熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

アヤソフィアのコンスタンチノープル

2020年08月01日 | 学問・文化・芸術
   ローマ帝国だが、395年に東西に分裂し、486年に西ローマ帝国は消滅したが、その後、1000年の命脈を保っていた東ローマ帝国も、首都コンスタンティノープルが、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって陥落して、権勢を誇ったローマ帝国が歴史から消えていった。
   この時、イスラム化と共に、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにおけるキリスト教正教会の大聖堂として建設され、帝国第一の格式を誇る教会であったハギアソフィアが、アヤソフィアとして、モスクに改装されて、500年後、新生トルコの時に、博物館となった。
   その間に、漆喰などで塗り固められて消えていた往時のキリスト像などのモザイク画が現れて今日に至っている。
   ところが、最近、エルドアン大統領が、アヤソフィアを博物館からイスラム教の礼拝所であるモスクに変更して、86年ぶりとなる金曜日の集団礼拝が行われたのである。

   さて、今回は、このアヤソフィアを問題にするのではなく、東ローマ帝国の帝都であって、後のオスマントルコの首都でもあったコンスタンチノープル、今日のイスタンブールが果たした東西文化文明の十字路であった貴重な存在が、イタリアルネサンスに大きな影響を与えていることについて、考えてみたいのである。

   まず、「芸術都市の創造」の中で、樺山紘一教授が、「芸術都市の背景にあったもの」の中で、ルネサンスに大きく貢献したフィレンツェのメディチ家の役割について語っている。
   15世紀から16世紀にかけてメディチ家は、自らの膨大な財力と芸術的な霊感によって、多くの芸術家を支援して、建造物、絵画、彫刻、工芸品その他に至るまで、素晴らしい芸術作品を作り上げた。

   重要なことは、1440年から1450年代にかけて、メディチ家は、当時、フィレンツェやトスカナ地方などイタリア全土に流入していた、ヨーロッパ各地の修道院や大学で長く制作されてきた数多くの書物(写本)の収拾に当たり、それ以外に、コンスタンチノープルからイタリアに流入してきた多数のギリシャ語やヘブライ語の古典にかかわる写本も多く含まれていたと言う指摘である。
   丁度、オスマントルコの侵入によってビザンチン帝国(東ローマ帝国)が崩壊した時期でもあり、そこの長らく蓄積されてきた写本が数多くイタリアへ流入してきたのである。
   それらの写本を、メディチ家の当主は、邸宅や別荘、菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂二階のラウンツィーナ図書館などに蓄積して、学者たちの活動の場として公開し、これらの書物を読み解く作業を行った。
   この時に、ギリシャ語からラテン語に翻訳された古代ギリシャのプラトン哲学が、新プラトン主義として、ミケランジェロのサン・ロレンツォ聖堂の作品に影響を与えるなど、大いに知的武装に作用するなど、多くの学者を糾合して取り組んだ写本の蓄積とその研究が、イタリアルネサンスの極めて大きな推進力になった。と言うことである。

   また、樺山教授は、別な講演会で、 当時のイタリアの学問体系が、イスラムに極めて近かったのは、東ローマ帝国のギリシャの学者たちが、最先端を行くイスラム科学や文学等学問や芸術の翻訳文献を持ち込むなどして、大きく影響を与えたと述べており、
   スペインの古文献学者アシン・バラシオスが、ダンテを研究し、「神曲」は、イスラムから霊感を得たと解釈していると言う学説を紹介して、永遠の女性と人間の聖化、地獄と煉獄の宇宙など、イスラムと共通だと述べている。
   その時に、同席していた田中英道教授が、ダ・ヴィンチの母親はイスラム人で、ダ・ヴィンチの指紋はイスラム人のものであることが分かったと付け加えた。
   いずれにしろ、コンスタンチノープルを支配したイスラム文化文明は、当時最高峰の水準であり、さらに、ギリシャ文化文明をそっくり継承したような形であったから、ルネサンス時代に、このコンスタンチノープルが伝播招来した文化遺産が、フィレンツェなど新興のイタリア文明に与えた影響には計り知れないものがあったのである。

   私は、初めてイスタンブールを訪れたとき、アヤソフィアやトプカプ宮殿など歴史遺産を精力的に歩いたが、一番印象に残っているのは、ヨーロッパ側のホテルの大きく開いた窓から、対岸のアジア側のウスクダラの夜景を眺めながら、真っ暗に横たうボスポラス海峡の水面に揺れる月光の美しさを実感し、東西をつなぐ歴史的な文明の十字路に立っているのだという言い知れぬ感動であった。
   次の機会に、ボスポラス海峡のルメリ・ヒサル要塞巡りで、対岸のアナドル・ヒサルで、初めてアジア側に接近したのだが、この時ほど、東西交流の歴史の重さを感じたことはなかった。
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