極に触れたテーマで語っていて面白い。
私自身、老いらくの恋の気持ちも分かるし、何となく共感する世代であると言うことでもあろうと思う。