熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが青春の故郷宝塚を訪れる

2011年10月11日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   神戸からの帰途、夜のJAL便まで時間があったので、久しぶりに、宝塚に立ち寄ることにした。
   御影から、阪急に乗って宝塚南口で降りて、武庫川に架かる宝塚大橋を渡って、宝塚大劇場横の花の道を通って、宝塚駅まで歩くと言う単純な散策だが、このあたりは、私の子供の頃からは随分変わってしまって、非常に、都会的なシックな雰囲気に変ってしまっている。
   昔は、武庫川沿いと言うか、劇場と並行した形で宝塚動物園があって、それなりの遊園地として子供たちには楽しい憩いの場であったのだが、とにかく、小規模で中途半端でもあり、宝塚の一等地に動物園はないだろうと言うことであろう。

   宝塚南口駅前には、中々雰囲気のある古い宝塚ホテルがあって、このあたりは、昔から、川向こうの劇場や動物園のある方よりは、住宅街としては落ち着いていたのだが、最近では、逆に、反対側に、立派になった劇場の建物にマッチした近代的で綺麗な高層アパートが建っていて、様変わりである。
   大事故を起こしたJR西日本でも阪急でも、大阪駅まで30分程度で行けるようだから、通勤圏としても恵まれているので、住宅地としても人気が高いのであろう。
   
   宝塚大橋からは、すぐそばに、宝塚大劇場の一群の建物が眺望できる。
   手前は、ヅカガール養成のための音楽学校があるのだが、休日だが、制服姿の女生徒が歩いていたので、生徒なのであろう。
   私の子供の頃には、劇場横の花の道を、袴姿の制服の乙女たちが歩いていたのだが、垢抜けした綺麗なお姉さんたちが、颯爽と歩いているを見て、じっと見とれていた。

   綺麗になってからの宝塚劇場には入ったことがないのだが、子供の頃には、ここで、ディズニー映画の鑑賞会や、偶に演じられる子供が見ても問題のないような少女歌劇などを団体鑑賞で見せて貰った。
   やはり、子供心にも、華やかなレヴューの美しさは感激であった。
   大人になってから、一度だけ、ダビッド・オイストラッフのバイオリン・リサイタルを聴きに行ったことがあるのだが、外の雨音が聞こえてきていたのを覚えている。

   この口絵写真は、宝塚駅に向かう花の道から、大劇場を俯瞰したものだが、背後にある、このあたりのアパートも商店のビルなども、同じ、白っぽい壁に、赤色系統の屋根に統一されていて、中々シックである。
   昔は、宝塚駅から劇場までは、川沿いに土手状に少し高くなった花の道の並木小道が続いていて、その横に道路が走っていて、その道に沿って、土産物店や食堂は勿論のこと、普通の駅前商店街の店なども並んでいて、非常に庶民的な雰囲気であったが、同じ場所でも、今では、その面影さえない。
   私などは、現在の、美しいけれど、何となく余所余所しい感じの近代化された街並みよりは、古い雑踏の花道に慣れ過ぎてしまっているので、武庫川一帯も含めて、随分、綺麗になった宝塚を見ると、故郷は随分遠くなってしまったとつくづく思う。

   夏になると、この武庫川で、花火大会が行われていたので、良く、見に行った。
   ナイヤガラと言った仕掛け花火が、滝のように武庫川に光り輝きながら落ちる風景を今でも覚えている。
   
   宝塚大橋を渡ると、正面に、こじんまりした「宝塚市立手塚治虫記念館」がある。
   正面に火の鳥の素晴らしい彫刻があって出迎えてくれるのだが、手塚治虫は、宝塚で、子供の頃から20年間ほど暮らしたようで、私より、随分先輩だが、同じ頃に宝塚で暮らしていた期間があるかも知れない。
   映画やTVの手塚作品は、結構見ているのだが、私自身、サザエさんを少し見た程度で、アニメには縁がなかったので、手塚治虫のアニメや漫画は読んだことがない。
   しかし、記念館に入って、沢山の作品を見せられると、その膨大な偉業に感嘆せざるを得ない。
   最上階にある手塚作品の図書ルームやパソコンでの作画ルームなどでは、大人も交じって子供たちが沢山集まって遊んでいた。
   入口ホールで、昔懐かしいおじさんが、拍子木を打って子供たちを集めて、紙芝居をやっていたのも懐かしい。
   
   私の故郷は、もっと、武庫川を下って、伊丹や尼崎に近い方で、山が迫っているこの宝塚駅のあたりとは違って、昔では開けた農村地帯だったのだが、最近では、殆ど、尼崎の海岸縁まで建物で埋め尽くされてしまっていて、見る影もなくなっている。
   私が、宝塚に住んだのは、中学校の初めくらいまでなのだが、小学校と中学校は、完全に宝塚で過ごしたので、青春と言うと少し大袈裟かも知れないが、今でも無性に懐かしくなる甘酸っぱい思い出が充満している。
   雑誌の「世界」や「中央公論」などを読んだりしていて、結構、政治経済に興味を持っていて、「世界連邦」を勉強したいと思ったのもあの頃だし、人を真剣に愛することを痛い程身に沁みて思い知ったのもあの頃で、ファウストではないけれど、もう一度、あの頃に帰れるのなら、帰りたいと思っている。

   昔、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・」と言う詩を読んで感激したことがあるが、この長い人生の間に、随分、色々な所を歩いて来て、地球上のあっちこっちにプチ故郷が生まれているのだが、夫々、それなりに懐かしい。
   少し前に、何十年ぶりかで、小学校の同窓会に参加するために帰って来て、最近では、ほんの数回しか宝塚には来ていないし、住んでいた近くにも、中学校にも行っていないので、全く、思い出だけだが、私にとっては、やはり、宝塚が、一番大切な故郷だろうと思っている。
   
   
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久しぶりの神戸観光のひと時

2011年10月10日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   兵庫県は、私の故郷だが、阪神間で子供時代を過ごしながら、生活や仕事などはどうしても大阪の方に向いていて、神戸にはあまり縁がなかった。
   神戸で良く出かけたのは、小学校の遠足を含めて、六甲山と有馬温泉くらいである。
   しかし、ミナト神戸は、やはり、開国後、京都へのアクセスを禁じられていた外国人たちの居留地であり、ビジネスや外交の拠点でもあったので、エキゾチックでハイカラな雰囲気があり、商都大阪とは、大分違って垢抜けしていると言う雰囲気があった。

   ところで、今回、神戸に来たのは、甥の結婚式に出席するためで、特に、観光と言う訳ではなかったが、初日、伊丹についてから午後に時間があったので、北野の異人館街を散策することにした。
   ヨーロッパから帰って来て、久しいので、どこか、その雰囲気を感じたくて訪れたと言うこともある。
   神戸の街は、六甲山をすぐ真近に背負っているので、非常に急峻で、その斜面に異人館がとびとびに建っているので、若い頃とは違って、多少身に堪える。

   周りの雰囲気は、中々、シックで落ち着いた住宅街で、歩いていて気持ちが良く、近くの店舗なども、結構雰囲気のある店が多くて、楽しめる。
   私が、入館したのは、第1次世界大戦前にドイツ人家族が住んでいたと言う風見鶏の館と米国総領事の住んでいた隣の萌黄の館とだけだったが、両方とも1900年代初めの洋館で、明治後期であるから、大分、日本も文明開化していて、洋館を建設する職人もいたのであろう。
   面白いのは、やはり、ガラス窓のガラスが歪で、外の景色が揺れ動いているので、時代を感じさせてくれる。
   30年ほど前に、サンパウロのマンションで、ブラジル製のガラスの質が悪くて、家のガラス窓が、歪だったのを思い出して、懐かしくなった。

   両方の館とも、それ程、大きくはななく、私が、ロンドン郊外のキューガーデンに住んでいた家も、築100年以上のしっかりとした木造建築だったので、似たり寄ったりと言う感じで、あの家も結構良かったなあと、あらためて思い出した。
   いずれにしろ、ヨーロッパで8年間生活をしていて、沢山の歴史的建造物や立派な文化財など、多くの欧風建築を見て来ているので、特に、特別な感慨はなかったが、しかし、周りの住環境や街並みなど、非常に素晴らしい住宅街だと思った。
   丁度、その北野の異人館街の一角に、同じく古い洋館を店舗にしたスターバックスがあったので、そこで小休止して寛いだ。
   非常に爽やかな風が流れる気持ちの良い夕刻を過ごしたのだが、街中の喫茶店より、はるかに、リラックスした楽しい時間が過ごせる。

   宿が元町なので、丁度下り坂でもあり、少し、西の方向に歩を進めて、シックな店があるトートロードを下ることにした。
   その途中、クラシックな北野ホテルを過ぎた対面に、旧北野小学校を転用して作られた「北野工房の街」があって、教室を工房や店舗にした神戸の食品や菓子、アクセサリーやインテリア、中には、和ろうそくやマッチの店などもあって、一つ一つ、梯子をするのも面白い。
   スイート神戸と言われるくらい、神戸は、甘い洋菓子の店が多いのだが、立派な中華街もあり、パンや灘の生一本の故郷でもあり、とにかく、特色があって面白く、何よりも廃校を活性化しして、観光スポットとしているのが良い。

   このトートロードを歩いていて、中々シックな店も多く、ピカデリーなどロンドンの繁華街を見ても分かるように、最近、大都市の俗化が激しくて、街のど真ん中に、低俗な店が進出して雰囲気をぶち壊しているケースが多いのだが、神戸は、比較的、水準を保っているような感じである。
   尤も、三宮の繁華街に近づくと一気にムードが変ってくる。

   ホテルが、元町の中華街に近いので、夕食でもと思って、中華街に入って、往復したのだが、元々、中華が好きな方ではないし、呼び込みが激しいのに嫌気がさして出て来てしまった。
   折角、神戸まで来て惜しいと思ったのだが、結局、昼の疲れもあって、隣のスターバックスで、軽い夕食で済ませた。
   ところで、中華街だが、週末だと言うのに、客は少なくて閑古鳥が鳴いていて、多く客の入っている店など、皆無だったのだが、不況の影響であろうか、不思議であった。

   ところで、それなりに、神戸の街を歩きながら、写真を撮ったのだが、何の拍子か分からないのだが、帰ってパソコンに取り込もうとしたら、全部消えてしまっていて、一枚も写真が残っていないので、この口絵写真は、インターネットから借用した。
   フィルムなら、迂闊に消すことはないのだが、デジカメは、ダイヤル操作を誤ると、一挙に水泡に帰してしまう。
   悲しいけれど、仕方がない。
   
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NINAGAWA「アントニーとクレオパトラ」

2011年10月06日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   5年間ロンドンにいて、RSCに通い詰めた筈だが、「アントニーとクレオパトラ」を見たことがなく、今回は、久しぶりに、さいたま芸術劇場に期待して出かけて、何時もの蜷川シェイクスピアの世界を楽しませて貰った。
   劇場に、蜷川さんの主要作品の展示がされていたが、最初に見たのは、ロンドンで、マクベスであったが、私としては殆ど見ており、随分と、蜷川シェイクスピアの演出も変って来ているのに、その歴史と軌跡を感じている。

   ところで、この「アントニーとクレオパトラ」は、17世紀初頭に、プルタークの「英雄伝」を底本にして書かれたようで、歴史的な事実よりも、最初から、フィクションと言うか、シェイクスピアの創作的な要素が現れた作品のようで、ラストは、お馴染みの、クレオパトラが、毒蛇を胸に当てて死ぬシーンなのだが、後の4大悲劇のような悲劇性はない面白い芝居である。
   冒頭、家来たちが、クレオパトラの色香に負けて腑抜け同然になった元勇将のアントニーを詰るところから始まるのだが、クレオパトラとの大人の恋の鞘当などが続いて、最後は、気の多いクレオパトラが、アントニーに対する激しい恋心を独白しながら死んで行く結末が面白い。

   この時、アントニーは43歳、クレオパトラは29歳で、アントニーの吉田鋼太郎は、正に等身大で、安蘭けいのクレオパトラも、既にシーザーとの激しい恋の経験者であるから、正に、熟年の恋なのだが、どうしてどうして、二人の恋物語は、痴話げんかからプライドのかかった鞘当まで、若者以上に激しく、時には単純である。
   激しく恋焦がれて居りながら、クレオパトラの方は、侍女にアントニーの様子を見に行かせて、「沈んでおいでなら私がダンスをしていると、楽しんでおいでなら私が急病だと言うんだよ。」と言うので、侍女に、何事もあのかたの御心のままに、手練手管はダメと窘められるのだが、それは阿呆な考えと一蹴する。
   やってきたアントニーを拒絶しながら、綺麗なすらりとした足を太ももまで露出して誘惑、必死になって、迫る鋼太郎アントニーが振り回される。

   シェイクスピアの妻に対する扱いが面白い。
   アンソニーの妻ファルヴィアが亡くなったのに対して、アントニーの重臣イノバーバス(橋本じゅん)に、神が古い下着のかわりに新しい肌着を与えてくれるのだから、早速神々に感謝の生贄をささげるべきだと進言する。

   さて、歴史上名高い絶世の美女クレオパトラだが、安蘭けいは、かっての宝塚星組のトップスターで、男役と言うことで、威厳と女王としての風格は十分だが、私のイメージしていた色香と言うか女性としての生々しい魅力が出し切れていない感じで、中性的な印象が強く、シーザーやアントニーと言う超英雄を虜にした恋の恋たる所以の女としての究極の魅力が隠れていて惜しいと思った。
   上手く表現が出来ないが、男が溺れてしまう究極の魅力は、その女性の持つトータルとしての女性力ではないかと思っている。
   勿論、安蘭けいは、実に容姿端麗で魅力的であり、私が、欧米の博物館や美術館などで見たクレオパトラ像にそっくりで、一つのクレオパトラの典型像だと思う。

   もう一つ考えたのは、シェイクスピア当時は、あの「恋におちたシェイクスピア」でも分かるように、すべて男優が演じていて、クレオパトラも、声変わり前の少年に演じさせていたのであろうから、「完璧で永遠の女性」と言うイメージでも、シェイクスピア自身、そんなものが表現されるとは思っていなかったと思う。
   シェイクスピアの修辞や台詞の巧みさ美しさは抜群であると思うが、この戯曲で、イノバーバスが、ローマに帰って来て、同僚たちに、クレオパトラの魅力について、滔々と喋る実に美しくて感動的な長台詞があるのだが、シェイクスピアは、ここで、クレオパトラの本当の魅力を観客に知らしめたかったのではないかと思う。
   元々、炎天下の旅籠の舞台や屋根なしの円形劇場で演じられていたシェイクスピア劇は、見せるのではなく聞かせる芝居であったから、それで良かったのかも知れない。
   (シェイクスピアは、観るではなく、聴く芝居だったのである。)
   そう考えれば、芝居の筋を忠実に追って、ドラマチックな舞台展開を図るためには、安蘭けいのような台詞回しが上手で、演技にメリハリのついたダイナミックなクレオパトラの方が、似つかわしいのかも知れないとも思ったりしている。

   この芝居を観ていて、もう一つ印象に残っているのは、シーザー(池内博之)たちローマの3執政官がポンペーの宿敵ポンピーアスとの和解が成って、ポンピーアスの船に乗り移って宴会を繰り広げるのだが、その時、ポンピーアスの家来ミーナスが、3人を消せば貴方が全世界の王になれるが暗殺しましょうかと示唆したのに対して、ポンピーアスは、黙ってやってくれたら良かった、お前がやれば忠義になるが俺がやれば裏切りになると言って制止したことである。
   日本の戦国時代なら、ローマの3巨頭が一緒に敵船に乗るような馬鹿な武将はいなかったと思うが、シェイクスピアの騎士道の一端が垣間見えて興味深かった。

   さて、この蜷川「アントニーとクレオパトラ」だが、舞台が主に、エジプトとローマだが、舞台展開に、ローマには、カンピドーリオの丘の上のカピトリーニ博物館にあるオオカミ像や将軍の胸像などの彫刻を、エジプトには、古代エジプトの壁画をバックにスフィンクス像とハスの花飾りと言った調子で、上手く舞台展開を図っていて面白い。
   蜷川作品にしては、珍しく音楽がなく、あくまで、役者たちの台詞廻しで舞台展開を図っていて、この頃、蜷川の舞台が、一頃のRSCの舞台に近い、非常にオーソドックスな正攻法の演出に近づいているように思うのは、シンプルに総てを削ぎ落して、逆に、役者たちに出来るだけ自主的に泳がせて蜷川節を増幅発展させようとしているからであろうかと思ったりしている。
   かっては、幕が上がる前から役者が舞台に出て演じていたり、劇場外の風景を舞台に取り入れたり、エキゾチックな舞台展開を図ったりなど意欲的な試みを多くしていた。

   吉田鋼太郎は、日本のみならず、世界にも通用する大シェイクスピア役者なのだが、今回は、ダメ将軍のイメージを出したいと言うようなことを言っていたが、生身の人間的な深みが出ていて良かった。
   シーザーの池内博之は、実に溌剌としたパンチの利いた魅力的な執政官で、中々、どうに入った演技が魅力的。
   イノバーバスの橋本じゅんは、あの長台詞を滔々と淀みなくものし、それに、アントニーの最も重要な家来でありながら、多少コミカルな道化回し的な演技も冴えていて、実に器用な役者である。
   私が知っていた役者は、吉田以外には、侍女シャーミアンの熊谷真美とシーザーの妹でアントニーの妻となる中川安奈だが、二人とも適役であったが、脇役なので、十分に魅力が出ていなかったのが惜しい。

   とにかく、非常に良質なシェイクスピアを見せて貰って感激している。
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CEATEC JAPAN 2011・・・エコ&スマート

2011年10月04日 | 展覧会・展示会
   幕張で、恒例のCEATEC JAPAN 2011が開幕したので出かけた。
   基調講演のNECの矢野薫会長の「スマートイノベーションが導く新たな日本の成長」と、パナソニックの大坪文雄社長の「エレクトロニクスがもたらす新たな「くらし革命」」を聞いたが、後は、広い展示場を回って過ごした。

   今回は、大震災で電気事情が著しく悪化したので、どうしても、省エネとエコに話題が行くのだが、所謂、グリーンとスマートが強調されている感じだけれど、電器会社の未来への提案は、ユビキタス、ユビキタスと連呼していた数年前と殆ど変っているようには思えない。
   特に、パナソニックなどは、今回、正面切って、「丸ごと提案へ」と、電工、三洋の子会社化の経営戦略を前面に押し出していたが、私は、このような丸ごと自社で事業を一体化して囲い込むなどと言った総合化は、経営戦略としては大いに疑問だと思っており、総合○○と言う事業形態故に、失われた20年以降、多くの日本の企業が、業績の低迷に辛酸を舐めていることから、何も教訓を得ていないような気がして仕方がない。
   ここで、ジャック・ウェルチが、ドラッカーの指導を得て、業界で1位か2位でなければ撤退し、絶対やるべき事業には資金を振り向けて事業化するとしたGEのかっての戦略の良しあしを論ずるつもりはないが、大体、同じような業態の競争会社が寡占状態で存在し、まして、競争力のある新興国の同業者の追い上げを受けているような状態で、コア・ビジネスで取り立てて差別化にも価格競争にも優位・特色のない会社が、真面に、競争に勝って行ける筈がないと思っている。
   各部門で競争優位にある企業にアウトソーシングするとか、オープン・ビジネス戦略で囲い込むとか、外部の有力な企業とのコラボレーションが、グローバル・ビジネスの成長戦略の基本となっていることからも自明であろう。

   ところで、展示会場の方だが、やはり、目が行くのは、コンシューマー・エレクトロニクスの方面。
   昨年は、3Dが全盛であったが、今回は、何故か、3Dは、どことなく下火で、同じ3Dでも、メガネをかけずに見られる方に関心が移っているようであった。
   東芝のブースは、長い列であったので、諦めたが、JVCとケンウッドの協力で開発した情報通信研究機構NICTの「200インチの自然な裸眼立体像表示技術」のディスプレイの映像は、圧倒的な迫力で、素晴らしい。
   観察者が、左に右にと動くと、自然に立体像が変化し、少ししか見えなかった車の中が、移動すると大きく見えてくるなどと言った本当の立体像が見られるのであるから、驚きである。
   日立では、実空間融合フルパララックス3Dディスプレィを、小さな卵形の映像に投影して見せていたが、面白いことは面白いのだが、ピンボケだし、何故、あのような稚拙な未完成の作品を見せるのか、その心境が分からないと思って見ていた。当然、暗い片隅のブースだから、観客も少ない。

   シャープは、日経ビジネスで、社長が、テレビは詰まらないと言ったようなことを書いていた所為なのか知らないが、今回は、、「停電・災害時用バックアップ電源システム」など 、太陽光発電システムと組み合わせた最新のホームエネルギーソリューションや、新製品のソーラーパネルやイタリアなど世界各地に拡がるメガソーラー発電所の事例など、ソーラー関連に力を入れていた感じである。
   昨年、鳴り物入りで、展示していたタブレットの「ガラパゴス」が展示されていたので、ツタヤと決別したり生産を中止すると言う報道があったので、撤退するのではないかと聞いたら、製品を中型の1機種に絞って出直すのだと言っていた。
   大体、進化論のダーウィンに因んだのか知らないが、絶滅種動物の住むガラパゴスと言うネイミングからして、常識を疑う。

   ところで、シャープのTVだが、アイキューブド研究所との共同開発のフルハイビジョンの4倍の解像度を持つICC4K液晶テレビや、次世代のTV放送サービスであるスーパーハイビジョンに対応する直視型85V型液晶ディスプレイなどは、非常に素晴らしい画像で、細部の画像の解像力のみならず、その輝きや微妙な質感が表出されていて、臨場感と表現の豊かさは、格別である。
   尤も、このような持続的イノベーションとも言うべき技術深追いの努力は、新旧並べれば違いは分かるが、個別に見れば別に特別な差はなく、既に顧客のニーズをはるかに超えた技術開発なので、顧客は、それに見合った見返りを支払う意思はないので報われないのであるが、現実的にも、他社製品との差別化以外の価値はないのが現状であろう。
   テレビが、3D化であろうと、画質や音質の向上であろうと、いくら良くなってもテレビには変わりなく、スティーブ・ジョブズがして来たように、もっと便利で楽しい機器を生む破壊的イノベーションが現れないのであろうかと思う。

   ユーザー・エクスペリエンスを強調するソニーだが、巨大なスクリーンに大音響で、「“Sony Tablet”をはじめとしたネットワーク対応機器による新たなユーザー体験」と銘打って派手な演出を行っているので、大きなホールが満員の盛況だが、列をなしているのは、ヘッドマウントディスプレイ“Personal 3D Viewer”『HMZ-T1』とデジタル録画双眼鏡『DEV-3』で、何のことか良く分からなかったが、並んでみることもないと思ってパスした。
   ソニーも、パナソニックと同じで、間口は狭いが、コンシューマー・エレクトロニクスととエンターテインメントを、そして、ハードとソフトを纏めて統合・総合化して、ワンセットで、顧客に向かおうとしているのだが、このような囲い込みが有効な戦略なのかどうか、多少疑問に思っている。
   ソニー・ミュージックがあったばかりに、ダブルベッディング出来ずに、iPodに負けたことを考えれば、得意中の得意のコア・コンピタンスに集中した方が良い筈なのだが、既に斜陽のテレビやビデオをコアだと思っている限りは、この戦略も無理かも知れない。
   “Sony Tablet” Sシリーズ、Pシリーズや、電子書籍リーダー“Reader”『PRS-G1』『PRS-T1』に嫌に力を入れているのだが、競争会社に勝てるのであろうか。

   色々の会社のブースで、最先端の技術開発や製品を見せて貰って説明を受けたが、悲しいかな、殆どが、デジタルのモジュール型で、リバース・エンジニアリングで、すぐに、新興国企業に追いつかれて、時には追い抜かれてしまうものばかり。
   創業者利潤の供与は、ほんの瞬間と言った感じで、日本企業が、回転車のハツカネズミのように見えて仕方がなかった。
   
   スマート・グリッドの1端末と言った感じのニッサンの電気自動車の電気システムが、TVで話題になっていたが、周りには、「スマート・コミュニティ”ZERO”」と言うゾーンが出来ていて、三菱自動車など多くの企業が新しい試みを紹介していて面白い。
   その意味では、パナソニックのエコ・シティとして計画されている「フジサワ エコ タウン」プロジェクトなどは、スケールも大きく、最先端を行く、非常に興味深い試みであり、期待が持てると思う。
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ウォール街デモ:市場経済行き過ぎ抗議

2011年10月02日 | 政治・経済・社会
   今日、TVも新聞も、ウォール街でのデモを報道していたが、「Occupy Wall Street(ウォール街を占拠しよう)」をスローガンにしたデモ活動は2週間以上前からウォール街の近くにあるズコッティ公園を本拠として行われており、金融界の「強欲と腐敗」への抗議などが目的だとしている。
   ウォール街から市内のブルックリン橋などに広がり、警察は橋の交通をふさいだなどとしてデモ参加者700人以上を逮捕したと言うのだが、「アラブの春」に触発されて、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアの影響で拡大したと言うから、正に、現代的なデモである。

   NHKは、政府の経済政策への反発だと報道していたが、やはり、リーマンショック以降、一向に経済状態が良くならずに、格差の拡大と貧困の増加が益々進行していることへの、国民、特に、失業率が増加して労働環境が悪化の一途を辿っていることへの、強い抗議行動であろう。
   大金持ちのバフェットの税金が、秘書の税金よりも低いのはおかしいと抗議をしたのを受けて、オバマが、富裕層の増税を、再び提唱して脚光を浴びているが、税の質が違うので一概には言えないものの、共和党など保守主義者には、依然、経済を牽引する筈の富裕層の増税は、経済発展のインセンティブを削ぎ、経済に悪影響を与えるのでダメだと言うラッファーのような人々の影響力が強い。
   それに、いまだに、貧困層のアメリカ人の中にも、努力すれば、いつかは豊かになれると言うアメリカン・ドリームを信じている人々が多いのだと言うから、根の深い自由主義経済思想でもある。

   根本的な問題は、やはり、日本と同じで、国民生活の悪化と貧窮である。
   WSJの報道では、「米国勢調査局が13日発表した生活水準に関する年次報告によると、米国の標準的な家庭の所得(年収の中央値)はインフレ調整後ベースで前年比2.3%減の4万9445ドル(約381万円)だった。この所得中央値は、高い失業率と厳しい雇用環境を受けて給与の増加が難しくなっているため、07年以降減り続けている。」
   1990年代の初めから、バブルの崩壊とデフレ不況に喘ぎ始めた日本とは逆に、ICT革命で、一気に高度成長に突入した筈のアメリカだったが、IT不況後は、所得の減少は長期的なトレンドとなり、ここ10年間の賃金上昇分が吹き飛んだ形で、インフレ調整後の所得は1999年のピークから7.1%減で、5万ドルを割り込んだのは1997年来初めてだと言う。
   あのサブプライム問題が表面化し、リーマンショックが起こるまでは、賃金・給与所得が増えなくても、住宅などの資産価値の増加と緩いクレジット・システムにバックアップされて、アブク銭に頼ってキリギリス生活が出来たので、気にならなかったのであろう。 

   今や、深刻なのは、貧困率で、2010年の公式貧困率(4人家族で所得が2万2314ドル(172万円)を割り込む世帯の構成人数の人口比)は15.1%に達しており、貧困者は数で見ると4600万人で、1959年に統計を取り始めて以降最多で、15.1%という比率で見ると、1993年と同水準で、1983年以降最高だと言う。
   健康保険に入っていない人の数は、2009年の4900万人から2010年は4990万人に増え、保険未加入者率は16.3%となったと言うのだが、その上に、共和党の圧力で、高齢者や障碍者向けのメディケアや貧困層向けのメディケイドを引き下げようとしているのであるから、生きて行くのも大変である。

   私の感覚では、アメリカの物価は、日本並みだと思うのだが、失業率が、9.1%と言う高率で、いつ就職できるか分からない状態で、この程度の低い所得であるにも拘わらず、健康保険にも入れず、不幸はすべて自分持ちと言うアメリカの厳しさは、最も豊かな国の国民生活の実態だとは思えないほど過酷である。
   年金に季節ごとにボーナスがつき、買い物は税務署員と一緒になって二重領収書で脱税して山分けし、大企業と云えども税金を払おうともしないギリシャなどと比べれば、法治国家のアメリカ人は、真面目に一生懸命に働くのだが、働けど働けど、益々、生活は厳しくなる一方。
   しかし、金持ちはどんどん豊かになって、富の大半を収奪し、格差は、益々、拡大の一途を辿っていて、期待の星オバマは、鳴かず飛ばずで頼りにならず、病んだアメリカは、瀕死の状態で呻吟している。

   さて、我が国日本だが、賢くあるべき筈のマスコミまで、いまだに、小沢問題にうつつを抜かして報道し続けている。
   日本の民主主義は、今も、マッカーサーが言ったように12歳のままなのであろうか。法制度は機能しているのであろうか。
   この日本が、沈没するかしないかと言う数年間の危機的な貴重な時期に、小沢問題で、どれだけ、日本の再生と政治にマイナスのバイアスがかかって、足を引っ張って日本をダメにして来たか、いい加減にしろと言えない程、日本人はダメな国民なのであろうか。
   自分が生きている間は、日本の凋落を見たくないと、わが仕事のパートナーは、いつも言っているが、私自身は、少しずつ、足音が近づいているような気配を感じて、慄然としている。
   
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シーズンたけなわ~小学校の運動会

2011年10月01日 | 生活随想・趣味
   孫の小学校の運動会に出かけた。
   私の小学校の頃には、祖父母が孫の運動会を見に行くなどと言うのは、あまりなかったことだと思うのだが、私など、写真係を頼まれれば、鎌倉まで出かけて行く。
   鎌倉市役所のすぐ隣の御成山をバックに背負った御成小学校だが、運営などは、プログラムの作成から当日の実行まで、可成りを、子供たちの自主性に任せているようで、私たちの頃とは、随分と変わっていて面白い。

   まず、運動会で、徒競争やリレーなど、優劣を競う勝負が絡んだ競技があるのだが、昔は、1等から3等くらいまでの入賞者には、ノートや鉛筆と言った賞品がついていて、勝敗をはっきりと印象付けていたが、御成小の場合には、すべて、紅白の勝負と言うことで、夫々の競技の勝敗に点数が配されていて、最終の集計で、白組が勝つか紅組が勝つか、それだけで、丁度、紅白歌合戦と同じである。
   一頃のように、走った生徒は、順位には関係なく、すべて、1等賞と言った馬鹿らしいシステムとは違って、等級は結果として出て来るが、気にしないと言うことである。

   もう一つ、大きく違っているのは、昼の食事で、我々の頃には、母親などが思い思いの弁当やおやつなどを用意してやって来て、親子が一緒になって、食べるのを楽しみにしていた。
   しかし、御成小の場合には、子供にとって、色々な家庭事情があるので、子供たちは、弁当持参で教室に帰って食べると言うことで、親子別々である。
   今思えば、我々の子供の頃は、まだ、戦後の貧しさや余韻が残っていて、日頃弁当さえ持ってこれずに、その時間は、運動場に出て時間を潰していた子供が居たのを思い出して、楽しかった思い出のみで、そんなことに気付かなかった自分を思うと胸が痛む。

   ところで、車いすの生徒たちも、全く、同じグラウンドに出て、出来るだけ同じ競技に出て輪の中に溶け込んでいることで、見ていて、何の異質感もなく、子供たちも喜んでいるようで、これは非常に良い。
   それに、気付いたのは、文化平和都市・鎌倉の所為もあるのであろう、外国の人たちの子弟が、ちらほらいることで、国際色を感じることである。

   興味深かったのは、騎馬戦での子供たちの闘争精神の差で、俊敏で頭の良い子は、コマンドしているのであろう、駆け出しから大将の風格があり、瞬時に勝負をつけてしまう。
   可愛い女の子が、にこにこしながら、騎馬戦に興じている姿も微笑ましいが、攻められれば、大きな男の子の騎馬に、敢然と挑んで行き、隙をついて帽子を落とすのも面白い。
   それに、リレー競争など、10メートルも差があったのに、ゴール寸前で、追い抜く妙技など、子供の競技だと思いながらも、興奮してくるのも不思議である。

   運動会は、小学校、中学校、高校と夫々懐かしい思い出があって、随分懐かしく、夫々の故郷の思い出が、怒涛のように吹きだして来て、走馬灯のように何時までも心の中を駆け巡るのだが、私には、何故か、甘酸っぱい思い出の方が嫌に強く印象に残っていて、一層、あの頃が懐かしくて仕方がなくなる。
   
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