熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・6 ミラノ・スカラ座のロッシーニ「シンデレラ」

2005年07月21日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   スカラ座は、2年前に来た時には、改修工事用の板囲いに囲まれていて、オペラは、郊外のアルチンボリ劇場で公演されていて、バーンスティンの「ウエストサイド物語」を観た。
   大々的な改修工事が昨年末に終わって、盛大にオープニングされた模様だが、しばらくアルチンボリで公演されていて、漸く、この月初めから、新装成ったスカラ座に公演が移った。
   
   旅程が決まってインターネットでスカラ座を開いた時には、既に、プッチーニの「ラ・ボエーム」は完売で、数日間のロッシーニの「チェネレントーラ(シンデレラ)」が、僅かに残っているだけであった。
   私は、迷うことなく、7月6日の残り席から一番よい席をクリックした。数日して、ピラピラの入場券が一枚入った封筒がスカラ座から送られてきたが、それで十分であった。

   余談だが、リカルド・ムーティが日本でスカラ座公演で、「オテロ」を振った時、2回行ったが、私は、アバードやムーティの場合、ウイーン・フィル等オーケストラを振っていたのを何度か聴いているが、やはり、イタリア出身の指揮者の真骨頂は、オペラだと思っている。
   残念ながら、シノーポリはフィルハーモニアで、シャイーはコンセルトヘボウで何度も聴いていたが、イタリアオペラを観たかったし観たいと思っている。

   もう何十年も前になるが、始めてミラノに来た時には、アバード指揮のロッシーニの「アルジェのイタリア女」を観た。今回もロッシーニだが、私は、あのうきうきする様な軽快なテンポのロッシーニが好きで、これをスカラ座で楽しめるのは望外の喜びであった。
   アバードが1982年まで4期、このチェネレントーラを振っており、2001年から、ブルーノ・カンパネラに変わっている。
   チェネレントーラは、少し低い女声のコントラルトで、あのシミオナートやテレサ・ベルガンサがこのスカラ座で歌っている。
   今回は、前回に引き継いでソニア・ガナッシが素晴らしいタイトル・ロールを歌っていて楽しませてくれた。

   私の席は3階のグランドティアにあたる中央少し左に寄ったボックス席で、6人席の4番目、幸い舞台よりの2列目だったので舞台が良く見えた。
   3人がアメリカの若い女性、1人がイタリア人紳士、もう1人が日本人シニアでオペラ好きの奥さんとお嬢さんに付いてきたオペラ音痴だと言う。
   結局後ろのイタリア男は、最後まで、立ってみていた。

   このオペラ、有名なディズニーのシンデレラと違うのは、継母が父親に代わり、ガラスの靴が腕輪に変わる。
   面白いのは、途中まで王子が従者と入れ替わって居ること。シンデレラを苛め抜き、王子でない従者に入れ揚げる父・姉2人の涙ぐましいどたばたとどんでん返しが実にコミカルで、父親役のシモーネ・アライモを始め芸達者な歌手達が、ジャンピエール・ポネルの定番となっているモノ・トーンの舞台をバックに存分に駆け回る。
   ロンドンで観たアシュトン振り付けのロイヤルバレー「シンデレラ」の舞台を思い出した。

   休憩の時、前回は、仕切りの幕を開いて隣接のスカラ座博物館に自由に入れてくれていたが、今回は、閉鎖されていた。翌日、ミラノを発つ前に駆け込んだが、実に素晴らしい展示館である。

   オペラが跳ねてスカラ広場に出ると電光に映える優雅なスカラ座が浮かび上がる。
   まだ遅いサパーを取っている客が居るが静かになったエマヌエーレ2世のガッレリアを通り抜けて、ドウオモ広場に出る。
   歩けばホテルまで10分、心地よい夜風を楽しみながら歩き始めた。
   翌日からのロンドンでのロイヤル・オペラや、ロンドン塔でのドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」が、楽しみである。

   
   
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つゆくさ

2005年07月20日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   庭に一面に広がって咲くつゆくさ。
   もう一ヶ月前頃から咲き始め、ずっと夏の間咲き続ける。
   午後には枯れてしまうホンの僅かな命であるが、暑い夏に咲く鮮やかなコバルトブルーが実に美しい。
   私の庭で、意識して抜かない草花が、この露草とスミレであり、広がるに任せている。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・5 ブレラ、ファッションの生まれる街

2005年07月20日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   メトロのモンテナポレオーネで下りて南東に道を取ると高級ショッピング街で、名だたる高級ファッションのブランド店が軒を連ねる。
   しかし、今回は、北西に道を取ってブレラ絵画館に向かった。
   途中に、ジョルジョ・アルマーニの本社であろうか、静かな佇まいの事務所があった。落書きされて寂れた通りの角の店などに、驚くような斬新な装飾品をディスプレィしている、流石に、ファッションの街である。

   大きな建物を回りこむと、宮殿風の入り口のあるブレラ絵画館の正面に出る。
   正門を入ると、正面にはナポレオンの像があり、一階など奥に入ると芸術学院があり学生が行き来していて、学術文化施設が併設された建物である。
   このブレラ絵画館は、やはりイタリアの宗教絵画が圧倒的に多く、有名なベッリーニの「ピエタ」がある。十字架から降ろされた蒼白のキリストをマリアが抱え込むような悲痛な絵だが、嫌にリアルで胸を打つ。
   マンテーニャーの「死せるキリスト」は、横たわるキリストを足側から全く遠近法なしに描いた特異な絵で、一度観ると忘れられない。
   ロンバルジャ派の絵画を代表するキリストを抱いたマドンナを描いたルイーニの「ローズガーデンのマドンナ」も美しい絵である。

   しかし、私の目的は、ラファエロが20歳の時に描いたと言う「マリアの結婚」、そんなに大きな絵ではないが、定番のキリストを抱くマリア像のように甘さのない劇的な絵である。
   丸いドームのブラマンテ風の建物をバックに、指輪を受けようとする清楚なヴァージン・マリアが美しい。
   確かにラファエロのマドンナ像は美しいが、あのバチカン宮殿の何点かの壮大なラファエロの壁画を観ると、群像を描いた時のラファエロの方が素晴らしいと思う。

   このブレラ絵画館を出て、西に歩くとシックなレストランと並んで、画廊やインテリア装飾品店、家具屋、デザインアトリエ、服飾店等々、美術やファッション関係の店が連なっていて中々面白い。
   角で南折れして更に歩くと同じ様な店が続いている。このあたり、芸術街であろうか、ミラノファッションも案外、このような静かな佇まいの街角の工房で生まれるのであろうか。

   ブレラ越しに見えていた教会を求めて歩いて、ポンタチオ大通りに面したサンタ・マリア教会の正面に出た。
   正面のファサード前の広場に、男子半身像の中に穴を開けて男性の頭部像を埋め込み、その下に女性の上半身トルソを浮彫りにしたブロンズ像が立っていて、嫌に、13世紀に建った教会とマッチしている。
   観光案内には、殆ど触れれていないが、内部のダブルの丸天井や正面の祭壇の彫刻やデザインなど実に精巧で美しい。
   先年発見されたと言うレオナルド派の聖母子とセント・ヨハネのフレスコ画を探したが分からなかった。

   ブレラ通りをドウオモに向かうと、スカラ座横に出る。このあたり、実に芸術を感じさせる雰囲気が味わえて散策が楽しい。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・4 アンブロジアーナ絵画館(凄いラファエロ)

2005年07月19日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   今回のミラノは、実質1日と半日しか自由時間がなかったので、行く所は極めて限られてしまった。夜は、スカラ座でロッシーニのチェネレントータ(シンデレラ)を鑑賞することになっていたので、日中は、ミュージアムと教会等を周ることにした。
   メール依頼のミスで、サンタ・マリア・デッレグラーチェ教会のダヴィンチの「最後の晩餐」見学はフイになったので、ミュージアムは、アンブロージアーナ絵画館とブレラ美術館に絞ることにした。

   これまで、このアンブロジアーナだけは行く機会がなかった。
   ホテルからドウオモを左に見て路地を入ればすぐの所にある。1609年にボロメオ枢機卿によって建てられた建物で、古くから図書館として一般に開放されていて、今も併設されていてレオナルド等の貴重な古文書類が多く保存されていると言う。
   古風な普通の建物だが、中に入ると可なり広くて、ローマ風の彫像や人物像等をあしらった緑の豊かな広い中庭があり、廻りを回廊と部屋が取り巻いており静かな空間を作っている。

   ここで、私の記憶にあった懐かしい絵画に何点かに出会えた。ダヴィンチの「ムジコ」、ティチアーノの「マグダラのマリア」そして、プレディスの「夫人像」である。

   世界にホンの僅かしか残っていないレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画、これまでにどれほど観たであろうか、今回、ロンドンのナショナルギャラリーでもダヴィンチを見るが、小品ながら、この楽譜を持った青年像は実に精密に描かれていてまるで写真のようであり、ほんの数センチまで近づいて見ると絵の具のひび割れが幽かに見える。
   この絵画、ワシントンのと同じくらいの実に小さな絵だが、長い間憧れていた絵なので嬉しくて、随分長い間絵の前に立っていた。

   プレディスの絵は、左横向きの精密な美しい夫人像で、マグダラのマリアは、長い髪で胸を押さえた官能的な裸像、雰囲気は全く違うが、素晴らしい女性を描いている。

   絵画でビックリしたのは、カラヴァッジョの「フルーツバスケット」で、実に鮮やかで美しい静物画で、マスカット風の葡萄の粉を吹いた輝きなど絵画とは思えないほど真に迫っており、良く見るカラヴァッジョの劇的な人物像と全く違う。この絵は、この美術館の至宝、人が前に居たので後回しにしようと思って絵から離れようとしたら、係員が、「カラヴァッジョ、カラヴァッジョ」と言って見ろと催促する。
   
   もう一つ感激したのは、薄暗い大きな部屋の奥に幽かに浮かび上がってきたラファエロの「アテネの学堂」の下絵。良く見ると、あの懐かしいバチカン宮殿にある壮大な壁画の下絵である。
   ダヴィンチを模したプラトンも、ミケランジェロを模したアリストテレスも上段中央に確固として描かれている、極彩色ではなく、黒のモノトーンだが、凄い迫力である。
   部屋の真ん中にイスがあって、見入っている人も居る。私は、長い間、そこに座って、バチカンの壁画を思い出しながら観ていた。

   
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・3 ホテル・トラブルの顛末

2005年07月18日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   時差ぼけもなく翌日普通に起きて、レストランに朝食に下りた。
   普段の朝は、軽食だが、ヨーロッパの旅に出ると、途中で何が起こるか分からないし、上手く適当に昼食が取れるか分からないので、コンチネンタル・ブレックファストの良さを利用して、十分に朝食を取る事にしている。
   これは、十分すぎる程豊かなイギリスのフル・ブレックファストの場合、存分に役目を果たしてくれる。

   入り口にイタリア語の新聞に混じってヘラルドトリビューンとファイナンシャル・タイムズがあったので席に持ち込み座ると、陽気な中年のウエイトレスが飲み物の注文を取りに来た。
   セルフサービスだが、ここには、暖かい卵とハム・ソーセージの料理もあり、後は定番のヨーロッパ調の食べ物や飲み物、果物、菓子、デザート類なども十二分に用意されていたが、そんなに食べられるものではない。
   

   ミラノを歩く前に、ホテル問題を解決しておこうと思って、カヴァリエーリ・ホテルに向かった。
   当然だが、昨夜のナイトマネージャーは居らず、中年の男性と若い女性のフロントに変わっていた。
   昨夜の引継ぎ事項は聞いているかと聞くと、聞いてないと言うので一から説明をした。聞いてない訳がなく、途中で話を遮り、コンピューターに私の予約が入っていないと同じ事を言う。
   メールのコピーを見せて、予約はコンファームされたと書いてあるではないかと言うと、兎に角、コンピューターのミスだとの一点張り。

   しばらく押し問答をした後で、このコンピューターのトラブルは、当方のミスではなく、あくまでこのホテルとホテル予約システムを運営しているVINERE・COMとの間の問題だ、と言うと、黙ってしまった。VINEREとの連絡の裏を掻いているので触れられたくないのであろう。
   ここで駄目押しをと思って、何れにしろどうするか早く解答して欲しい、場合によっては、今からミラノ観光局に善処を求めに行く、と追い討ちをかけて見た。
   結局、逃げられなくなって、どうすれば良いかと言うので、今夜はこのホテルに宿泊する、ブルネレスキ・ホテルの支払はそっちで解決してくれ、この予約条件通りの支払をして明日チェックアウトすると伝えた。

   勿論そうしよう、朝食は済んだか、もしまだなら上で食べて行ってくれ、ホテルを移るのなら荷物を取りに今からボーイを行かせるので言ってくれ、と急にしおらしくなった。
   問題が解決すれば、後は時間の無駄なので、後で帰って来て指示するので、その時にボーイを貸してくれと言って街に出た。

   部屋の稼働率を上げるためオーバーブッキングして、超過した客を他のホテルに融通しあうのはホテルの常、このあたりをチクッタのも効果があったのであろうか。
   それにしても、客を他のホテルに行かせてそこで先方の条件でホテルの支払をさせるなど極めて悪質、コンピューター操作は、2回も送信しており間違うわけはなく、どうもトラブルは私だけではなく他にもあり、確信犯の感じである。

   このホテル、日系の航空会社も使っている様で、日本の観光案内書の扱いも好意的だが、安物の団体観光客を多く取っており質の悪化が酷い。

   余談ながら、部屋はツインの大きな部屋を用意してくれて、何を思ったのか果物の差し入れまでしてくれた。勿論、条件通りの支払で済んだ。
   このイタリアベースのホテル予約会社は、2年前に見つけてアッシジ、シエナ、ピサ、ミラノ等の予約で重宝し間違いがなかったので今回も使ったが、日本のエージェント経由でもトラブルは多い。
   予約会社の連絡ミスは、イギリスのカンタベリーでも起こったが、これは後述する。

   長い間の海外ビジネスの経験で、このようなホテルトラブルは何度も経験しており、別に驚かないが、久しぶりにイタリアらしい経験をして面白かったのも事実である。
   ビジネスの経験だが、名うてのレバシリ、インパキは勿論のこと、兎に角、常識と生活感覚の全く違う異国人に対しては、出来れば理路整然と当方の言い分を毅然たる態度で強く主張すること、そうでなければ生きて行けない。
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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・2 ホテルトラブル

2005年07月17日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   今回も2年前と同じ様にロンドン乗継でミラノに入ることにした。
   イギリス入国が目的だが、日本からの直通便は、アフリカやアジア発の長距離便が着くヒースローの第3ターミナルに入り、違法移民が多い為に入管手続きが極めて厳しく、何時も家畜小屋のように長い列に並ばされて時間が掛かる上に入管係員の対応が悪過ぎる。
   従って、最近では、直接ロンドンに入らないで、ヨーロッパ大陸経由で入国している。
   随分前だが、岩崎良美が入管で苛められているのを助けたことがある。

   第2ターミナルでBA便への乗り継ぎを待つ間、パブでシェイクスピアでも読むことにした。
   この頃、ビターを止めて、ギネス1パイントに宗旨替えしているが、これを呷ると急にイギリスの雰囲気が戻ってきて、ホッとする。
   ヒースローのターミナルは、中心に広々とした豊かな待合スペースがあり、その廻りに沢山の免税店が軒を並べていて、レストランも多い。
   空港内で時間がある場合、日本の場合はゲートに入ると詰まらない免税店とキオスク様の店がある程度だが、イギリスの場合は、ゲートの中がショッピングセンターのようで楽しめるから、空港公団も商売が上手い。

   時間遅れで飛び立ったBA,大体ヨーロッパ内の航空便は、バス並みのサービスで、地形の変化が激しいために良く揺れる。この日も、英仏海峡の上空からガタガタ揺れ始めた。
   厚い雲に包まれていた空も、スイス上空に入ると、急に雲が少し切れて、眼下にジュネーブ湖が広がる。
   もう、夜の10時前だが、夏時間を取っているので、まだ、薄明かりで、雲間からアルプスの山並みが見え始めた。
   位置関係から言ってモンブランあたりであろうか、夏山なので雪が少なく地肌が見えている。
   何十年も前、家族とサンパウロからの帰国途中、ジュネーブに降り立つ前に見たアルプスの山並みの美しさに魅せられた。隣のスイス人は、もっと飛ぶともっと美しいと言っていた。

   ミラノのマルペンサ空港に着いたのは、時間通りほぼ22時半、殆ど最後の便なのか、空港内は閑散としていて、寂しい。
   入管の係員も旅券をロクに中も見ないで開いた所にハンコをたたいている。
   今度は、比較的早く荷物が出てきた。
   昔は、荷物が着かなかったり、帰ってこなかったり、中身が盗まれたり、随分トラブルを経験しているが、最近は全く荷物の事故がなくなった、今昔の感である。

   ミラノまで、列車で行こうか、バスで行こうかと迷ったが安全を考えてマルペンサエクスプレス・バスにした。5.5ユーロ、40キロ程の距離だが7百円だから安い。
   空港を出るとすぐに外の道路にバスが待っていて、古い大きながま口を持ったオジサンがセントラルステーションと声をかけている。
   日本を昼に発って20時間、一番疲れる時間で、バスの中では正体もなく寝込んでしまい、気がついた時には、ミラノの街に入っていた。深夜の都会は実に寂しい。
   中央駅の横手の寂しい広場にバスが着き、並んでいたタクシーに乗り込みホテルに向かった。

   ミラノスカラ座に近く、ドウオモから至近距離のミッソーリ広場に面した可なり知られているカヴァリエーリ・ホテルを予約していた。遅く着くこととダ・ヴィンチの最後の晩餐予約の依頼を出る前にメールで連絡をしておいた。
   ホテルに着いて名前を伝え、予約確認のメールを見せたが、コンピューターに私の名前がない、もう、部屋が一杯で無いと言う。
   どうするんだと言うと、1分の距離の所に別のホテルを紹介するのでそこに行ってくれと言う。マネージャーに電話をしろと言ったら、電話を架けたが返事がない、兎に角、12時を過ぎていて押し問答をしても埒が明かない。
   早く休みたいので妥協をすると、何処からか中年のオヤジが出てきて、重いスーツケースを軽々と持って次のホテルに歩き出した。

   駅前のこれも4星のブルネレスキ・ホテルに着いた。パスポートを出して宿泊フォームにサインだけした。
   何となくおかしいと思ったので、宿代は一切カヴァリエーリと決済しろと念を押すと、先方はここで払うと言っていると言う。
   向こうのミスでこんなことになったのだから、先方に確認しろ、と言うと電話を架けた、値段で揉めている様であったが、話がついたのかボーイに指示して荷物を持たせて部屋に行けと言う。
   案外、新しく改装した快適な部屋で気持ちが良かったが、兎に角、疲れているので早く休みたい。
   喧嘩は、翌日するとして、まあ、違ったホテルを経験するのも良いかと思って、風呂に入ってその日はゆっくり休んだ。

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文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・1 はじめに

2005年07月16日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   7月5日に日本を出てミラノに着き、今日の午後遅くロンドンから成田に帰ってきた。
   梅雨の日本と違ってミラノもロンドンも、ヨーロッパとしては異常なくらい毎日天気が良く、暑くて困ったくらいであった。

   イタリアの天気の良いのは、ゲーテも言っている様に、アルプスを抜けてブレンナー峠を越えると陽光照りつける明るい南国で当然であるが、兎に角、ロンドンのこの暑さは、過去5年間住んで居たがこんなに晴天続きの暑い日の連続は珍しい。

   今回の旅は、まず、イギリスの永住権の更新と娘のカンタベリー大聖堂での大学院卒業式出席、そして、英人の友と旧交を温めること等が目的だが、敵は本能寺で、ミラノスカラ座やロイヤル・オペラ等のオペラ鑑賞、グローブ座でのシェイクスピア戯曲、ミュージカル、パブ巡り、美術館・博物館巡り、等々ヨーロッパの文化の豊かさに触れるためにあっちこっちを散策することであった。

   兎に角、ロンドンの爆破事件の当日7日に、ヒースローについてヒースローエクスプレスでパディントンに入り、タクシーで宿舎のRACに投宿し、爆弾騒ぎの最中にオペラ鑑賞等に現を抜かしていたわけであるが、まあ、色々なことがあって面白い旅であった。

   3ヶ月前に大手術をした後でもあり、自分の体力の回復を確認した旅でもあったが、基より自分自身で計画しアレンジした一人旅で、気楽と言えば気楽、それに、慣れた所なので、殆ど心配は要らない。

   プライベートな旅なのでビジネスコネクションは一切なかったが、ロンドンに僅かに残っているJAL系のいぎりす屋と三越の廃れぶりを見れば、ロンドンの日系社会の様子は分かる。
   それに、イギリスのジェントルマンクラブの典型RACで、1週間も寝起きしておれば、イギリスの雰囲気も垣間見える。
   何れにしろ、オリンピック招致で湧いていた街が、一夜にして爆破の悪夢、しかし、もう翌日には、街は殆ど元に戻ってしまっていた。

   それに、EUに入って超優良国になったと思っていたイタリアが、やっぱりイタリアであったという経験も面白かった。
   今度のサミットの記念写真の小泉首相の位置だが、写真を見ればこのベルルスコーニの隣、新参者で国力がずっと下のロシアや中国の後ろ、にこにこしている首相も首相だが、文句を言わない日本政府が不甲斐ない。

   これから当分の間、記録を残す為に、少しずつ今度の旅の思い出を綴って行こうと思っている。
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ヨーロッパの旅・・・今度はミラノそしてロンドン

2005年07月05日 | 欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)
   久しぶりにヨーロッパを訪れたくなった。
   初夏のヨーロッパは、薔薇の季節で、一年の内で一番美しい。
   ミラノ・スカラ座は、どのように蘇ったのであろうか。
   レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐に、また、お会いしたい。

   ロンドンは、私が一番永く住んだ海外の地、謂わば第2の故郷である。
   久しぶりに、シティの古い路地やサウスバンクのシェイクスピアの足取りを尋ねてみたい。
   コベントガーデンのオペラ、そして、今年のシティ・フェスティバルは、ロンドン塔で、「アンナ・ボレーナ」をやるらしい。
   シェイクスピアの「グローブ座」は、ペリクリーズ、冬物語、テンペスト。
   歌舞伎座の「十二夜」がどんなに素晴らしいか、聴き比べるともっと分かるかもしれない。
   イギリスがサミットの舞台のようだが、それとは関係なく、あの街ロンドンは、余りにも奥が深すぎる。

   そんな事どもを思いながら旅に出たくなった。
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日系企業の中欧でのビジネス・チャンス・・・工業、そして、BPO

2005年07月04日 | 経営・ビジネス
   大前研一氏は、自動車産業について相当紙幅を割いて記述している。3年前に、プラハで、チェコの名車シュコダのタクシーで移動したが、フォルクスワーゲン傘下の所為か、他の欧州車と比べて遜色なく素晴らしい車であった
   ベルリンの壁崩壊直後は、プラスチック張りで角ばった小型の如何にもみすぼらしいトラバントが、東ドイツでもチェコでも我がもの顔で走っていたが、我々のチャーターしたベンツやBMWに一たまりもなく追い抜かれていた。
   ハンガリー等の道路標識は、殆どヨーロッパ国内のと同じであった。

   東ドイツを走っていて駐車していると子供たちが集まって来て、ベンツ、ベンツ、と言いながら車を取り巻いていたが、一部の舗装道路を除いて大半は、アスファルトが割れた貧しい道であった。
   余談ながら、この東ドイツで、中央分離帯のないまっすぐな広いハイウエイに出会い、これがヒットラーの意図した何時でも戦闘機の発着場となるアウトバーンかと感に堪えなかったのを覚えている。

   1991年から、スズキがハンガリーに進出して小型車を作っているが、解放前から比較的欧州車の普及率が高かったハンガリーで、真っ先に悪評高きトラバントと置き換わったのであろう、それに、トカイワイン等を輸入してハンガリー経済に貢献している。
   
   「ロボット」と言うのは、チェコの作家カレル・チャペックの造語、元々、モノづくりに秀でたチェコは、戦前からヨーロッパの工業の中心地で、教育水準、民度は極めて高く、チェコ政府の外資勧誘機関チェコインベストの政策よろしきを得て自動車工業関連の産業クラスターが形成されていると言う。
   日本の製造業の進出もチェコが一番多いようである。
   それに、チェコの国境沿いにポーランドやスロバキアの工業が集積をしている模様である。
   比較的賃金の安い優秀な高学歴の機械・技術系エンジニアの存在、伝統的工業国としての技術水準の高さ、西欧市場へのアクセスの良さ等、ハンガリーとともに工業関連投資市場として脚光を浴びている。

   もう一つ重要なのは、BPO(Business Process Outsourcing)基地としての中欧の活用である、と大前研一氏は言う。
   GEが、その欧州事業のBPOをハンガリーに集中しようしている。
   ドイツ語、ロシア語、英語、フランス語、その他9ヶ国語を操るバイリンガルな教育水準の高い人材を活用してクロスボーダーのBPOを展開しようとしているのである。

   一方、アクセンチュアのチェコでの活躍を紹介し、プラハの財務デリバリーセンターでは、バックオフイス方式で、14カ国以上の言語に対応して、経理・財務・税理等の業務を代行し顧客からこれ等の業務を解放している。
   ハンガリーやチェコのBPOは、バックオフイス業務以外にも、一歩突っ込んで営業支援を行う能力も有すると言う。
   デルが、中国にコールセンターを置いて頓珍漢な答えが返って来て困っている日本人ユーザーの話を聞くが、この差は何であろうか。

   ベルリンの壁崩壊後、資本主義国の企業は、ビジネス・チャンスを求めて、中欧・東欧にダッシュした。
   しかし、長い間の共産主義経済社会に影響されて、資本主義のビジネスそのものが分からなかった。例えば、保険を説明すれば、それは素晴らしいと言うが、何故掛金を支払わなければならないのか理解できなかった。
   中欧・東欧社会は、資本主義市場に同化するためには、中国がそうであったように随分時間が掛かったが、やっと、資本主義社会の一員に仲間入りした。
   ビジネス・チャンスの到来かもしれない。

   注意しなければならないのは、欧米企業と違う点は、欧米企業には、中欧・東欧からの移民なり縁戚が必ずいると言うことである。
   ヨーロッパに駐在していた時に、壁の崩壊後に真っ先に動き出し仲介をしたのはロンドンやパリ、ニューヨークに居た壁の向こうの出身者であったが、多くの欧米企業の中欧・東欧進出にも、これ等の母国人が関与している場合が多いと言う。
   日本企業にはない、血と地、そして、人縁に伴うノウハウやノウフウが如何に重要かと言うことである。
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ドナウ川を遡るビジネス機会到来・・・大前研一・東欧チャンス

2005年07月03日 | 経営・ビジネス
   1989年にベルリンの壁が崩壊し、共産社会への風穴が開いたときに、一時、ミッテル・オイロッパ(中欧)ブームが起こり、日本のビジネス界が、中・東欧に注目した時期があった。
   バブル経済の盛期でもあり、それ行けドンドンの時代であり、新しいビジネス機会を模索していた日本経済界には恰好のターゲットの登場でもあった。
   しかし、その後、日本経済が悪化し、中国経済の異常な拡大とアメリカの好況に支えられて、ヨーロッパへの関わりが少しずつ薄れてヨーロッパからの撤退企業が出始め、中・東欧への関心はフェーズアウトして行った。

   ところが、ハンガリー、チェッコ等の旧共産圏の中欧諸国のEU参入を皮切りに、東欧諸国の相次ぐEU加盟に伴って拡大EUの実現することとなり、再び、中・東欧の重要さが脚光を浴びる事となった。
   丁度、中国との摩擦が再燃し、中国リスクが懸念し始めた時に、新しいビジネスチャンスとしてのBRIC’sの内、インドが注目を集め、トヨタがロシアへの進出を決めるなど、グローバル・フォーカスが少しづつ移動し始めた。
   ブラジルはどうなのか、1970年代のブラジルブーム時期にサンパウロに駐在して、その狂奔振りを経験しているので、ブーム到来と言われる市場へは、世界と世の中の趨勢を十分見極めてから対応しても遅くはないと思っている。

   私は、1985年の秋からヨーロッパに駐在し東欧との関わりは、最初の東欧訪問が、1987年、ハンガリーのブダペストで、その後、ベルリンの壁崩壊直前の東ベルリンが皮切りであった。
   その後、壁崩壊直後の東ベルリンを訪れ、少し落着いてから、市場調査の為に、東ベルリンから、ライプチッヒやドレスデン、プラハ、ブダペストを訪問した。
   
   ブダペストには、提携会社もあり、開発プロジェクトの為に何度か出かけて政府高官とも交渉の機会を持ったので、ベルリンの壁崩壊直後の新生ハンガリーの対応は、分かっている心算であるが、今日でも相変わらず官僚的な対応であることを大前氏が書いており、世界有数の知恵者で商才の長けた民族の筈なのに、やはり、誇り高いマジャール魂が抜けないのかと思うと感無量である。
   
   バルト3国のうち、エストニアのタリンには、経団連のミッションで出かけ、やはり、フィンランドと姉妹の国であることが良く分かったが、ソ連時代の搾取政策が酷かったのか、荒廃しながらも美しい風景が、貧しい生活にかき消されていて寂しかった。
   ドイツとの割譲密約によって終戦直後ソ連に併合され、豊かで革新的だったバルト3国が歴史から消えてしまった悲哀をこの時知った。ライカのフルサトなのである。

   その後、10年ほど経って、ヴェルディ・イヤーに、プラハを訪れた。世界一美しいと思っているプラハでの休日とヴェルディのオペラを楽しみたかったからである。
   中心市街全体が、博物館と言うか文化財のこの街、修復されて美しくなっていたが、変わってしまったところと、そのまま維持されているところが残っていて歴史を感じた。
   映画「モーツアルト」の雰囲気を醸し出す場所がウイーンにはなくなってしまい、このプラハでロケされたとか、裏町の路地に入ると、フーっとモーツアルトやサリエリが飛び出して来ても不思議ではない。

   ところで、大前研一氏の「東欧チャンス」のレビューは次回にまわすが、興味深いのは壁崩壊後の、東欧の経済悪化と投資先延ばしが良かったと言う話。
   ソ連の東欧経済支配の根幹COMECON(経済相互援助会議)政策によって、各東欧諸国の産業が、域内分業体制により分断されて、一つの完成品の部品が分解されて各国に分担されてしまって一国では独自に最終生産まで完結することが出来なかったのである。
   従って、一国がコメコンから離脱すると、その国からの原材料・部品の供給が途絶えてボトルネックを生じて生産全体が頓挫する、従って、いくらソ連圏から離れて自由を勝ち得て独立しても、自国だけで最終生産まで自足できないので経済が麻痺してしまい経済の悪化を招くのである。
   その上、ソ連主導の分割統治なので、一貫生産のノウハウは蓄積されず、技術革新や生産性アップの努力もなされて来なかった為に、ベルリンの壁崩壊後、ソ連離れした瞬間に、各国経済は、産業構造が急激に悪化して、今日の経済回復までに大変な努力と時間を要したのである。
   従って、インフラの整った今がチャンス、と言うことであろうか。
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梅雨空の下の月下美人・・・神の創造に感謝

2005年07月02日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   生暖かい雨に打たれて急に大きくなった月下美人の蕾が、反転して空を目指したかと思ったら、昨夜、優雅に花を開いた。
   釣り針の様に上に曲がっていた鼻先が、水平になり、遅い午後から少しずつ開き始めた。
   開くまではしっかり巻きついて花弁を守っていた紐のようなガクが少しづつ緩み始め、夕刻には半開きになり、少しずつ膨らんで深夜には満開になった。

   昨年は、何度か咲いてくれたが、12~3個の蕾を付けた蕾が、たった一日違いで、松本に、小澤征爾指揮サイトーキネンオーケストラのバルトークを聴きに行っている間に咲いてしまった。
   翌日帰ってきて、寂しそうに頭を垂れて萎んでいる花を見て、美しい晴れ姿を愛でてやれなかったことが申し訳なくて手を合わせて詫びた。

   月下美人は、枝につけた蕾は、必ず同じ日同じ時間に、皆一斉に咲き始めて、深夜に満開になり夜中咲き続けて朝には萎んでしまう。
   儚いホンの数時間の命であるが、実に優雅で美しい。

   江尻光一先生は、庭に,男の城・温室を作って花を育てて、月の美しい夜に、月明かりの温室の中で月下美人漬けの酒を味わってみては如何かと仰っていた。
   邪道かもしれないが、今夜、ボルドーのフルボディ赤ワインに浸して飲んでみようと思っている。
   真紅の薔薇の花びらをサンドイッチに挟んで、ダージリンをすすりながら美味しそうに食べていた英人夫妻のことを思い出した。
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変わっていない株主総会・・・三井住友FG

2005年07月01日 | 経営・ビジネス
   今年は2つのメガバンクの株主総会に出てみた。最初は、みずほFG,次は三井住友FGであった。

   みずほFGの方は、興銀の頃からなので結構長いが、みずほになってからは、東京国際ホーラムに会場が移り、何となくショウ化した感じになった。
   大衆化した分、程度の低い一般株主の質問が多くなって、緊迫感が希薄に成ってきている。
   今回は、所用があり一般質問が始まりかけた頃に会場を出たので詳細は分からないが、会社説明の中に、グローバルコーポレート、グロバルリテール等々グローバルが頻発し、その上、舶来のカタカナ文字が矢鱈に多い。
   更に、トップマネジメントとして一番重要な会社の方針「新たなコーポレートマネジメント戦略」において、全く意味不明のChannel to Discovery Plan を着実に推進して、企業価値の更なる向上に邁進すると言うのだが、何をするのか分からないし、説明責任を果たしているとは思えない。
   土地の地元企業に密着して必死になって頑張っている地方銀行と比べて、パーフォーマンスが、時には、劣っているみずほの行員のどれほどが、グローバルバンキングなりグローバルマネジメントなり、グローバルの意味が分かっているのか、甚だ疑問である。
   昔、バンカメを真似て、ピープルズバンクと称して意味も分からずに突っ走って、経営が悪化して不良債権の処理に蹉跌し、消えてしまった銀行がある。

   一方、三井住友FGであるが、大手町の古色蒼然たる本部ビルで総会が開かれ、旧態依然たる接客を受けて会場に入る。
   女性株主が、ひな壇に居並ぶ多くの役職員を見て男ばかりで面白くないと噛み付いていたが、西川社長は、役員席の人の多さに質問に回答できるように部長以上が待機しているのだと答えていた。質問には、一切他の役員に振ることなく西川社長が答えていたが、何故、そんなに多くの行員を株主に対置してひな壇に座らせなくては成らないのか不可解である。

   会社に意見した株主は、3人。そのうち一人は知識ヒケラカシ型、他の一人は、元行員で、上司の不誠実な指示により訴訟事件を引き起こした株主の会社糾弾、もう一人は、会社の不祥事を暴露して経営陣を追求する古い形の総会屋風の株主、であった。
   問題は、最後の総会屋風の株主発言に対する会社の対応。
   今日の経営悪化の元凶は磯田頭取、西川社長はその子分だ云々と発言するのであるから、会社としては面白くないし聞きたくもないので、西川社長が、質問内容を簡潔に、と言いながら、何度も途中で株主の発言に水を差す。(発言内容は、新聞等で報道されていて既知のことが大半であったが。)
   発言途中で、後方から飛ぶ野次は、昔の会社側総会屋の野次と全く同じ、西川社長の静止発言をバックアップする会場前方の株主の大拍手は、「異議なし、賛成。議事進行」と叫ぶ昔の社員株主の反応と全く同じ、忘れていた古い映画を見ているような気がしてしまった。
   総会前日、ご苦労にも昔風のリハーサルをしたのであろうか、この総会屋風の株主は、時間時間と言うなら一番最後に質問すると言って苦笑しながら席に戻ったが、結局諦めてしまった。

   一般株主との質疑応答は約1時間で終わり、株主総会も1時間50分位で終わった。
   開かれた総会と言われながら、多少悪意のある質問でも、この程度なら、何故、受けて立てないのか。2時間弱で終わる株主総会なら、質疑応答に制限などする必要は元よりないと思う。
   金融庁との軋轢は兎も角、経営悪化により膨大な公的資金を導入し、途中で大幅な業績の下方修正を行っており、また、銀行協会会長として重責を担った西川社長には、退陣に当たって、少なくとも十分に説明責任を果たす責任と義務がある。
   トップバンクとしての資質を具えたコーポレートカルチュアに変わるのであろうか、何れにしろ、コーポレートガバナンス以前の問題であると思った。

   余談ながら、最後の興味深い質問。
   リストラ・合理化等の経営努力によってサービスが悪化したとの発言が多かった。この主婦兼中小企業経営者の株主は、治安が悪いので貸し金庫を使っているが、毎回鍵が開かなくて30分以上掛かっていて仕事にならない、何度も、開くようにカードを変えてくれキイを変えてくれと言っても善処してくれない、(こんなこと信じられますか)と言う。
   限りなくゼロに近い金利しか払わない銀行に対して、庶民は諦めて銀行を金庫代わりに使っている、その銀行がカードの記録を盗まれ他人にカネを払い、またその上、スムーズに自分の金さえ出せない、と言う。カスタマーサティスファクションと言う言葉が銀行にはあるのであろうか。
   私自身は、ゼロに近い金利で店を開いていること自体が商業道徳に反していると思っているし、かっては優秀な新卒者の殆どがメガバンクに入行したが、その銀行員の誇りが一体何処にあるのか疑問にも思っている。
   
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