イギリスの学者マイケル・マンの「終わりは近いかもしれないが、誰にとっての終わりなのか」と言う論文の論旨は、非常に穏健で常識的である。
冒頭で、資本主義の最終的危機を、単一のシステムとして描写する理論には疑問を抱いているとして、コンドラチェフ循環と覇権循環を基礎として資本主義を分析するウォーラーステインの世界システム論は、洞察力ある簡潔な理論ではあるが、その半分も受け入れることが出来ない。と述べている。
マンは、人間社会についての自分の一般モデルは、社会をシステムでなく、多様に重なり合うネットワークの相互作用として把握することで、その中で最も重要なものは、イデオロギー的力関係、経済的力関係、軍事的力関係、政治的力関係の4つのネットワークであるとして、さらに、この4つに、地政学的関係を、軍事的力と政治的力の独特の混合として付け加えることだと言う。
このフレイムワークで、資本主義世界システムを批判的分析を進めて、二度の経済不況、すなわち、大恐慌と2008年の景気大後退を比較検討しながら、経済恐慌や景気循環論を展開していて興味深い。
資本主義の将来については、コリンズの悲観的な想定は正しいとしながらも、楽観的な見解を示している。
資本主義の崩壊と捉えずに、二つのアルタナティブの未来を想定して、その一つを生み出す可能性があるとする。
第一は、構造的失業が高いままで、かなり悲観的なシナリオで、「三分の二/三分の一」社会、すなわち、三分の二の人々は高学歴で高い技能を持ち、正規雇用を得て暮らしぶりもいいが、残りの三分の一は社会から排除されている貧しい人々で、反乱せずに済むだけの福祉と慈善を受け取るか、あるいは抑圧されてしまうかである。排除された人々は世襲的な下層階級となり、極端な格差拡大下にあるにも拘わらず、アメリカを筆頭に異常に搾取されているにも拘わらず反対者がいない資本主義である。
第二は、もっと楽観的で、資本主義市場が地球を埋め尽くすことで、利潤と成長率が低下し、持続的低成長として持続する。この低成長のシナリオでは、投機の役割が縮小し、金融資本の力を弱体化させ、今日のような景気大後退が繰り返される見込みは少なくなる。労働条件が世界中で改善されるなら朗報だが、既に日本が経験しているような、殆ど定常状態の経済に生きることとなり、資本主義の未来は、無秩序な動揺ではなく退屈なものだと思われる。と言う。
しかし、この比較的安穏なシナリオでも、一国の人口のおよそ10%から15%が臨時雇いや失業中の排除されたマイノリティ下層階級の存在は忍従しなければならないというのである。
2050年頃のある時点で、最も起こりそうなシナリオを選べと言われれば、低成長のグローバル資本主義である。と言う。
他のオルタナティブについては、反資本主義的革命運動は、規模を問わず世界に存在しておらず、革命はありそうにもないシナリオである。
また、先にコリンズが説いていた社会主義化については、改良主義的な社会民主主義か改良主義的自由主義になるのがせいぜいのところだ。と述べている。
しかし、前述の可能性の高いシナリオも、二つの世界大戦を遙かに上回る他の二つの潜在的危機のために、進行が狂ってしまう可能性がある。
第一のグローバルな脅威は、核戦争の軍事的脅威である。
第二のシステム的危機は、気候変動である。
これらについては、かなり詳細に持論を展開しているのだが、自明の論点ばかりなので省略する。
ただ、気候変動については、外国から主権が縮小されることに激しく抵抗する国民国家主権の時代にあるので、好き勝手なことをする総ての国民国家の自立性を厳しく制限する政府間協定が必要とされると述べており、これ以外の解決法はないのだが、トランプのような大統領が出て覇権国家が協定をぶち壊したら、どうするのであろうか。
行動が間に合わず、世界の諸国が協定に失敗して、気候災害が猛威を振るい始めると、悲惨なシナリオ―――北の豊かな諸国と富裕な諸国家による「要塞資本主義」の大きな障壁、「要塞社会主義」、世界の他の地域に敵対する「環境ファシズム」、大量の難民の飢え、資源戦争―――が台頭する。と言うのだが、
私は、「茹でガエル」状態で、地球環境の悪化は、どんどん進んでいって、どうしようもない状態に陥ってしまうような気がしている。
いずれにしろ、核戦争および気候変動の段階的拡大という二つの危険なグローバル危機のために、安穏なシナリオが吹っ飛んでしまって、資本主義の終わりばかりか、人類の文明の終わりさえももたらすであろう。と結んでいる。
多少、異論があるのだが、概ね、私自身、マンに近い考え方をしているので、今回は、マンの資本主義論の紹介にとどめておきたい。
冒頭で、資本主義の最終的危機を、単一のシステムとして描写する理論には疑問を抱いているとして、コンドラチェフ循環と覇権循環を基礎として資本主義を分析するウォーラーステインの世界システム論は、洞察力ある簡潔な理論ではあるが、その半分も受け入れることが出来ない。と述べている。
マンは、人間社会についての自分の一般モデルは、社会をシステムでなく、多様に重なり合うネットワークの相互作用として把握することで、その中で最も重要なものは、イデオロギー的力関係、経済的力関係、軍事的力関係、政治的力関係の4つのネットワークであるとして、さらに、この4つに、地政学的関係を、軍事的力と政治的力の独特の混合として付け加えることだと言う。
このフレイムワークで、資本主義世界システムを批判的分析を進めて、二度の経済不況、すなわち、大恐慌と2008年の景気大後退を比較検討しながら、経済恐慌や景気循環論を展開していて興味深い。
資本主義の将来については、コリンズの悲観的な想定は正しいとしながらも、楽観的な見解を示している。
資本主義の崩壊と捉えずに、二つのアルタナティブの未来を想定して、その一つを生み出す可能性があるとする。
第一は、構造的失業が高いままで、かなり悲観的なシナリオで、「三分の二/三分の一」社会、すなわち、三分の二の人々は高学歴で高い技能を持ち、正規雇用を得て暮らしぶりもいいが、残りの三分の一は社会から排除されている貧しい人々で、反乱せずに済むだけの福祉と慈善を受け取るか、あるいは抑圧されてしまうかである。排除された人々は世襲的な下層階級となり、極端な格差拡大下にあるにも拘わらず、アメリカを筆頭に異常に搾取されているにも拘わらず反対者がいない資本主義である。
第二は、もっと楽観的で、資本主義市場が地球を埋め尽くすことで、利潤と成長率が低下し、持続的低成長として持続する。この低成長のシナリオでは、投機の役割が縮小し、金融資本の力を弱体化させ、今日のような景気大後退が繰り返される見込みは少なくなる。労働条件が世界中で改善されるなら朗報だが、既に日本が経験しているような、殆ど定常状態の経済に生きることとなり、資本主義の未来は、無秩序な動揺ではなく退屈なものだと思われる。と言う。
しかし、この比較的安穏なシナリオでも、一国の人口のおよそ10%から15%が臨時雇いや失業中の排除されたマイノリティ下層階級の存在は忍従しなければならないというのである。
2050年頃のある時点で、最も起こりそうなシナリオを選べと言われれば、低成長のグローバル資本主義である。と言う。
他のオルタナティブについては、反資本主義的革命運動は、規模を問わず世界に存在しておらず、革命はありそうにもないシナリオである。
また、先にコリンズが説いていた社会主義化については、改良主義的な社会民主主義か改良主義的自由主義になるのがせいぜいのところだ。と述べている。
しかし、前述の可能性の高いシナリオも、二つの世界大戦を遙かに上回る他の二つの潜在的危機のために、進行が狂ってしまう可能性がある。
第一のグローバルな脅威は、核戦争の軍事的脅威である。
第二のシステム的危機は、気候変動である。
これらについては、かなり詳細に持論を展開しているのだが、自明の論点ばかりなので省略する。
ただ、気候変動については、外国から主権が縮小されることに激しく抵抗する国民国家主権の時代にあるので、好き勝手なことをする総ての国民国家の自立性を厳しく制限する政府間協定が必要とされると述べており、これ以外の解決法はないのだが、トランプのような大統領が出て覇権国家が協定をぶち壊したら、どうするのであろうか。
行動が間に合わず、世界の諸国が協定に失敗して、気候災害が猛威を振るい始めると、悲惨なシナリオ―――北の豊かな諸国と富裕な諸国家による「要塞資本主義」の大きな障壁、「要塞社会主義」、世界の他の地域に敵対する「環境ファシズム」、大量の難民の飢え、資源戦争―――が台頭する。と言うのだが、
私は、「茹でガエル」状態で、地球環境の悪化は、どんどん進んでいって、どうしようもない状態に陥ってしまうような気がしている。
いずれにしろ、核戦争および気候変動の段階的拡大という二つの危険なグローバル危機のために、安穏なシナリオが吹っ飛んでしまって、資本主義の終わりばかりか、人類の文明の終わりさえももたらすであろう。と結んでいる。
多少、異論があるのだが、概ね、私自身、マンに近い考え方をしているので、今回は、マンの資本主義論の紹介にとどめておきたい。