熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ナショナル・ジオグラフィック・・・米国は第3の原爆投下を計画していた

2020年08月09日 | 政治・経済・社会
   電子版記事で、ナショナル・ジオグラフィックが、「米国は第3の原爆投下を計画していた」という記事で、第3の原爆投下目標は、東京であったと報じていた。
   ”米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。”というのである。

   1回目の原爆投下の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられ、科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。その後、リストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られて、京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。
   6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せたのだが、5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外され、また、京都もそのすぐ後に外された。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。
   京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があり、長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。
   「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。命令が下った。

   8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。
   2回目は、テニアン島の幹部は、ワシントンDCに相談することなく(独断で)、時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市だったが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか(前日に近くの八幡市が空襲を受けていた)視界が悪かった。ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。1945年8月9日午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。

   2回の原爆投下もソ連による宣戦布告侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。米国の首都は騒然としていた。8月10日、日本から条件付き降伏案を受け取ったトルーマン大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。 ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。8月12日か13日にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。

   トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。マーシャルはグローブスへ「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。トルーマンが閣僚に対して「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語った。と言う。

   トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。
   だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。
   第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。と言う。
   以上が記事の概要である。

   原爆記念日に当たって、ナショナル・ジオグラフィックの記事の紹介だけに終るのだが、私自身、アメリカでMBA教育を受けたので、アメリカには一宿一飯の恩義を感じている。
   しかし、最近カリフォルニアの学者たちが原爆投下は必要でなかったと主張したように、私は、米国史に残る最高の恥辱であり悪行の極みだと思っているので、フィラデルフィアの学び舎での生活を通して、アメリカ人へは、徹底的に原爆投下の悪を説得し続けてきたし、ヴェトナム戦争を批判し続けてきた。
   今回のトランプ大統領を廻る問題の稚拙さを観ても分かるように、アメリカ人兵士の人命を守るために、戦争を終らせるために、原爆投下は必要であったと信じているアメリカ人が多く、必ずしも、良識的な判断が下されているわけではなく、あの広島に原爆投下したエノラゲイが、スミソニアン博物館に麗々しく展示されていることでも分かる。
   「鬼畜米英」と唱えて負け戦を戦っていた日本の世相も悲しいのだが、原爆記念日が訪れると、いつも、胸が締め付けられる思いである。

   政治は、いつまで経っても迷走しており、唯一の被爆国日本が、いかなる理由があろうとも、核兵器禁止条約に賛同せず批准しないのは最高の恥辱だと思っており、
   幸か不幸かは分からないのだが、このブログでは、平穏無事な平和日本の首都東京の今日を口絵写真に使わせて貰った。
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