毎年、やってくる終戦記念日、8月15日、
私は、5歳になったところで、宝塚の田舎に住んでいたので、何の記憶もない。
その前に、西宮戎の側に住んでいたのだが、戦争途中に、米軍の爆撃で焼け出されて、母の実家に移り住んだ。
空襲警報のサイレンが聞こえてくると、部屋の電灯にシェイドをかけたり、頭巾を被って庭の防空壕に駆け込んだりしたのを覚えている。
衝撃的だったのは、毎夜のように、西宮に居た頃、神戸や大阪方面の夜空が真っ赤に焼けて明るかったことで、今でも鮮明に覚えている。
戦後、大阪の梅田や神戸の三の宮の焼け野原の悲惨さも、なぜか、瞼の隅に残っている。
戦争中、良く晴れた日には、豆粒のようなB29爆撃機の機体が白く光って飛んで行くのをよく見たが、時折、銀紙の破片がヒラヒラ綺麗に舞い落ちてくると思ったら、打ち落とされた日本機の破片だと言われた。
また、川西航空や飛行場だと思うのだが、破壊された日本軍機が、あっちこっちに転がっていた。
子供だったので、何も分からなかったのだが、アメリカは遠いところだと聞いていたので、多くの米軍機が日本まで飛んできて、こんなに連日連夜、空襲空襲で追い回されているのだから、勝ち目があるはずがないと薄々感じていたような記憶がある。
終戦後の貧しくて厳しい幼少年時代を過ごし、神武景気と安保闘争の中で大学時代を過ごし、必死になって働き続けて、Japan as No.1に上り詰めると同時に、欧米へ飛出して、平穏な豊かになってグローバリゼーションの中で、暮らしてきた。
夢のような人生の展開であった筈で、勝手なことを言いながら、平和な生活にどっぷりと浸かって生きてきたのだが、今思うと、その幸せが如何に貴重なもので大切なのかを身に染みて感じている。
5年前に、新しく上映された映画と1967年版の「日本のいちばんながい日」についてレビューを書いているのだが、また、戦争については、これまでにも随分書いてきたので、これ以上は蛇足なので、止める。
今考えてみれば、豊かな知識教養に裏打ちされた円満なる常識が如何に必要かが分かるのだが、あの時点で、自分自身が正しい価値観を持っていて、日本人としての健全な判断をして行動が出来たかどうかは自信がない。
さて、1939年から1945年までの6年余りにわたった第二次世界大戦が終って、既に、75年、
幸いなことに、米ソ間の冷戦や、今日の米中間の緊張など大国間の軋轢は存在したが、ヴェトナム戦争や中近東などでの戦争はあったものの、世界中を巻き込む世界大戦は起こっていない。
代理戦争や局地戦争など小規模な戦争はあっても、大国間の戦争が勃発して本格的な核戦争に突入すれば、宇宙船地球号のみならず、人類の消滅に至るのは必置だという認識があるからであろう。
マクドナルドのある国同士は戦争しない?」と言うトーマス・フリードマンの「紛争防止の黄金のM型アーチ理論」や、それを発展させたデル・システムのようなジャスト・イン・タイム式サプライ・チェーンで密接に結合された国々の間では、旧来の脅威を駆逐(?)するので戦争など起こらないとする「デルの紛争回避論」などが有名だが、グローバリゼーションが拡大深化し、世界全体がリンクされてしまっており、特に豊かになった国同士では、失うものが多すぎるので、戦争はあり得ないと思っている。
WOWOWで、岡本喜八監督作品の1967年版の「日本のいちばんながい日」が放映されたので、もう一度鑑賞した。
さて、口絵写真は、何か似つかわしい写真はないかと思って、インターネットで、第二次世界大戦をクリックして出てきた写真を借用しているのだが、天皇陛下と爆心地の広島、言うならば、天皇制維持と原子爆弾が、私には、一番象徴的な問題であったと思っている。
椅子や机、パンやミルク、その構成源である原子や分子と少しも違わない、全く同じ原子や分子で形成されている人間が、自分という意識を持って生きている奇跡とも言うべき運命の不可思議を思うと、このような自由で平和で恵まれた世の中で生を謳歌できるという幸せを、どのように感謝すれば良いのか、今日一日、噛みしめてみたいと思っている。
私は、5歳になったところで、宝塚の田舎に住んでいたので、何の記憶もない。
その前に、西宮戎の側に住んでいたのだが、戦争途中に、米軍の爆撃で焼け出されて、母の実家に移り住んだ。
空襲警報のサイレンが聞こえてくると、部屋の電灯にシェイドをかけたり、頭巾を被って庭の防空壕に駆け込んだりしたのを覚えている。
衝撃的だったのは、毎夜のように、西宮に居た頃、神戸や大阪方面の夜空が真っ赤に焼けて明るかったことで、今でも鮮明に覚えている。
戦後、大阪の梅田や神戸の三の宮の焼け野原の悲惨さも、なぜか、瞼の隅に残っている。
戦争中、良く晴れた日には、豆粒のようなB29爆撃機の機体が白く光って飛んで行くのをよく見たが、時折、銀紙の破片がヒラヒラ綺麗に舞い落ちてくると思ったら、打ち落とされた日本機の破片だと言われた。
また、川西航空や飛行場だと思うのだが、破壊された日本軍機が、あっちこっちに転がっていた。
子供だったので、何も分からなかったのだが、アメリカは遠いところだと聞いていたので、多くの米軍機が日本まで飛んできて、こんなに連日連夜、空襲空襲で追い回されているのだから、勝ち目があるはずがないと薄々感じていたような記憶がある。
終戦後の貧しくて厳しい幼少年時代を過ごし、神武景気と安保闘争の中で大学時代を過ごし、必死になって働き続けて、Japan as No.1に上り詰めると同時に、欧米へ飛出して、平穏な豊かになってグローバリゼーションの中で、暮らしてきた。
夢のような人生の展開であった筈で、勝手なことを言いながら、平和な生活にどっぷりと浸かって生きてきたのだが、今思うと、その幸せが如何に貴重なもので大切なのかを身に染みて感じている。
5年前に、新しく上映された映画と1967年版の「日本のいちばんながい日」についてレビューを書いているのだが、また、戦争については、これまでにも随分書いてきたので、これ以上は蛇足なので、止める。
今考えてみれば、豊かな知識教養に裏打ちされた円満なる常識が如何に必要かが分かるのだが、あの時点で、自分自身が正しい価値観を持っていて、日本人としての健全な判断をして行動が出来たかどうかは自信がない。
さて、1939年から1945年までの6年余りにわたった第二次世界大戦が終って、既に、75年、
幸いなことに、米ソ間の冷戦や、今日の米中間の緊張など大国間の軋轢は存在したが、ヴェトナム戦争や中近東などでの戦争はあったものの、世界中を巻き込む世界大戦は起こっていない。
代理戦争や局地戦争など小規模な戦争はあっても、大国間の戦争が勃発して本格的な核戦争に突入すれば、宇宙船地球号のみならず、人類の消滅に至るのは必置だという認識があるからであろう。
マクドナルドのある国同士は戦争しない?」と言うトーマス・フリードマンの「紛争防止の黄金のM型アーチ理論」や、それを発展させたデル・システムのようなジャスト・イン・タイム式サプライ・チェーンで密接に結合された国々の間では、旧来の脅威を駆逐(?)するので戦争など起こらないとする「デルの紛争回避論」などが有名だが、グローバリゼーションが拡大深化し、世界全体がリンクされてしまっており、特に豊かになった国同士では、失うものが多すぎるので、戦争はあり得ないと思っている。
WOWOWで、岡本喜八監督作品の1967年版の「日本のいちばんながい日」が放映されたので、もう一度鑑賞した。
さて、口絵写真は、何か似つかわしい写真はないかと思って、インターネットで、第二次世界大戦をクリックして出てきた写真を借用しているのだが、天皇陛下と爆心地の広島、言うならば、天皇制維持と原子爆弾が、私には、一番象徴的な問題であったと思っている。
椅子や机、パンやミルク、その構成源である原子や分子と少しも違わない、全く同じ原子や分子で形成されている人間が、自分という意識を持って生きている奇跡とも言うべき運命の不可思議を思うと、このような自由で平和で恵まれた世の中で生を謳歌できるという幸せを、どのように感謝すれば良いのか、今日一日、噛みしめてみたいと思っている。