熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

平川 祐弘著「中世の四季 ---ダンテ『神曲』」

2020年08月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ダンテの「新生」を読んだので、ついでにと思って、「中世の四季 ---ダンテ『神曲』」を手にした。
   平川教授の随分古い本の復刻版だが、賞味期限があるような内容でもないので、雑学吸収と考えて読み始めたのである。

   まず、最初に、「神曲」の世界
   翻訳本の概説なので、特に、目新しいものはないのだが、ダンテが、造形美術について非常な興味と関心を寄せた人であったと言う指摘で、彫刻や絵画との関わりについて、興味を感じた。
   「神曲」は、詩と文學の最高峰の作品であるばかりではなく、同時に、彫刻や絵画等の芸術にも、強大な霊感を与えて、多くの主題を提供してきた。
   ダンテ自身が、造形美術に造詣が深く、詩の中で、芸術家について言及して居るのみならず、彼自身に絵心があってその豊かな表現描写が芸術家の霊感の泉となったと言うことが、造形芸術にとって第1級の重要性を持つ人物だったと言うことであろう。
   ジョットとも親しかったようで、詩の中でも言及しているのだが、そのこともあって、いくらかダンテの像が残されているのだが、私は、ジョットの次の繪が一番ダンテを現しているのではないかと
思っている。
   

   ダンテから芸術的霊感を汲んだのは、システナ礼拝堂の壁画のミケランジェロ、ラファエロ、神曲素描のボッティチェッリから、「地獄の門」のロダンまで、枚挙にいとまがないほどだが、平川教授は、この例を、神曲 煉獄篇第十歌の「受胎告知」の図を上げていて、その後の「高慢の罪の償いを払うために岩を背負った人々が、腰を曲げて泣き顔で近づいてくるシーンが、彫刻家の目で把握された人間群像ではないかと述べている。   

   この第十歌の、岩を背負った人物像の繪は、手元にあるギュスタヴ・ドレエとウイリアム・ブレイクの作品から次の通り。
   ドレエの繪は、インターネットを叩いていたら、国会図書館のアーカイブ画像から古い繪が出てきて興味を持ち、古書を漁って買ったのが、昭和17年6月20日発行の「ダンテ神曲画集」、焦げ茶色に変色したまさに古書そのもの。新版も出ており、英語版だと綺麗な本が出ているのだが、まあ、前時代の雰囲気が出ていて、それも良いかと、置いている。
   
   
   
   


   余談だが、文學と絵画との関係を考えていて、前に、ダ・ヴィンチが、「芸術における最高位は絵画である」と言って居たのを思い出した。
   ミラノのスファルツァ城で行われた、幾何学、彫刻、音楽、絵画、詩歌のどれに相対的優位があるか、討論の夕べ「パラゴーネ」で、科学的および審美的観点から、芸術の最高位であると絵画を徹底的に擁護したと言う。絵画を、光学と言う科学的探究や遠近法と言う数学的概念を結び付けて、芸術と科学が如何に密接に結びついているかを訴え、真のクリエイティビティには、観察と想像を結び付け、現実と空想の境界をぼかして行く能力が必要であり、その両方を描くのが偉大な絵画であると熱弁を振るったのである。
   三次元の世界を平面で表現するためには、遠近法や光学の理解が必須であり、絵画は、数学に基づく科学であり、手を動かす作業であると同時に知的な営みである。絵画は、芸術であるばかりではなく、科学である。と言うのである。さらに、絵画は、知性だけではなく、想像力も必要であり、空想と現実がお互いに助け合って、融合すると、自然の創造物のみならず、自然が生み出せなかった総てを生み出す創造性が湧き起こる。と言うのだが、文學との関係については、何も触れていない。
   ダ・ヴィンチは、どちらかというと、理系の科学者であり技術者であって、美学への傾倒著しかった芸術家のミケランジェロやラファエロと違って、ダンテの影響は少なかったのであろう。

   面白かったのは、「神曲」の英語版の全訳が初めて出たのは、1802年で、この「神曲」が、全西欧に巨大な姿を現したのは、実は、19世紀以降の現象だと言うことである。それに、日本へは、森鴎外のアンデルセン「即興詩人」からだと言うから、初期ルネサンスの胎動期のフィレンツェからは、随分時を経ている。
   ダンテが、「神曲」を、地獄篇、煉獄篇と順次完成し、天国篇を書き終えたのは、1321年であるから、世界的には、随分眠っていたと言うことであろうか。
コメント
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