原文のタイトルは、Does Capitalism Have a Future?
5人の歴史社会学者たちが、資本主義システムが、中期的に、存続可能なのかを問う。
しからば、Are we on the cusp of a radical world historical shift?と言うことだが、経済学者とは違った切り口の資本主義論に興味を感じたのである。
5人の見解は必ずしも一致はしていないのだが、まず、イマニュエル ウォーラーステイン 。
ウォーラーステインは、「世界システム論」を提唱・確立するなど多くの業績のある社会学・歴史学の大家であるが、まともに著作に対峙したことがないので、半端な記述になることを覚悟で、考えてみたい。
冒頭、著者は、この分析に二つの前提を置く。第一に、資本主義はシステムであるが、総てのシステムには寿命があり決して永遠のものではない。第二に、ほぼ500年にわたる存続を通じて一連の独自のルールで作動してきたがゆえに、資本主義はシステムである。
この歴史的システムが、資本主義システムと見なされるには、「無限」の資本蓄積の永続的な追求――より多くの資本を蓄積するための資本の蓄積――が主要な決定的特徴でなければらない。この特徴が広がって行くためには、他の価値基準や目的に基づいて行動をしようとする参加者を総て罰するメカニズムが必要になる。
近代世界システムは、およそ500年間続いてきたし、無限の資本蓄積の行動規範という点から観れば極めて成功していると思われる。しかし、この行動規範に基づいて機能し続ける期間は、今や終焉を迎えている。と言うのである。
著者は、無限に資本蓄積の追求を目的とする近代世界システムを、コンドラチェフ循環の上昇局面と下降局面、そして、アメリカとドイツとの覇権循環で説明を試みており、
1945年から1970年前後までのコンドラチェフ循環の上昇局面において、そして、アメリカの覇権が地政学的にも頂点に達して、資本蓄積が、16世紀以降最大の伸びを示した段階に至って、世界システムが、均衡から一気に逸脱して回復不可能の状態に陥り、下降局面に突入し、均衡への復帰圧力を欠き、構造的危機に直面するに至った。
構造的危機段階に入った世界システムは、もはや、均衡を回復する能力と力を欠き、新しいシステムに転換しない限り回復の余地は少ない。と言うのである。
興味深いのは、著者の資本主義を構造的危機に陥らせた決定的要因である。
まず、構造的危機で、第一に、費用と販売価格との差を極大化して資本を無限に蓄積することが資本主義の本旨だが、生産者が支払わねばならない人件費の高騰、費用の外部化の困難化等のコストアップ、第二に、再生可能な資源への社会的関心、第三に、資本主義システムに必須の相当量のインフラ、第四に、反システム運動が要求する民主化等への課税の上昇、と言った生産への基本的費用の絶えざる上昇で、均衡メカニズムへの漸近線から益々解離し、際限なき資本蓄積を達成する可能性は終りつつある。と言う。
もう一つは、大きな地政文化的変化で、中道主義的自由主義の終焉。
1968年の世界革命で、保守的なイデオロギーと極めて急進的なイデオロギーを主張するものが自分たちの独自的存在を取り戻し自律的な組織的・政治的戦略を追求し初め、同時に、国家主導の改革や変革を追求していた社会民主主義や穏健な社会主義が勢力を落として、政治経済全体が反動化していったのである。
コンドラチェフ循環の上昇局面の終期から下降局面にかけて、世界の余剰価値の大量な領有のレベルを維持するために、資本家は、金融部門の獲得に、世界システムの金融化に走ったと、金融危機や格差拡大の因について触れているのが興味深い。
1968年以降の資本主義のカオス状態など、一寸毛色の違った経済分析を披瀝していて、面白い。
現実的な表現をすれば、世界的なポピュリズムの台頭による政治の右傾化、福祉国家体制の後退、富裕者への富の集中と貧困の拡大という経済格差の異常な拡大、公的債務の増加と財政の緊縮と破綻、自由貿易体制の後退とブロック化の進行等々、とにかく、歴史の歯車が、逆回りし始めたことは事実で、どんどん、政治経済社会環境は悪化しつつある気配である。
さて、著者の要約は、
現在の近代世界システムが存続できないのは、それが均衡からあまりにも遠ざかりすぎていて、無際限の資本蓄積を資本家に容認できるような体制ではなくなってきており、後に来るシステムをめぐって闘争が展開される、そんな中に生きている。合理的に安定した新しいシステムの構築は可能ではあろうが、歴史的選択肢を分析して、望ましい結果をもたらすような道徳選択をして、そこへ至る最適な政治的戦術を評価することが大切である。と言う。
資本主義システムは、「無限」の資本蓄積の永続的な追求――より多くの資本を蓄積するための資本の蓄積――が主要な決定的特徴でなければならないとする資本主義の定義そのものが、私には異質であり、土俵が違うので、何ともコメントがし辛い。
例えば、経営者が、株主至上主義に立つのが、ミルトン・フリードマンの哲学であったが、今や、欧米の経済学者や経営者が、日本流のステイクホールダー主義を標榜し始めており、
株式投資も、企業の社会的責任のみならず、ESGやCSRなど政治経済社会などへの貢献指標が注視され始めており、資本主義そのものへの見方が大きく変ってきている。
資本主義自身が、どんどん、変質して、短絡的な見方や固定観念では律し得なくなってきているので、資本主義のサバイバルを云々するのではなく、資本主義システムが良いとするなら、その利点を追求しながら、如何に改革して行けば良いのかを、民主主義との関係をも考慮しながら、考えることであろうと思ている
5人の歴史社会学者たちが、資本主義システムが、中期的に、存続可能なのかを問う。
しからば、Are we on the cusp of a radical world historical shift?と言うことだが、経済学者とは違った切り口の資本主義論に興味を感じたのである。
5人の見解は必ずしも一致はしていないのだが、まず、イマニュエル ウォーラーステイン 。
ウォーラーステインは、「世界システム論」を提唱・確立するなど多くの業績のある社会学・歴史学の大家であるが、まともに著作に対峙したことがないので、半端な記述になることを覚悟で、考えてみたい。
冒頭、著者は、この分析に二つの前提を置く。第一に、資本主義はシステムであるが、総てのシステムには寿命があり決して永遠のものではない。第二に、ほぼ500年にわたる存続を通じて一連の独自のルールで作動してきたがゆえに、資本主義はシステムである。
この歴史的システムが、資本主義システムと見なされるには、「無限」の資本蓄積の永続的な追求――より多くの資本を蓄積するための資本の蓄積――が主要な決定的特徴でなければらない。この特徴が広がって行くためには、他の価値基準や目的に基づいて行動をしようとする参加者を総て罰するメカニズムが必要になる。
近代世界システムは、およそ500年間続いてきたし、無限の資本蓄積の行動規範という点から観れば極めて成功していると思われる。しかし、この行動規範に基づいて機能し続ける期間は、今や終焉を迎えている。と言うのである。
著者は、無限に資本蓄積の追求を目的とする近代世界システムを、コンドラチェフ循環の上昇局面と下降局面、そして、アメリカとドイツとの覇権循環で説明を試みており、
1945年から1970年前後までのコンドラチェフ循環の上昇局面において、そして、アメリカの覇権が地政学的にも頂点に達して、資本蓄積が、16世紀以降最大の伸びを示した段階に至って、世界システムが、均衡から一気に逸脱して回復不可能の状態に陥り、下降局面に突入し、均衡への復帰圧力を欠き、構造的危機に直面するに至った。
構造的危機段階に入った世界システムは、もはや、均衡を回復する能力と力を欠き、新しいシステムに転換しない限り回復の余地は少ない。と言うのである。
興味深いのは、著者の資本主義を構造的危機に陥らせた決定的要因である。
まず、構造的危機で、第一に、費用と販売価格との差を極大化して資本を無限に蓄積することが資本主義の本旨だが、生産者が支払わねばならない人件費の高騰、費用の外部化の困難化等のコストアップ、第二に、再生可能な資源への社会的関心、第三に、資本主義システムに必須の相当量のインフラ、第四に、反システム運動が要求する民主化等への課税の上昇、と言った生産への基本的費用の絶えざる上昇で、均衡メカニズムへの漸近線から益々解離し、際限なき資本蓄積を達成する可能性は終りつつある。と言う。
もう一つは、大きな地政文化的変化で、中道主義的自由主義の終焉。
1968年の世界革命で、保守的なイデオロギーと極めて急進的なイデオロギーを主張するものが自分たちの独自的存在を取り戻し自律的な組織的・政治的戦略を追求し初め、同時に、国家主導の改革や変革を追求していた社会民主主義や穏健な社会主義が勢力を落として、政治経済全体が反動化していったのである。
コンドラチェフ循環の上昇局面の終期から下降局面にかけて、世界の余剰価値の大量な領有のレベルを維持するために、資本家は、金融部門の獲得に、世界システムの金融化に走ったと、金融危機や格差拡大の因について触れているのが興味深い。
1968年以降の資本主義のカオス状態など、一寸毛色の違った経済分析を披瀝していて、面白い。
現実的な表現をすれば、世界的なポピュリズムの台頭による政治の右傾化、福祉国家体制の後退、富裕者への富の集中と貧困の拡大という経済格差の異常な拡大、公的債務の増加と財政の緊縮と破綻、自由貿易体制の後退とブロック化の進行等々、とにかく、歴史の歯車が、逆回りし始めたことは事実で、どんどん、政治経済社会環境は悪化しつつある気配である。
さて、著者の要約は、
現在の近代世界システムが存続できないのは、それが均衡からあまりにも遠ざかりすぎていて、無際限の資本蓄積を資本家に容認できるような体制ではなくなってきており、後に来るシステムをめぐって闘争が展開される、そんな中に生きている。合理的に安定した新しいシステムの構築は可能ではあろうが、歴史的選択肢を分析して、望ましい結果をもたらすような道徳選択をして、そこへ至る最適な政治的戦術を評価することが大切である。と言う。
資本主義システムは、「無限」の資本蓄積の永続的な追求――より多くの資本を蓄積するための資本の蓄積――が主要な決定的特徴でなければならないとする資本主義の定義そのものが、私には異質であり、土俵が違うので、何ともコメントがし辛い。
例えば、経営者が、株主至上主義に立つのが、ミルトン・フリードマンの哲学であったが、今や、欧米の経済学者や経営者が、日本流のステイクホールダー主義を標榜し始めており、
株式投資も、企業の社会的責任のみならず、ESGやCSRなど政治経済社会などへの貢献指標が注視され始めており、資本主義そのものへの見方が大きく変ってきている。
資本主義自身が、どんどん、変質して、短絡的な見方や固定観念では律し得なくなってきているので、資本主義のサバイバルを云々するのではなく、資本主義システムが良いとするなら、その利点を追求しながら、如何に改革して行けば良いのかを、民主主義との関係をも考慮しながら、考えることであろうと思ている