熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

小塩節著「旅人の夜の歌――ゲーテとワイマル」(2)

2020年08月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ゲーテは、沢山の素晴らしい詩を残している。
   詩など、短い文芸作品では、本当なら、原文そのままで鑑賞すべきなのであろうが、英語ならともかく、私のドイツ語の知識では、殆ど分からないし、まして、内容が凝縮し、象徴性の強い詩のことであるから、無理である。
   ところが、私が最初にゲーテの詩に接したのは、クラシックコンサートでのシューベルトの歌曲で、分かっても分からなくても、原文そのものであり、リズム感はつかめる。
   宝塚の中学の時には、「魔王」のレコードを聴きながら、詩を朗読する授業があったので鮮明に覚えているし、「野ばら」などは、友達と歌っていた。

   私が、ドイツ・リートをコンサートで聴いたのは、ディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウやハンス・ホッターなどで、シューベルトのどんなゲーテ歌曲を歌ったのか他のリートだったのか、記憶にはない。
   しかし、フィラデルフィアのウォートン・スクールで学んでいたときに、学内で、エリザベート・シュヴァルツコップのドイツ・リートのリサイタルがあって、この時は、間違いなしに、ゲーテの歌曲であった。
   ペンシルバニア大学内の教会であったか、音楽教室だったか、普通の教室だったか記憶はないのだが、質素な部屋にパイプ椅子が並べられた客席で、勿論、私は、最前列のピアノの前に席を占めて、最初から最後まで、熱心に聴いていた。
   その前に、長い間来日が叶わず、やっと、日本でリサイタルを開いたときには、無理して高い切符を買って出かけたのだが、このフィラデルフィアの時は、キャンパスの夏の夜のささやかなイベントの一つといった感じで、実にアットホームな雰囲気で、客も夕涼みにきたといった風情であった。
   キヤノンの一眼レフで、オベーションの時に、写真を数枚撮らせて貰ったのだが、もう、半世紀近くも前のことで、何処に行ったのか手元にはない。
   シュヴァルツコップは1971年12月31日、ブリュッセルのモネ劇場でマルシャリンで最後のオペラに出演し、以後、彼女はドイツ歌曲に専念し、1979年3月17日にチューリッヒで最後のリサイタルを行った。と言うから、その合間の貴重な時期に聴いたことになるのだが、還暦少し前だったと思うが実に優雅で美しくて、天使のような歌声が静寂そのもののキャンパスを荘厳していた。

   さて、この小塩先生の本は、ゲーテの2つの「旅人の夜の歌」がメインテーマとなっているのだが、シューベルトとゲーテとの関わりにつても興味深い話を語っている。
   シューベルトは、ゲーテの詩にいたく感激して触発されて、総計40曲の作品を作曲していて、ウィーンから、ワイマルのゲーテに郵便で送り献呈した。しかし、友人のツェルターの助言のままに中身も見ずせずにそのまま送り返したり紙くず籠に放り込んだ。ところが、完全に無視していたシューベルトの没後2年の1830年4月に、自宅で歌手のヴィルヘルミーネ・シュレーダー・デフリントの歌う「魔王」を聴いて感動し、激賞したという。
   これに関連して、世界の音、音楽の調べに繊細な感覚を持っていたゲーテが、雑音としてしか聞いていない虫の音を、イタリア紀行で、歌声のように感じ取ったと書いているのが興味深い。
   その二年後、ゲーテは82歳で死んでおり、もし、ゲーテが生前に、シューベルトと邂逅していて、対話があれば、どれほど、素晴らしい芸術が生まれていたかと思うと、運命の皮肉を見るような思いがする。
   
   小塩教授は、当時の音楽家との交流も語っていて興味深い。
   イタリアから帰ってきたゲーテは、自宅にグランドピアノを置き、サロンに著名な音楽家を招いて音楽を楽しみ、少年フェリックス・メンデルスゾーンが、ベートーヴェンの作品をゲーテに丁寧に聞かせたりして親交を深め、ロベルト・シューマンの妻となりヨハネス・ブラームスが愛した少女クララ・ヴィークを膝の上にのせてピアノを弾かせていた。
   ゲーテのモーツアルト傾倒は度を超していて、バッハも良く聴いた。ベートーヴェンの音楽は世界を壊してしまうとさえ言ったが、本人同士、夏になると保養地で良く一緒になっていた。と言う。
   ゲーテの、このような最高峰の音楽家との交遊録なり、芸術談義なり、コラボレーション作品が生まれるなど、芸術的な爆発が残っておれば、どれほど素晴らしいかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする