熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

中国のバランス・オブ・パワー「新戦国七雄」

2013年07月08日 | 政治・経済・社会
   ダニエル・コーエンの本を読んでいて、興味深かったのは、ローマ帝国の消滅によって、この隙間を埋めようとしたヨーロッパの新興勢力同士の競争が、政治・経済・精神などの側面からヨーロッパの個性を創り上げる過程で、極めて重要な役割を果たしたと言う指摘である。
   この諸国のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)が、ヨーロッパの政治哲学の中枢となり、ヨーロッパが戦争と平和と言う不変のサイクルにおかれ続けた理由でもあり、また、競争を刺激して、発展進歩をドライブする要因でもあったのであろう。

   ところで、この考え方を、デヴィッド・ランデス説を引用して、中国に関して語っているのだが、現実の中国の事情を照らし合わせて考えると、非常に面白いと思った。
   仮に中国が、秦王朝以前の「戦国七雄」の7つの王国が争っていた戦国時代の状態にとどまっていたら、中国は、統一王朝下にあったよりも、はるかに発展していたに違いない。
   何故なら、中国は、ヨーロッパ諸国と同じ刺激を利用できた筈だからである。と指摘しているのである。

   ところが、現在の中国は、考え方によっては、かっての戦国七雄が、新しい装いで戻ってきたような、政治体制になっている。
   小平が、省に対し教育や運輸行政のみならず経済開発など経済的な政策の実行についても大きな自治権を与えて以降、省によっては、北京の中央政府と同じ政策を採用したり、広東省や浙江省など有力な省を始め、中央政府によって公布された厳しい基準や命令などを、地方の指導者がほとんど無視するといった極端なケースは勿論、中央政府の指導者と省レベルの自治体が衝突することが頻繁に起こっており、地方自治権が、非常に強力となった結果、地方省庁の間でも、激しい経済競争が勃発して、正に、戦国七雄の再来とも思しき現象が生じている。

   この現象に対して、ジャック=リュック・ドムチェックが、「その統治スタイルの主な原動力は、私腹を肥やすことであり、新たな金権政治だ。」と言っているのに対して、
   コーエンは、
   ”エリートが経済のダイナミズムを打ち砕く腐敗国家とは異なり、中国の各地方における腐敗政治は、現在に至るまで、経済成長の要因でもあり続けている。地方の行政当局は、特にインフラに関する比較優位を振りかざしながら、外国投資の誘致合戦を熱心に繰り広げており、この誘致合戦により、中国全体に対する投資が刺激されている。中国の様々な地方を活性化させる投資誘致合戦は、16世紀におけるヨーロッパの国民国家間の競争に似ている。”と、むしろ、肯定的に捉えている。

   尤も、コーエンも、中央政府と地方政府との権力の複雑な均衡は、現在のダイナミズムの主要な懸念であることを認めており、汚職撲滅など地方政府の逸脱に警告を発しており、これが、「裸足の弁護士」活動を誘発して、自分たちの自由を危険に晒しながら、中国社会に人権と言う理念を浸透させていると述べている。

   さて、私の言いたいのは、このような地方自治権の大幅拡大によって、中央政府のコントロールのタガを逸脱しつつある「戦国七雄」システムが、今後も有効に機能するかどうかと言うことである。
   現在、シャドウバンキングの行き過ぎによる中国の金融危機が叫ばれている。
   中央政府の経済成長指令に基づいて、地方の経済成長合戦が火花を散らしているのだが、最近では、中国経済の輸出戦略の陰りなどで、その成長戦略の大半が、不動産投資合戦に集中しており、既に、飽和状態となってバブル状態にある不動産開発の結果、あっちこっちに、鬼城と称される新規大型開発のゴーストタウンが沢山現出しており、15兆円とも言われる巨大な額のシャドウバンキング融資が、不良債権化されると懸念されているのである。
   ハツカネズミの「回し車」のように、成長路線を突っ走らなければならなかった地方政府が、あぶく銭のように膨れ上がって巨利を求めて行き場を失った膨大な資金源であるシャドウバンキングに頼って、無責任な投融資競争に奔走しなければならなかったのであろうが、本来脆弱な中国経済の行く末は見えている。

   先に、ニューヨークタイムズが、温 家宝の膨大な蓄財をリークして物議を醸したのだが、上から下まで、共産党員である政府高官の汚職・腐敗堕落は極に達しており、習近平が就任早々に、汚職撲滅、腐敗政治家の摘発を宣言しなければならなかったと言うことからも分かるように、中国政治の腐敗ぶり程度の低さが露呈している。
   その程度がもっと深刻な地方政府をどのようにコントロールして行くのか、コーエンの言うように、この新戦国七雄システムの再来が、新バランス・オブ・パワーとして、かっての近代ヨーロッパのように、競争による切磋琢磨として、発展成長に寄与するのかどうかは、大いに疑問である。

   それに、学歴の高い才色兼備の愛人を持つことが政府高官のステイタスシンボルで、そのために汚職を重ねると言う風潮が、非難の矢面に立っているのだが、何億と言う中国の民が、貧困と公害の深刻さに泣いていると言う現実とのあまりにも激しい落差。
   欧米の経済学者などは、中国の13億の民が、アメリカ並みの消費生活を始めるようになれば、エネルギーや天然資源の枯渇は勿論、宇宙船地球号自体がエコシステムの崩壊に直面すると危機感を募らせているのだが、
   今や、インターネット、特に、SNSによって、グローバル世界は、一挙にフラット化して民衆化されてしまっており、理屈の合わない世界は白日の下に晒されることになってしまっているので、私は、その前に、中国で、一波乱起こるであろうと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマト・プランター栽培記録2013(12)フルーツルビーEX色付き始める

2013年07月07日 | トマト・プランター栽培記録2013
   やっと、中玉トマトのフルーツルビーEXが、色付き始めた。
   レッドオーレも、びっしり実を付けていて、もう少しで色付き始める筈である。
   ミニトマトと違って、実成りは、大玉との中間と言うか、一房7~8個くらいに抑えているのだが、育てるのは、ミニトマトよりは、多少難しい。

   さて、尻腐れ病だが、その後、桃太郎ゴールドの実が、5~6個被害を受けており、おさまらないのだが、花房全部と言う訳でもないので、黒ずんだ実だけ落として、僅かだが、残った実はそのままにしている。
   花房全体が、途中で成長せずに落ちたり、かなりの実が、尻腐れ病に罹って落としているので、今年は、桃太郎ゴールドは不作のようだし、来年からは、他の会社の黄色い大玉トマトに代えようかと思っているのだが、
   尻腐れ病は、カルシューム不足が原因だと言うので、今日、苦土石灰を株もとに撒き様子を見ることにした。
   施肥している有機肥料が、窒素リン酸カリが等量なので、カルシュームを追加したと言う格好である。


   さて、15本植えているイタリアン・トマトだが、行儀が悪いと言うか、日本のトマト苗とは違って、教科書通りには、育っていない。
   葉が3枚目毎に、花房がついて、花房は、同じ方向に出るなどと言った日本トマトなら定番の性格の良いトマト苗などなく、とにかく、芽や花房の出方もまちまちで、それに、花房の先から葉が伸びて来るの等は普通であったり、野生的と言うか雑草のようなバイタリティである。
   今まで植えていたサントリーなどのイタリアン・トマトの苗は、もう少し、落ち着いていたので、品質が悪いのかも知れない。

   さて、このイタリアン・トマトだが、アイコのように楕円形の細長い中玉のローマだけは、順調に、花を付け実も普通に大きくなっている。
   

   ところが、大玉の他のトマトの一つバンターノも、尻腐れ病にやられてしまった。
   まだ、最初に実がついた大玉一つだけなので、切り取って、他の実は、そのままにしている。
   

   もう一つ、マルマンデの実が一つ、疫病に罹って、グジュグジュになってしまった。
   すぐに切り落としたが、隣の実には何の変化もないので、そのままにしておこうと思っている。
   いずれにしろ、肥料は仕方がないとしても、トマトには、薬剤散布だけは避けたいのである。

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダニエル・コーエン:日本人は清潔だったから人口密度が高く貧しかった

2013年07月06日 | 政治・経済・社会
   フランスの経済学者ダニエル・コーエンの「経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える」を読んでいるのだが、やはり、フランス人で、一寸、意表をついたような理論展開をしていて、非常に興味深い。
   
   まず、人類の起源から産業社会の時代が訪れるまで、社会を支配してきた掟は、地球で暮らす者の平均所得は、停滞しづけて、新たなテクノロジーの出現によって社会が繁栄し始める度に、常に同じメカニズムが作動し、繁栄が打ち消されてきた。
   経済成長が、出生数を押し上げ死亡率を落とすので人口増を引き起こし、次第に一人あたりの所得を減らす。全員の食い扶持を確保するために耕作可能な土地が不足すると言う致命的な事態に至り、人口過剰になった人類は、空腹や病気で死に、飢饉と疫病が、経済成長する社会の発展を打ち砕いて来た。
   暮らし向きの良し悪しに拘わらず、このマルサスの法則は、成り立っていたと言うのである。

   そこで、コーエン論の面白いところは、次の指摘である。
   ”公衆衛生を尊重した社会は、これとは逆な形で、マルサスの法則が作用した。
   18世紀初頭の、ヨーロッパ人は、中国人より平均的に富裕だったが、それは、ヨーロッパ人が不潔だったからだ。中国人や日本人は、出来る限り入浴したが、ヨーロッパ人が体を洗うことはなかったし、どんな身分の者であれ、悪臭が立ち込めても、住居に隣接したトイレに文句を述べたりはしなかった。ヨーロッパ人とは対照的に、日本人は清潔さの完璧なモデルで、道路は清潔に清掃され、自宅に入る際には靴を脱ぐのが習わしである。日本人は清潔だったので、ヨーロッパよりも人口密度が高く貧しかったのだ。ヨーロッパの繁栄は、正に「悪徳の栄え」だったのだ。”

   本論に入る前に、このヨーロッパの不潔不衛生と言うことだが、確かに、昔友人であった素晴らしい米国人のビジネス・ウーマンが、私に、毎日風呂に入ったりシャワーを浴びるのは日本人とアメリカ人だけで、ヨーロッパ人は、シャワーさえ浴びない人が多いと嘆いていたので、ほぼ、間違いはなさそうである。
   もう随分以前になるが、私が初めて家族を連れてイタリアを旅行した時に、ローマで、かなり上等なホテルに泊まって、長女のためにバスタブに湯を張ろうとしたら、途中で水になってしまったので、困って、フロントと大喧嘩したことがある。
   私は、アメリカでもそうだったので、当然、イタリアの宿も、家族3人が風呂に入れるものだと思っていたのだが、イタリアの常識では、ヨーロッパ人は、浴びても軽いシャワーだけなので、バスの湯のキャパシティは僅かで良くて、部屋のタンクに程々に貯めて置けば、それで十分だったのである。

   イタリアのみならず、ヨーロッパのホテルには、何処でも、素晴らしいビデの設備が整っているのだが、これも、不清潔ゆえの生活の知恵であり、匂い消しに、香水文化が発達したのと同様に、ヨーロッパ人、特に、フランス人の文化観の錯綜ぶり奥深さ(?)を示す一面かも知れないと思うと面白い。
   「恋に落ちたシェイクスピア」など、あの当時のイギリス映画をご覧になった方は、御記憶だと思うのだが、通りを歩いていると上の方から汚れた水がバサッと落ちてくるシーンが出て来るのだが、あれは汚物で、上階の窓から平気で、皆汚物を街路にぶちまけていたのである。
   そのために、イギリスの田舎などに行くと古い民家などは、2階3階と上階に行くほど、逆階段状に床がせり出して飛び出していて、下を歩く人は、汚物に汚されないように、入り込んだ家の窓際に寄って歩かなければならなかったと言うことが、良く分かって面白い。

   それに、ヨーロッパの王宮や離宮、お城などには、立派な部屋はあるが、肝心の洗面所などそのあたりの設備が殆どないようで、侍女や家来が総て処理していたのであろう、とにかく、文化の違いとは恐ろしいものである。
   シェイクスピアのグローブ座は、1500人の観客を擁したが便所はたった一つ、庭や階段や廊下で用を足したと言うし、ヴェルサイユ宮殿の中庭は恐ろしい臭気だったと言うから、17世紀の偉大な王たちの統治下の人々の生活レベルは、アマゾンの原住民の原始生活と大差なかったと言うのだから、恐れ入る。

   コーエンの言いたいのは、ヨーロッパは、このように、不潔であったがために、ペストなどの疫病が蔓延して、人口が減ったために、前述した「マルサスの法則」が作動して、経済成長が起こったと言うことで、
   治世が悪ければ悪い程、人々にとっては良かったと言う、正に、「悪徳の栄え」故の文化文明だと言うことであろう。
   その点、日本は、清潔であったがために、人口減がなくて人口密度が高くなり、江戸時代は、貧しいままだったと言うのである。
   それに、ヨーロッパの近世は、正に、戦争の歴史であったのだが、日本の江戸時代は、太平天国であり、ヨーロッパのように人口が減ることがなかったのであるから、尚更、コーエン説の世界であろう。

   尤も、コーエンのマルサスの法則に従った掟の世界は18世紀までで、それ以降は、マルクスやシュンペーター、そして、ITの時代なので、全く様相は激変する。
   したがって、日本の経済成長は、清潔とは一切関係なく、また、違った法則で経済社会は動くのである。
   しかし、戦争や不清潔な疫病の蔓延などによる人口減が、ヨーロッパ経済の成長のドライブ要因だったと言うのは、非常に面白い。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バーゼル歌劇場「フィガロの結婚」

2013年07月05日 | クラシック音楽・オペラ
   私にとっては、久しぶりのオペラ鑑賞である。
   欧米にいた時は勿論、若い時には、随分、各地のオペラ劇場に通って楽しんできたのだが、最近では、能狂言に入れ込んでいて、クラシック音楽のコンサートに行くことも少なくなった。
   
   やはり、鑑賞した劇場は、ロイヤル・オペラやMET、ウィーン、ミラノなどと言ったオペラハウスが多いのだが、出張や旅の途中で、マドリッド、バルセロナ、プラハ、ブダペストなどと言ったところでも、チャンスを掴んで劇場に行き、スイスなら、チューリッヒ、ジュネーブなどでもオペラを見ており、欧米なら、何処でも、水準の高いオペラを楽しめるのを経験しているので、何処の歌劇場のオペラ公演かと言うことにはあまり拘らずに、演目やオペラそのものを楽しむことにしていた。
   今回も、かなり、安かったので、モーツアルトを楽しむのが目的であった。

   この「フィガロの結婚」だが、硬軟取り混ぜて何回観たであろうか。
   モーツアルトについては、映画「アマデウス」の印象が強烈過ぎるので、あの天国からのサウンドのような美しくて清冽な音楽を、神が羽ペンを握らせて書かせたとしか思えないようなモーツアルトとのマッチングに苦しむのだけれど、ボーマルシェの原作を基にしたとは言え、人間の愚かさと人生の機微を、これ程、コミカルタッチで面白く描いた「フィガロの結婚」の深みと冴えは、見上げたものである。


   このボーマルシェの三部作の第一作は、ロッシーニのオペラになっている「セビリアの理髪師 (Le Barbier de Seville)で、第二作が、このオペラ「フィガロの結婚 (La Folle journee ou Le Mariage de Figaro)で、第三部作は、「罪ある母(L'Autre Tartuffe ou la Mere coupable)で、フランスの作曲家ダリウス・ミヨーがオペラ化していると言う。
   最後の「罪ある女」だが、伯爵夫人ロジーナが不倫してケルビーノの子を、アルマヴィーヴァ伯爵の次男として生み、伯爵も愛人に女子を生ませ、子ども達と財産がからむ陰謀に、フィガロとスザンナ夫婦が関わると言う話になっているようである。

   アルマヴィーヴァ伯爵が、セビリアの町娘ロジーナに恋をして、理髪師のフィガロの助けによって、恋敵を駆逐して結婚にゴールインするのだが、妻にしてしまえば関心を失って、この伯爵は無類の女好きなので他の女性にちょっかいを出し、初夜権を復活して、こともあろうに、フィガロと結婚する伯爵夫人の小間使いスザンナにモーションをかける。この件は、フィガロたちに裏をかかれて失敗するのだが、伯爵に見捨てられて孤閨に泣く伯爵夫人は、恋心を抱き続けて近づく伯爵の小姓・ケルビーノに篭絡して不義の子を産むと言う話にまで展開し、最後は財産争いとか。
   オペラ作家たちが、触手を動かすのも不思議ではないフランス噺である。

   
   さて、この「フィガロの結婚」だが、ロジーナに飽きたアルマヴィーヴァ伯爵が、何やかやと理屈をつけてスザンナに言い寄るので、フィガロたちの陰謀によって夜の庭に誘い出されて、スザンナだと思って口説き始めたのが、入れ替わった伯爵夫人のロジーナだったと言うことで、伯爵が皆に謝って終わりと言うことなのだが、
   面白いのは、借金の証文を形にフィガロと結婚したくてスザンナとの結婚を妨害しようとした女中頭マルチェリーナと、「セビーリャの理髪師」でロジーナとの結婚を狙っていた医師バルトロが、フィガロの実の父母だったと言うどんでん返しである。
   とにかく、モーツアルトのお馴染みの流れるように軽快で美しい音楽にのせて演じられる3時間の肩の凝らないフランス噺であるから、楽しくない筈がないのがこのオペラ。

   ところで、このオペラの舞台は、今流行の舞台を現在に移しての演出なので、全く、違和感はないのだが、初夜権などと言う極めて古い概念をテーマにして、色好みの伯爵の小間使い口説き騒動をメインに展開した舞台であるから、かなりきわどいエロチックなシーンもあったが、やはり、一寸現代的過ぎて味気ない感じがしてしっくりと行かなかった。
   モーツアルトなどは、特にヨーロッパの近世を舞台にした貴族色の強いオペラであるから、非日常を感じながら優雅な雰囲気を楽しみたいと思って、聴きに来るよりも観に来るお客にとっては、期待外れであろう。
   私など、例えば、ニューヨークのマフィアを描いたリゴレットや、背広を来たドン・ジョバンニなどを観てはいるのだが、何故、演出を現在に移さなければならないのか、その意図にいつも疑問を持っているし、やはり、アマデウスの映画のようなシーンをバックにしたモーツアルトの方が良いと思っている。

   さて、指揮者のジュリアーノ・ベッタGiuliano Bettaは、プッチーニ音楽院、ヴェルディ音楽院、スカラ座養成所で学んだと言う生粋のイタリア仕込みの若手指揮者であるから、冒頭から、浮き立つような軽快なモーツアルトで、舞台の歌手と対話しながらのようなスタイルでタクトを振っていて、流れるようなシーン展開が実に爽やかで良い。
   フィガロのエフゲニー・アレクシエフ/バリトンEvgueniy Alexievは、ソフィア国立高等音楽院で学んだブルガリア人歌手で、一緒に居たイタリア人が、イタリア語が一寸と首をかしげていたのだが、私には、実にフィガロのキャラクターを上手く掴んで雰囲気を出していて声もパンチが効いていて良かったし満足であった。
   両方歌っていて、フィガロと伯爵とどちらが難しいかと聞かれて、
   ”フィガロです。伯爵には三つの性格しかないのです。絶望か、嫉妬か、不安です。それに比べて、フィガロはスザンナに色々働きかけたり、その場その場の雰囲気をどんどん変えていかなければならない。陽気に舞台に出てきて、呑気なキャラクターに見えますが、ものすごく考え抜かれた人物なんです。”と答えていたが、よく分かる。
   そのアルマヴィーヴァ伯爵を歌ったのが、アメリカ人のクリストファー・ボルダック/バリトンChristopher Bolducで、実に端正なイケメンで、歌も上手いが、陽気さよりも、アメリカ人ながら、口説くよりも袖にされて突っつき回される方の姿が印象に残っている。

   さて、女優陣だが、スザンナのマヤ・ボーグ/ソプラノMaya Boogは、生粋の本国スイス人で、コミカルタッチで、歌もそうだが、実に、テンポが流れるようにリズミカルで軽快な感じがして、多少不器用なフィガロとの相性が良くて、多少、私のスザンナ像とは違うのだが、楽しませて貰った。
   伯爵夫人のカルメラ・レミージョ/ソプラノCarmela Remigio(口絵写真。ホームページから借用)は、イタリア人で、他の歌手よりはキャリアもあるようで、”2011年のヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場での伯爵夫人はイタリアでテレビ放映され注目された。昨年はアンコーナ、ボローニャでも同役を歌うなど、世界が認める伯爵夫人の第一人者と言えよう。”と言うことなので、注目して観ていた。
   中々、魅力的な歌手で、伯爵に見捨てられて孤閨を嘆きながら切々と歌う陰影のあるアリアの美しさは流石で、それに、控えめだが、フィガロやスザンナとの掛け合いや、伯爵のいなし方、横恋慕するケルビーノのあしらい等、舞台芸も実に達者であった。
   ケルビーノのフランツィスカ・ゴットヴァルト/メゾ・ソプラノFranziska Gottwaldは、一番、光っていた歌手であったと思っており、とにかく、歌と言い醸し出す雰囲気と言い、ケルビーノそのものと言う感じであった。

   とにかく、上手く言えないが、久しぶりに、モーツアルトのオペラを楽しませて貰って、楽しかった。




   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

T・L・フリードマン&M・マンデルバウム著「かっての超大国アメリカ」

2013年07月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   世界中の希望の星であった超大国アメリカが、惨憺たる状態に陥ってしまっている。
   なぜ、このような状態になってしまったのか。どこで道を間違ってしまったのか。
   そんな深刻な問題意識から現状分析をして、まだまだ、偉大なアメリカには、希望はあると、アメリカ合衆国に、活力を吹き込み、草の根のエネルギーをすべて巧みに制御し、経済成長を煽り、国民の士気を回復し、グローバルリーダーシップ発揮するにはどうすれば良いか、提言したのが、この本である。
   アメリカの良心とも言うべき二人の卓越した知的リーダーの現代アメリカ論であり、警世の書であるから、非常に、密度の高い素晴らしい本である。

   アメリカが、建国以来、歴史上、テクノロジーや社会の基準が変化して、どんな変わり目でも、世界で最も活気のある経済や民主主義を打ち立てて繁栄して来たのは、「アメリカの秘訣(Formula)」があったからである。
   この秘訣とは、国民向けの公共教育の充実、インフラ、移民に門戸を開放、基礎研究・開発への政府の支援、民間経済活動への必要な規制の実効、である。
   この秘訣を絶えずグレードアップすべきであったのだが、グローバリゼーションとIT革命と言う二本の大きな潮流の合流点と言う最も重要な転機であった21世紀の10年紀に、魔の二歳児とも言うべき稚拙極まりない愚行とも言うべき、正に逆行政治によって、財政赤字を増大させ、必須であった教育、インフラ整備、基礎研究や技術学問向上努力に手を抜き、社会をもっと開放して才能のある移民を受け入れようとする門戸をどんどん閉ざして、今日のアメリカの凋落を惹起してしまった。

   ベルリンの壁が崩壊して、共産主義の終焉によって、アメリカは強敵を失ってしまった故に、太平天国に酔いしれて、迫り来る四つの大きな難題――グローバリゼーションにどう適応するか、IT革命にどう順応するか、急増する巨額の財政赤字にどう対処するか、エネルギー消費が増加し気候変動の脅威が高まっている世界をどう運営するか――の重大性に気付かずに、無視、ないし、軽視してきた。
   アメリカのみならず、人類の未来を救うためにも、この難題を、全米一丸となって敢然と立ち向かって対処すべき時に、アメリカの二大政党政治は、深い溝と亀裂によって二極化の極に達してマヒ状態であって、妥協の余地など全くないような状態で、二進も三進も行かなくなってしまっている。
   少なくとも、必死になって、民主・共和両党は、ともにイデオロギーを捨てて、社会保障費、国防費、裁量経費など総ての分野における歳出削減、社会全体の増税、税の抜け穴を塞ぐことを認め、それに加えて、目標のはっきりしたインフラや基礎研究などR&Dへの投資を行わなければならない時、それも、緊急、一切の猶予も許されない時にである。

   ところで、興味深い解決法は、「ショック療法 Shock Therapy」と言う章で、二人が、アメリカの衰退を食い止めるためには、ある種の政治的不安定が必要だとして、政治的ショック療法を提言していることである。
   アメリカの政治体制は、両党とも、強力な特別利益集団に支配され、二大政党は激しく二極化し、思想的な痛みを伴う意義のある歩み寄りなど不可能となっているのだが、
   高度なITが一層急速に広まって来るグローバル化した経済でアメリカが成功するためには、政府が教育とインフラに投資しなければならないと言う民主党の考えは正しいし、
   国の経済発展の原動力は、民間セクターでなければならないし、政府は民間のイノベーションと起業家精神を奨励し、それが可能になるような政策を適応させなければならないと言う共和党の考えは正しいので、
   今のアメリカに必要なのは、敵対する二つの思想の恨みを残す妥協を、クリエイティブな統合に置き換える「ハイブリッド政治」を実現して、「さらなる高み」を目指すべきだと言うのである。

    アメリカの難題に取り組むために求められているのは、右派と左派の政治的範囲で、現状の民主党主流と共和党主流の立場の間にある広い領域のどこかに位置する中道派与党の政策で、正に、この「急進中道」の政治を必要としているのだと言う。
   この実現のために、種々のイデオロギーと構造面での障害を迂回する唯一の方法は、第三党もしくは独立派の大統領候補を擁立することだと言うのである。

   面白いのは、これまでに、第三党の候補が大統領になったことは一度もないし、二大政党政治が定着しているので勝つ見込みなどはサラサラないのだが、選挙に勝てなくても、勝った党の政治目標に影響を与えれば、成功を収めたのも同然であると、
   これまでの三度の例、1912年のセオドア・ルーズベルトのブル・ムース党の運動、1968年のジョージ・ウオレス・アラバマ州知事の運動、1992年のH・ロス・ペローの運動のケースを上げて、彼らが掲げた政策の殆どを勝利した政権が実現したと説明している。
   したがって、この第三党の大統領候補は、当選することはないが、長期的には、アメリカの歴史の方向性に、大統領に当選した人物よりもずっと大きな影響を及ぼすだろうと言うのである。

   著者たちは、正に、機は熟していると確信できると言う。
   二極化したことで、二大政党は国民全体の代表と言う性格を失いつつあり、独立派と言う無党派層の有権者が増えて来ている。
   世論調査で、国民の71%が、両党以外の候補者が大統領選挙に出ることが望ましいと答えている。
   過去三回の選挙で、選挙民がどちらかの方向に激しく揺れる「揺り戻し」選挙現象が起こっている。(余談だが、日本もこれかも知れない。) 
   ティパーティ運動が功を奏しているので、影響力のある独立派の台頭の可能性が出て来ている。
   IT革命のお蔭で、インターネットが、二大政党複占傾向を打ち破るかも知れない。等々であるが、とにかく、アメリカが目覚めなければ、Gゼロ後の世界は、グローバルベースで、混沌が広がって行くだけである。

   フリードマンの「フラット化する世界」や「グリーン革命」などは、グローバルベースの展開だったが、この本は、アメリカの歴史や政治に深く切り込んでいて、非常に興味深い本で、啓発されることが多かった。
   グローバリゼーションとIT革命によって急速に進展する知識社会の転換と職の大転換、教育や基礎研究・テクノロジー政策の重要性、アメリカ政治を極端な二極化に追い詰めた特殊利益団体の暗躍と政治の堕落等々、とにかく、面白くて、久しぶりに骨のある本を読んだ感じである。
   日本の政治家も読むべきかも知れない。
   原書で、読み返そうと思っている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本の沢山ある家の子は教育年限が長い

2013年07月02日 | 学問・文化・芸術
   このタイトルは、T・フリードマンとM・マンデルバウムの「かっての超大国アメリカ」で、「27ヵ国における学問文化と教育の成果」と題する米豪4人の研究者の20年間のデータを引用して語られている要約である。

   もう少し、この部分を詳しく引用すると、次のようになる。
   ”本がたくさんある家の子は、本がない家の子より、3年長く教育を受ける。これは、親の受けた教育、職業、階級とは関係がない。このことは、親にあまり教育がなくても子供が大学教育を受け、親が低スキルであっても子供が知識職業に就くなど、極めて大きな利点になっている。豊かな国でも貧しい国でも同じで、過去も現在も変わりなく、共産主義、資本主義、アパルトヘイトのいずれでも見られる。そして、中国で最も顕著である。
   この研究は、さらに、家に500冊かそれ以上の本がある中国の子供は、本がない家の子供より6・6年長く学校教育を受けると述べている。家に本が20冊あるだけでも、はっきりと分かる差が生じる。”

   この指摘は、一般論としても、分かるような気がするので、恐らく正しいのであろう。
   最近では、電子ブックの登場やインターネットなど別媒体の普及で、日本人の本離れが急で、東京の中心街でも、あっちこっちで、大型書店が閉店に追い込まれているのを見ているので、これが真実だと、別な意味で、教育にとってネガティブ要因となるのではないかと言う心配が起こる。

    私は、4年前に、このブログで「本を読まない日本の大人、特に四国人」と言う記事で、
   ”日経のセミナーで、法政大諏訪康雄教授が、学力低下は子供だけではない・・・として、文化庁の国語に関する世論調査「読書量の地域格差」を示して、日本の大人が、如何に本を読まないかを示した。
   月に一冊も本を読まない大人が、全国平均38%もいて、四国は最悪でダントツに悪く、60%もの人が本とは全く縁がないと言うのである。
   仕事や生活によって本と関わりのある人がかなりいるであろうから、極論すれば、四国の普通の人は、平生は本など全く読まないと言うことであろう。”と書いた。
   本と言うだけで、その質を問うていないので、色々な本があり、その実際の知的文化水準は、かなり低いのではないかと言う思いがして、日本の凋落と考え合わせると、背筋が寒くなって来る。

   同じことを、ジェフリー・サックスが、「世界を救う処方箋」の中で憂えている。
   ”若者の間では、読書を楽しむ習慣が消え、書籍の購入は10年ほど前から急速に減り始め、アメリカ人が読書をしなくなり始めて、基礎的な知識を持たない人が増えてきた。特に気候変動のような政治論争の的になっているような問題について、科学的な事実を知らない人が多すぎる。読書力も急激に落ち込んでいる。
   新たな「情報の時代」と言われる今、実は国家の重大事と言う時に、市民として私たちも危機に直面している時に、国民の間で、基礎知識の崩壊が起こっている。”と言うのである。

   ”アメリカ人の大多数に基礎知識が欠けていると言うことは論証されてる。歴史や公民について殆ど知らず、本を読んだことも博物館に行ったこともない人の、知識から隔絶した考えが急速に一般論として広まると言うのは恥知らずの事態である。
   連邦予算の赤字解消や人間が原因の気候変動への対策に取り組むと言った難題に取り組むべき時に必要不可欠な知識を十分に共有することができなければ、私たちの市民としての資格は完全に崩れ落ち、正しい情報を持たない国民は、プロパガンダによって簡単に動かされ、ワシントンを陰で操る特殊権益団体のずるがしこい策略にあっさりと引っかかる。”
   正に、民主主義とアメリカの美徳の崩壊だと危機意識をつのらせているのである。

   さて、前述のケースでの中国の件だが、これは、戦後成長期の日本がそうであったように、国民全体が勉強意欲に燃えている段階で上昇志向が強いのだが、アメリカも日本も、社会そのものが成熟段階に達すると、苦労をしてまで本を読んで勉強や知識情報を得なくても、と言う気持ちになってしまうのであろう。
   経済面でも文化面でも、先進国の凋落現象であり、新興国の追い上げを受けると言うことである。
   

   知識や情報を得るためには、いくらでも、手段や方法があり、本に拘ることもないと思うのだが、テレビやラジオと言った放送媒体や講演の聴講などよりは、かなり、意志力の強さなど努力を要するので、その分、効果が高いような気がする。
   電子ブックやインターネットは、媒体の違いだけで、活字を読むと言う意味では同じなので、かなり、本を読むのに近い効果があるのであろうが、私の場合には、電子ブックは使っていないので、インターネットだが、やはり、本のように、付箋を貼ったり傍線を引いたり書き込んだりしないので、非常に、刹那的な付き合いのようで、しっくりと行かないような気がしている。

   今日、時事が、MM総研(東京)の調査を基に「電子書籍端末42.4%増=アマゾン上陸で―2012年度」と報じていた。
   同時に、Impress Watchが、「2012年度の電子書籍端末は47万台出荷、コンテンツは270億円規模」と報じており、伸び率は高いが、元々、基数が低いので、紙媒体の低落数を補うと言った性格のものではないが、しかし、本離れに対する新しい傾向なので、将来、どのような展開をするのか、楽しみでもある。
   尤も、同じMM総研のレポートを基に、朝日は、「電子書籍端末、出荷伸び悩む 昨年度47万台」と報じているのが面白い。”MM総研は12年度の出荷台数を93万台と予想していたが、使い道が広いスマホやタブレット端末が普及し、電子書籍専用端末は伸び悩んだ。13年度の出荷も12年度比10・6%増の52万台にとどまる見込みだ。”と言うのである。携帯にやられて、デジカメの売り上げが減退していると言う同じ現象で、専用機器は、総合的なマルチ機器に劣ると言うことであろうか。


   手元に、電子ブック端末一つ持てば、どんな本でも、その端末で瞬時に楽しめると言う利点があるのだろうが、私のような古い読書ファンは、分かっていても、実際に書店に行って、本の顔を見て、手で触れて確かめないと、本に愛着を感じないと言うようなところがあるので、読みさえすれば良いと言うのとは、少し、違うのである。
   いずれにしろ、本に囲まれて生きると言うのは、文明人の証のような気がして生活をしているので、自己満足ではあるが、ハッピーだと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イアン・ブレマー:新興国の政治リスク、ブラジル・トルコは「序章」か

2013年07月01日 | 政治・経済・社会
   このタイトルも口絵写真も、今日のロイターのホームページに掲載されていた記事である。
   新興国のカントリー・リスクについては、先日、私なりの見解を、このブログで書いたところだが、あまりにも、平穏無事であった筈のブラジルやトルコ、インドネシアなどの新興国で、突然、大規模な抗議デモが全国的規模で勃発すると言う新現象が、何を意味するのか、現在、最も著名な国際政治学者イアン・ブレマーの見解であるから、非常に、貴重な発言である。

   記事の冒頭で、ブレマーは、次のように述べている。
   ”ブラジルやトルコといった国での抗議デモは、新たに生まれた中間層や下位中間層の怒りや不満が表面化したものだ。デモ参加者は、経済成長の立役者かつ受益者である消費者でもある。新興市場では、政治的要因は、少なくとも基礎的経済状況と同じぐらい大きなインパクトを市場にもたらす。そのため、この手の抗議デモは一見突如として起こり、経済活動をまひさせかねない。
   ブラジルやトルコでの抗議行動および政府の対応だが、劇的かつ急速な変化を経験している新興国では、政府は市民の変化する要求についていけていない。抗議デモは、経済的影響を伴う大きなうねりとなる可能性が極めて高い。”

   抗議デモの本質は国レベルで広がりを見せ、世界経済全体の傾向でもある「もっと大きな不満」の発露と言えるだろう。
   金融危機を経験した世界市場は、先進国での危機に過敏になったが、これら先進国政府は、広く考えられていたよりはるかに強力な混乱回避能力を備えていて、ほぼ、終息したのだが、現在、これらの不安は新興国に向かいつつある。それは、発展途上国の多くで成長が鈍化するなど、新興市場が逆風にさらされているからだ。と言う。

   過去数十年の間、われわれは新興市場の中間層を国の推進力だと考えてきた。企業が新興市場に投資する理由も、新たに豊かさを手にする消費者にあった。しかし、トルコやブラジルなどでは中間層が、単なる成長だけではなく、説明責任や透明性、社会福祉や生活の質の向上など、欧米的視点からはどれもなじみ深いものを要求し始めている。何に抗議しているかは国によって違うが、底流に共通しているのは、国民の権利強化を求める声であり、変化に対する政府の不十分な対応への不満だ。これは新興国が先進国になる過程と言える。民主主義が強化される前の試練だ。
   彼らは成長の量より質を問い始めた。それなのに、FRBの量的緩和縮小等で発展途上国の多くで成長が鈍化するなど、新興市場が逆風にさらされており、成長の量さえ減ってくるとすれば、抗議デモの舞台は整っていると言える。

   ガバナンスの強化やバランスの取れた効率的な歳出、汚職の減少など、中間層を幸福にするであろう諸々を政治的に実行に移すのは、国民がそれを要求し、その後に外国人投資家が声を挙げるまでは難しい。実際には至難の業であり、骨の折れるプロセスだ。そこに至るまでの道筋も明瞭ではない。
   われわれは新興市場でさらに多くのリスクが発生するのを目の当たりにすると思われる。ブラジルとトルコは始まりにすぎない。これらの国での抗議デモは予測するのが非常に難しい。と言うのである。

   ブレマーは、次のような文章で、本文を締め括っている。
   ”われわれはこれまであまりに長く、新興国を発展への片道切符を手にした経済成長の象徴として考えてきた。だが、新興国は政治的リスク要因でもあるのだ。われわれの新たなグローバル経済は新興国によっても支えられている以上、こうした国が時として不穏になるのにも慣れておいた方がいい。”
   私のブログでも書いたように、BRIC'sやネクスト11やブレイクアウト・ネーションズと聞けば、それだけで、これらの新興国が、一本調子で、経済成長を続けて行き、未来の星のような錯覚を覚えて幻想に酔っていたキライがあるのだが、実は、未成熟故に、簡単な政治的事象でも、大きく揺れ動くあやふやな政治リスク、カントリー・リスクを内包していたのだと言う認識が必要だと言うことである。

   私が学生の頃には、ウォルト・ロストウ(W.W.Rostow)の経済発展理論などが支配的な発展論で、経済的な停滞状態の伝統的社会から、貯蓄率と投資率が急速に高まり経済がテイクオフ(離陸)して、経済が成熟期に入り、高度大量消費 時代に達するとする、長い困難な過程を経て、先進国になるのだと考えられていた。
   ところが、近年では、ICT革命とグローバリゼーションによって、いくら、遅れた発展途上国であっても、条件さえ整えば、一気に、先進国にキャッチアップ出来ると言う時代になってしまった。
   最貧困層が最も多くて深刻なインドが、あらゆる発展過程を飛び越して、一気に、IT先進国として上り詰めたと言う現実が、如実に、このことを物語っており、また、天安門事件時代には考えられなかった経済的後進国の中国が、経済大国日本を、瞬時に凌駕してしまっている。

   しかし、経済的に、いくら急速な発展を遂げて豊かになったとしても、政治経済社会体制が、一挙には、成熟した民主主義なり自由主義社会には成り得ず、広い意味での上部構造の発展成長がついてこないと言うことであろう。
   先に書いたように、旧態依然たるブラジルの封建体制と腐敗政治体制が、そのまま温存されたままで、資源大国故に、世界第6位の経済大国に上り詰め、国民生活水準を一気に引き上げて、多くの中間層市民を生み出したにも拘わらず、政府は、教育・医療など国民の福利厚生・生活向上など、十分に有効な民主化政策を打ち出すことが出来なかった故に、開化した国民が不満を起こして暴発的な抗議デモで、政治的騒乱を引き起こすのは、当然と言えば当然であろう。

   ICT革命とグローバリゼーションによって、すべてが、オープンになる時代であり、国民の民主化と公正自由平等の要求は、野火のように瞬時に世界を駆け巡る時代となった以上、力を持った民衆が大人しく耐える時代ではなくなってしまった。
   BRIC'sは勿論、多くの新興国や非民主主義国で、もっともっと深刻で激しい民衆運動が起こるだろうと考えても、あながち、間違っていないような気がしている。
   これこそ、考えておかなければならない新興国ビジネスのリスク管理である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする