熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

初春の上海・江南紀行(12)上海:新天地にみる現在の中国

2017年02月07日 | 初春の上海・江南紀行
   新天地とは、一寸変わった地名だが、2001年開発された上海の観光スポットである。

   上海ナビによると、
   1920~30年代に建てられたモダンな雰囲気の 「石庫門住宅」 を修復し、旧フランス租界の街並を再現した 「新天地」。過去と現在が融合した華やかな空間は、今や上海のダイニング、ファッション、そしてカルチャーなど多岐に渡るシーンでランドマーク的な存在です。 と言うことで、
   ウィキペディアでは、
   夜のバー街が特に有名になって、上海の観光名所ともなっているので、大変混んでいる。

   上海の繁華街である南京東路・西路に隣接したかなり広い街区を占める独立した新しいアムーズメントエアリアと言った感じで、欧米の繁華街と変わらない雰囲気である。
   この写真の南京西路から一つ街路を入ったポケットのような空間である。
   
   

   私は、10年前にも、ここに来て、小一時間散策したのだが、一番その違いに気づいたのは、この新天地にやって来て楽しんでいる客が、外人観光客から、一般中国人、それも、特に、若い中国人になっていて、完全に、地元の人たちの娯楽歓楽街になっていると言うことである。
   10年前には、中国には、一寸異質な、欧米から店舗やレストランを移して持ってきて、舶来の商品を並べて売っていると言うか、そっくり、欧米の町の一角を移し替えた感じであった。
   したがって、客も大半は、外国からの観光客であって、それほど、繁華でもなかったので、我々のような異国からの客が、ちらほらで、一般の中国の人は、少なかったように思う。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   これまで、かなりの現代および現在の中国の政治経済社会に関する専門書を読んで、このブログでも評論を綴ってきたのだが、今回の上海旅は、実際に現地に行って、例え、片鱗であっても、現実の中国に触れて、中国の生の姿を感じて、中国を知りたいと言うのが目的であった。
   中国の経済統計など、信用できないと言う欧米の専門家もいるが、成長率はともかくとしても、間違いなしに、中国の経済成長なり、経済社会の発展は、掛け値なしに進んでいると言うことである。
   それは、37年前の、途轍もなく貧しくて荒れていた北京の繁華街王府井の情景や、その少し後の上海の実態を見てきたので、痛いほど良く分かる。
   中国経済は、輸出と投資によって支えられており、内需拡大など経済構造の改革を進めなければならないと言われているが、この新天地での若者たちの賑わいや、上海の繁華街での中国人の旺盛な消費意欲と言うか、その風景を見ていても、中国人一般大衆の消費需要は、前とは比べられない程、上昇している。

   先日、ニューヨークとモスクワと上海の都市風景を比較をして、それぞれの国の未来を見越して、既に、勝負がついていると書いたが、実際に、40か国以上を歩いて直にその国の空気を吸って来て、国力などを実感して来ているので、その勘は間違っていないと思っている。
   
   
   
   
   

   一寸、路地に入ると、煉瓦造りの建物にひっそりとオープンしているシックな店があって、興味深い。
   中国の女の子がポーズを取ってくれたので、シャッターを切った。
   
   
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福岡伸一著「光の王国」~フェルメール紀行

2017年02月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   フェルメールについては、何冊か本を持っているのだが、最後まで読んだのは初めてである。
   ANAの機関紙の記事であるから、いわゆる、旅行記とも言うべきフェルメールの美術紀行で、それに、著者の専攻が生物学で理系の観点からフェルメールの絵を観察しているので、面白いと思ったのである。

   光が粒子であることを予言したのは、アインシュタインだが、それより、300年前に、フェルメールの作品の細部には、秩序ある調和として「光のつぶたち」が見える。
   レーウェンフックやスピノザたちが、ともに焦がれた、その光に導かれて旅に出た。と著者は言う。

   「窓辺でリュートを弾く女」を見て、楽器を演奏中の女が窓の外の出来事をふと視線を向けた瞬間をシャッターが切られた。
   動きの時間を止め、その中に次の動きの予感を封じ込めたと言う意味で、これを、”微分”と言う。
   フェルメールの絵の中の光が、あるいは影が、絵としては止まっているにもかかわらず、動いているように見える。フェルメールの絵には、そこに至るまでの時間と、そこから始まる時間への流れが表現されている。時間を止めながら、時間の流れを表現する方法、言うならば、”微分的な要素が含まれる。と言うのである。
   

   私には、”微分”と言う意味が良く分からないのだが、写真を趣味としているので、フェルメールが、非常に微妙な意味深なシーンでシャッターを切って、その瞬間を封印している。と言うことは良く分かる。
   それに、フェルメールは、ほかの大画家のように、神話やキリスト教の世界は勿論、偉大な歴史的イヴェントも壮大な風景も描かずに、極平凡なオランダの市井の中流階級の生活、それも、殆ど女性をテーマにした絵を描き続けているのだが、実に、その背後に内包される物語の豊かさなど、想像を超えた世界が展開されていて、興味深いことは分かる。
   しかし、偉大な絵画は、皆、そう言うものではないであろうか。

   フェルメールの作品で現存しているのは、37作品で、そのうち、ボストンの作品が盗難にあって行方不明なので、たったの36作品である。
   アメリカでは、ニューヨークに8、ワシントンに4、そのほかに3、
   オランダでは、アムステルダムとハーグに8、
   イギリスではロンドンなどに4、
   フランスに2、
   その他、ドイツ、オーストリア などに8、だと思うのだが、
   フェルメールが生活して絵を描き続けたオランダのデルフトには、一作品も残っておらず、世界中に拡散しているのである。

   これまでにも書いたが、私は、オランダに3年間住んでいたので、この地で、熱烈なフェルメール・ファンとなった。
   最初に、アムステルダムに出張した時に、レンブラントの「夜警」を見たくて、アムステルダム国立博物館に行ったのだが、その時に、フェルメールの「牛乳を注ぐ女 」を見て、圧倒されてしまった。
   それ以降、フェルメールを見る毎に、感激している彼の絵の魅力への傾斜は勿論だが、例えば、女の捲り上げたシャツの黄色っぽい辛子色から黄緑へとグラジュエーションの微妙な色彩の豊かさなど、何とも言えない程、美しいし、注がれれている牛乳の微妙な光など、細部まで、感動して見ていた。
   

   その後、すぐに、ハーグに出かけて、「マウリッツハイス美術館」に行って、「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」や「デルフトの眺望」などを見て、また、感激しきりであった。
   幸い、アムステルダムとロンドンでヨーロッパに駐在して、8年間いたので、イギリスやフランス、ドイツ、オーストリアなどの美術館を片っ端から、フェルメール行脚をしたのである。
   アメリカでは、ニューヨークは、このブログの「ニューヨーク紀行」で書いているし、ワシントンにも行っているので、アメリカのフェルメーも殆ど見ている。
   8年前に、東京都美術館で、フェルメール展が開催されて、見ていなかったダブリンのナショナル美術館の「手紙を書く婦人と召使」と個人蔵の「ヴァージル前に座る若い女」を見た。
   何点見たか定かではないが、現存するフェルメールの大半を、この本の著者のフェルメール紀行の舞台で見ているので、その懐かしい思い出を反芻しながら読ませてもらった。

   大切なことは、フェルメールがこれらの作品を描いたデルフトと言う風土と歴史的背景を知って、フェルメールを鑑賞することである。
   私は、3年間、オランダに住んでいたので、オランダの風土は身に染みており、随分、オランダの中を歩いたし、デルフトにもよく行った。
   フェルメールが絵を描いていた小部屋が、何処にありどんな構造かは定かではないが、オランダの気候は、特に冬は、正に、リア王の世界で、太陽が射すことは殆どなく日も短くて、古い家の窓も小さく、フェルメールの描くステンドグラス窓からの光は、非常に弱い筈である。
   それは、レンブラントについても言えると思うのだが、ゴッホやモンドリアンなどのカラフルな絵の世界とは対極にあり、キューケンホフ公園やリセ郊外の球根栽培畑の極彩色のチューリップの乱舞や絨毯とは、全く違う世界であった。
   デルフトに行けば、フェルメールの描いた「デルフトの眺望」と殆ど変わらない風景が今でも随所に残っているのが分かる。
   街中のレストランなどに入って憩えば、古いオランダの家の室内が、暗くて、それ程、オープンで風通しが良く快適ではなかったことが分かって、また、違った感慨を覚える筈である。
   

   もう一つ、フェルメールが、生きていたのは、1632年10月から1675年12月だと言う。
   その頃は、オランダは、東インド会社を設立してアジアに進出するなど、イギリスと制覇を争って、世界に雄飛していた時で、アムステルダムは、世界経済の一大中心であり、世界中の文物が集まっていた筈で、デルフトにいたフェルメールのの絵の中にも、そのグローバル展開の片鱗が垣間見える。
   寒村ホーン港から、木っ端のような船に乗って、オランダ人は、世界に雄飛して、はるか、インドネシアにまで交易の輪を広げた。
   そして、オランダの政治経済社会をリードしたのは、国王でもなく強力な貴族でもなく、成熟して経済力を備えた市民であり、その独特な社会構造が、フェルメールの絵画の土壌を育んできた。
   この本の著者は理系なので、その方面の話がないのだが、政治経済社会など、あるいは、文化的側面から見たフェルメール論が欠落していて、私には、違和感があった。
  
   ニューヨークのメトロポリタン博物館は、写真撮影自由なので、私の撮ったフェルメールを掲載しておく。 
   5点のフェルメールやレンブラントの絵の前で、長く、佇んでいたが、飽きなかった。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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初春の上海・江南紀行(11)上海:外灘と浦東への展望

2017年02月04日 | 初春の上海・江南紀行
   上海を最初に訪れたのは、30年以上も前になるのだが、その時、貧しい中国ながら、真っ先に感じたのは、The Bandと称される外灘の威容であった。
   黄浦江の河岸線に一直線に並んだ古色蒼然とした立派なビル群で、殆ど1920~30年代に建設されたと言うから、戦前の上海が、アジアの中心都市として、如何に、隆盛を誇っていたかを、如実に物語っていて、一種の驚きを覚えたのである。
  この外灘は、元英国の居留地で、ロンドンに居た時、親しかったイギリスの建設会社の社長が、あのビル群を自分たちの会社で建てたんだと語っていたのを思い出した。

   今回は、外灘の海岸線の遊歩道を歩き、夜のナイトクルーズで、運河上から、外灘の夕景を眺めただけなので、実際の現状は分からないが、10年程前に来た時には、この外灘のビルの最上階の高級レストランで会食して、運河越しに、電光に照り映える対岸の裏東の新築高層ビル群の夜景を楽しんだ。
   最近では、南側には、新しい近代的なビルが建っているのだが、古い重厚なビルは、そのまま、内部を改装して保存され、上海市の公共機関や金融機関などが、オフィスを構えているようである。
   私など、丸いドームのある旧香港上海銀行ビル(上海浦東発展銀行)や時計台のある江海関(上海海関)が、一番印象に残っているのだが、夫々、由緒のある建物のようである。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   


   外灘から、黄浦江を隔てて、近代的な高層ビル群のパノラマを展開しているのが、黄浦江と長江河口部に挟まれた浦東地域で、開発以前は川沙県の原野が広がる地であったと言う。
   上海のランドマーク「東方明珠塔(上海テレビタワー)」、それに、世界第2位を誇る上海タワー(632m、121階)上海環球金融中心(492m、100階)、金茂大厦」などの高層ビルが建ち並ぶ威容で、上海の経済発展を象徴するエリアである。
   瓶抜きのような形をしたビル上海環球金融中心(上海ワールド・フィナンシャル・センター)は、森ビルだと言う。
   浦東の開発が始まったのは、1990年代に入ってからなので、私が30年前に来た時には、影も形もなかったはずである。
   しかし、10年前に上海を訪れた時には、金茂大厦ビルが最高峰で、テレビ塔が印象的であったが、実際に、浦東に渡って新市街や新しい開発地を1日中歩いたが、大変な発展ぶりとその威容に感銘を受けた。
   ただ、今回、対岸に、ビル建設のタワークレーンが立っているのは、1棟しか見えなかったので、発展のスピードが、鈍化したのかも知れない。
   
   
   
   
  
   ナイトクルーズは、天候に恵まれて、かなり、クリアに夜景を見ることができて、興味深かった。
   写真を撮るために、3階のデッキに出て、辛抱していたが、東京の気候とよく似ていて、それ程、寒さを感じなかった。
   
   
   
   
   
   
   
   

   さて、ここで考えたいのは、都市景観を見ての経済的な国際比較だが、まず、2年前に訪れたモスクワについて、開発中のモスクワ・シティについて書いた。
   このプロジェクトは、古色蒼然たるこの大都市で、モスクワで見た新都市域開発が行われていた唯一の地区であった。
   1992年モスクワ市政府によって、ロシア及び東欧において最初の大規模商業・業務・住宅・娯楽コンプレックスの建設が目標で、「都市の中に都市を作る」ということで計画されて、現在も進行中だが、ロシア経済の悪化で中断状態である。
   
   一方、ニューヨークだが、ケネディ空港から、車で入れば、一目瞭然だが、都市景観は、正に、20世紀、それも、かなり前の都市景観で、新しいビルが散見できても、既に、過去の街と言う感じがする。
   トランプが声高く唱えているように、アメリカファーストであって、もう、外に脇目を振っている状態ではないことが良く分かる。

   文化文明の発展成長には、特に、経済面においては、勢いと言うもの、進行するベクトルが力強く前に向いているかどうかが、最も重要である。
   上海のこの20~30年くらいの成長発展を見れば、もう、既に、勝負がついているのではなかろうか。

(追記)ウィキペディアから、外灘の風景(1928年)写真を借用する。
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鎌倉便り・・・東慶寺の梅はもうすぐ見頃

2017年02月03日 | 鎌倉・湘南日記
   東慶寺は、山門を抜けると、正面の金仏への一直線の参道の両脇に、梅の古木が植えられていて、その梅を見たくて、出かけて行った。
   門前の白梅は、かなり、開花していたが、境内の梅は、少し早かったようで、まだ、殆ど咲いていなかった。
   それに、ここの境内の梅は、白梅が多い所為か、あまり、目立たないのである。
   入ってすぐ右手に、いつも、迎えてくれる花の植え込みがあるのだが、そこには、今年は、ミニハボタンが植えられていた。
   その背後のボケも、黄梅も咲いていて、地面から、フクジュソウが顔を覗かせていた。
   
   
   
    
   
   
   
   

   鐘楼わきの白梅は、ちらほら咲きだが、古木の風格があって、枝ぶりが面白い。
   湯島の白梅には、及びもつかないが、この古木の先の咲き始めの梅の花を見るのが楽しみであった。
   
   
   
   
   本堂や金仏脇にも、咲き始めた梅があり、春の香りを告げている。 
   
   
   

   境内の奥は、山に向かって墓所となっていて、有名人の墓石が多いのだが、ひっそりとしていて、訪れる人は少ない。
   やや、高みから、谷を隔てて、円覚寺の鐘楼脇の建物が遠望できる。
   下って、白蓮舎前の田圃脇の庭には、ミツマタが植わっているが、開花までには、少し早い。
   
   
   
   

   境内の梅の開花模様を、
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   この境内には、一寸、種類の違った梅が植えられており、ほんの数輪しか咲いていないのもあるのだが、夫々に、趣があって面白い。
   
   
   
   
   
   
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鎌倉便り・・・鶴岡八幡宮神苑ぼたん庭園の冬ぼたん

2017年02月02日 | 鎌倉・湘南日記
   今日も天気が良かったので、北鎌倉の東慶寺に立ち寄って、そのすぐ後、冬ぼたんが見頃だと思って、明月院前からバスに乗って、鶴岡八幡宮に向かった。
   関東に移り住んでからは、ぼたん園と言えば、上野の東照宮か、この鶴岡八幡宮しか、行ったことがないのだが、関西の長谷寺や石光寺とは、また、違った雰囲気と趣があって、訪れては、楽しませてもらっている。
   開苑は、2月中旬くらいまでのようだが、萎れた花もなく、殆ど開花していたので、今が、一番見頃なのかもしれない。
   

   ここのぼたん庭園は、大きな方の源平池の南側池畔に沿って伸びた細長い庭園で、真ん中に遊歩道が通っていて、その左右にぼたんが植えられている。
   池と反対側の南面は、道路沿いに築地塀が設けられて、道路と民家から遮断されて、やや、築山風に高くなっていて、北側の池畔へ傾斜している。
   広々と広がる源平池が、ぼたん苑と調和して、素晴らしい借景を形成していて、その伸びやかな展望が何とも言えない。
   今日のように陽気が良くて寒さを感じないような日には、ぼたんを眺めながら、池畔に据えられた赤毛氈の床几にかけて、しばらく涼風を楽しんでいると、実に、楽しい。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   先日から、上海江南旅紀行を綴っており、太湖を訪れた話や、中国庭園では、特異な形をした太湖石が珍重されていて、どんな中国の名園でも、太湖石の石組の庭のない所はないと言うことに触れてきたが、その太湖石をメインに据えた「太湖の庭」が、このぼたん苑にある。
   この太湖石は、石灰石で出来ていて、長い間に太湖の水に浸食されて表面に多くの穴が開いて複雑な形となった石である。
   今では、この太湖石の中国からの持ち出しは一切禁止されているようだが、以前に、在日中国大使の好意で、ぼたん苑に寄贈されて、専門家が来て設営されたと言う。
   ぼたんと太湖石と言う、まさに、中国好みのマッチングだが、狭い空間だし、本格的な中国庭園を意図したわけでもないので、多少、取ってつけたような雰囲気なのは、仕方がないであろう。
   先月、江南で、中国庭園を見てきたところなので、前に置かれた床几に座って、小休止させてもらった。
   参考に、先日ブログで書いた上海の豫園の太湖石の写真を掲載しておく。
   
   
   

   この庭には、2か所、一寸した日本庭園があって、眺めるだけだが、ほっとする空間である。
   
   
   
   
   

   さて、ぼたんの花だが、ここのぼたん庭園のぼたんは、かなり、種類が限定されていているようで、同じ種類の花が多い感じで、私の好きな黄色いぼたんは、一株も見つからなかった。
   ぼたんの種類の名前を憶えても、すぐに忘れてしまうので、とにかく、美しいぼたんを鑑賞できれば、それで、十分満足であった。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   私の場合、華麗なぼたんの花も好きだが、その花弁の中の雄蕊か雌蕊か良く分からないのだが、蕊の神秘さに魅かれることがあるので、時々、花を接写することにしている。
   
   
   
   
   
   
   

   
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鎌倉便り・・・荏柄天神社の梅花

2017年02月01日 | 鎌倉・湘南日記
   わが庭の白梅が咲き始めれば、当然、鎌倉の古社時の梅は、見頃のはず。
   梅と言えば、天神さんであるから、鎌倉では、荏柄天神社である。
   午後、やや遅く、鎌倉山からバスに乗って鎌倉駅まで出て、そこから、大塔宮、鎌倉神宮行のバスに乗り換えて、天神社へ向かった。
   
   昨秋、大イチョウを見に来たので、久しぶりだが、丁度、受験のシーズンなので、境内に、合格祈願の祈祷やお祓いや絵馬のための仮テントが設営されていて、拝殿では、神主さんが、学生にお祓いを行っている。
   私など、若い頃から、そのあたりの信仰心とは無縁なので、梅の写真を撮っているだけなのだが、拝殿の壁面に掛けられた沢山の絵馬を見れば、若者たちの熱心さが良く分かる。
   おばあちゃんなのだろうか、孫の合格祈願のためなのであろうが、境内の床几にバックを置いて、小休止しては、何回も何回も拝殿の前に往復して、拝み続けている。
   お百度を踏むと言う心境なのであろうか。
   
   
   
   
   

   さて、肝心の天神さんの梅だが、何日か早い感じで、満開と言うか、見頃には、まだ少し時間がかかるようで、綺麗に咲くのは、この週末から来週初めにかけてであろうか。
   しかし、桜とは違って、梅の満開と言っても、桜ほど、派手に華麗に咲き乱れるわけではないので、丁度、中国人が、13夜を愛でるように、梅は、咲き初めのころが、鑑賞には良いのかも知れない。
   寒い冬にエネルギーを貯めていたのを、開花の瞬間に一気に噴出させて咲くと言うことで、一番花が、一番美しいと言う。
   私の場合には、どちらかと言えば、花木など全体の花を写すことは殆どなくて、花に近づいてクローズアップした花姿を追うことが多いので、咲き切らない時の方が良いのかも知れない。
   梅の場合、五弁が完全に絵のように揃って整った花弁を探すことは非常に難しくて、それに、花の向く方向や光具合など考えれば、大変苦労する。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   この神社は、朱塗りの柱や構造物と白壁が鮮やかで、白梅や紅梅とのコントラストが、結構美しくて絵になる。
   
   
   
   
   
   

   高台にある筆塚に並んで、綺麗なピンクの枝垂れ梅の紅梅があり、その背後に回って筆塚や社殿を眺めると、結構、面白い。
   左側の絵馬がぶら下がっている建物が拝殿で、右の建物が国宝の本殿である。
   
   
   
   
   
  
   この神社の扉などには、梅の花をあしらった五弁を切り抜いたデザインが施されていて、中々、モダンで良い。
   
   
   

   
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