熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・ミンミンゼミ鳴く

2020年08月08日 | わが庭の歳時記
   激しく鳴いていたアブラゼミが消えて、ミンミンゼミが鳴き始めた。
   「ミーン・ミンミンミンミンミーン」とリズム感よろしく鳴くのだが、この蝉は、暑さに弱いと言われていて、大阪に居た時には、殆ど聞いた記憶はない。
   梅雨が空けて、急に暑くなったと思ったら、もう、秋の気配である。
   このミンミンゼミの鳴き声を聞いてから、これに続いて「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ」と鳴くツクツクボウシの鳴き声を聞くと、いくら厳しい残暑でも、すぐに終って秋の気配が一気に濃くなり始めるのを知っているのでホッとする。
   ほんの少し前まで囀っていたと思っていたウグイスの鳴き声も消えてしまっているのに気がついた。
   台風が発生し始めているのだが、先の19号で、サルスベリの木が根元から折れてしまったので、今年から咲かなくなってしまって寂しい。
   
   
      

   このミンミンゼミが止まっているのは、ヤマボウシの枝で、茂っていて、わが庭に大きく緑陰を創ってくれている。
   ヤマボウシは、サクランボくらいの大きさの一寸形の変った柔らかな実をつけており、食べられるようだが、庭に落ちた実が、コロコロと面白い。
   枝の間から、カノコユリが顔を覗かせている。
   
   
   

   わが庭には、花壇がなくて草花を植えていないので、夏庭は、実に寂びしいのだが、今年は、まだ、トマトが色づいており、まずまずの出来である。
   下の方は、殆ど実がなくなって、上段くらいしか残っていないのだが、摘心しても、まだ、その上から芽が出て伸び続けて花を咲かせているので、どうせ、一気に暑くなってダメになるので、当分そのままにしておこうと思っている。
   
   
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ギボンの歴史家の誕生と読書

2020年08月07日 | 生活随想・趣味
   ロイ・ポーターの「ギボン 歴史を創る」を読んでいて、第二章の「歴史家の誕生」で、冒頭、非常に若い頃から、歴史家たらんと大志を抱いていたと、子供の頃早くから、過去や異国の物語やロマンスに心を奪われていた。と書いているのに興味を感じた。
   孤独で、ほったらかしにされ、病気がちであった少年には、書物の中に冒険と慰めを発見し、「アラビアン・ナイト」を愛読し、東方の神秘に夢中になって、「アッシリアとエジプトの王朝が私のコマであり、私のクリケットのボールであった。」と言っている。
   母が、9歳の時に亡くなり、未婚のキティ叔母に預けられ、その父がジェントルマンとして相当の蔵書を残していたので、叔母と、東方の歴史や聖書に関する書物ばかりではなく、「オデュッセイア」など、早くから、ギリシャ・ローマの古典に親しみ多くの書物を読んだ。
   書物を愛することを教えられ、早くから徹底的な読書欲を身につけ、知識の基本を初めて学び、理性を最初に行使したのも、この叔母の指導の御陰であり、たとえ、インド全土の財宝をくれると言われても、この読書欲を手放すことはしない。と言う。

   興味深いのは、ギボン少年の正規の教育は、病気のために、グラマ――・スクールを変ったり定期的な出席が不可能で、乱雑極まりなく、ラテン語やラテン文学に関する標準的な訓練する機会を逸した。
   しかし、この居室や寝室への拘束が、学校の課業や同輩との交際から解放されて、手当たり次第にあらゆる書物をむさぼり読んで、この病気を内心密かの喜んで、この不幸が結果的には恵みとなった。と言うのである。
   その後のギボンの読書遍歴は、推して知るべきだが、とにかく、膨大な多岐に亘る書物との邂逅、挑戦が、「ローマ帝国衰亡史」のドライブ要因となったのであろうことは間違いなかろう。

   私など、ギボンなどと比べるべくもないのだが、子供の頃から、何故か、本が好きで、小遣いが入れば、真っ先に行くのが近くの本屋で、その読書好きが続いていて、今でも、月に10冊程度の書物を買い続けている。
   小学生の頃、胃腸が弱くて、梅田の手前中津の済生会病院に定期的に通っていたのだが、帰りには、必ず阪急百貨店の書店に立ち寄って、長い間、そこで、時間を過ごして、宝塚の田舎の小学校に帰って行った。
   勿論、しばしば、本を買えるわけがなかったのだが、次にどの本を買おうか、そんなことを考えながら、新しい本に出会うのが楽しみであった。

   今でも、時間があれば、出かけるところは、書店ばかり。
   幸いなことに、眼鏡は必要だが、目には問題がないので、何時間でも本が読めるので、助かっている。
   沢山の本を読んで、世界中の文化文明、歴史や芸術に憧れて、一歩一歩大地を踏みしめながら歩いてきた、
   ある意味では、大切なところで人生を棒に振ったと思うことがあるのだが、子供の頃に描いた夢の世界、
   アテネのパルテノン、インカのマチュピチュ、ダ・ヴィンチやミケランジェロやラファエロのルネサンスの文化遺産、スカラ座やウィーン国立歌劇場やMETのオペラetc.
   夢ではなく、書物ではなく、この目で耳で実感してきた。
   歳の所為であろうか、子供の頃に書物を通して叩き込まれた憧れを懐かしく反芻しながら、生きる喜びを噛みしめている。
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古典芸能・クラシックetc.チケット取得諦める

2020年08月05日 | 生活随想・趣味
   国立能楽堂の公演も、都響の公演も、7月から始まっているようだし、歌舞伎座の公演も初日を迎えた。
   チケット販売の案内が来ていて、能楽協会主催の「能楽公演2020」新型コロナウイルス終焉祈願だけは、宗家や人間国宝などトップ能楽師の出演する翁や安宅や道成寺と言った豪華な舞台なので、チケットを取得したが、結局、新型コロナウイルス騒ぎのとばっちりで、行くのを諦めざるを得なかった。
   行けないわけではないのだが、三世帯同居で、幼い幼児が居るし、それに、傘寿の身で高血圧症を抱えておれば、どんどん、コロナ感染者が増加の一途を辿っている今日この頃では、鎌倉からバス電車で東京に行くなど、家族の同意が得られないし、仕方がないのである。

   もう一つ、変ったのは、当分、チケットの取得を諦めることにしたのである。
   都響のチケットは、シーズンメンバーチケットなので、11月の予約を更新すれば良いので、それまで待つことにする。
   ところで、会員となってチケットを取得しているのは、歌舞伎会で、松竹関係のチケット、
   そして、あぜくら会で、国立劇場関係の能狂言、文楽、歌舞伎、落語、
   こんなところだが、毎月、月初めから、翌月の公演のチケットが販売される。
   当然、インターネットでの予約なのだが、5日とか8日とか10日とか、発売日の朝10時には、パソコンの前で待機して、一斉にキーボードを叩く。
   希望の日に、出来るだけ良い席を取ろうと思えば、寸秒を争う勝負となる。

   ところが、幸か不幸か、来月の東京での公演には、行けないし行かないことにしているので、今月は、一切、チケット取得のために、パソコンを叩く必要がない。
   こうなると、毎月あくせくして、パソコンを叩いてチケット争奪戦に明け暮れていたのが嘘のようで、今月は、実に心穏やかなのである。
   これが、いつまで続くか分からないのだが、行けなくても、この数ヶ月、劇場通いが途切れていると、それ程、気にもならなくなってきているのが不思議である。

   よく考えてみれば、欧米に10年以上居て、オペラやクラシック音楽、シェイクスピア戯曲など、最高峰の舞台を随分鑑賞してきており、観るべきものは観たと言う心境で帰ってきて、そこで、思い出を封印したのであるから、今回も、その心境で諦めれば良いのだと思っている。
   それに、いずれ、新型コロナウイルス騒ぎが治まるので、その時を待てば良いのである。

   何十枚、いや、百枚以上はあるDVDで、実演以上の質の高い演奏や舞台を、鑑賞するのも一興かと思っている。
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林真理子著「六条御息所 源氏がたり 三、空の章」

2020年08月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   林真理子が、源氏物語を、六条御息所に成り代わって源氏がたりをする最終章「 三、空の章」
   この第3巻に収容されているのは、全54帖のうち、第22帖玉鬘から第41帖雲隠まで、夕顔の娘玉鬘と黒髭の話から、紫の上、源氏の死までで、宇治10帖は含まれていない。
   主人公光源氏の生涯の物語として完結しているのである。
   3年前に、前2巻は、ブックレビューしており、偶々、今回、読みそびれていた最終巻を読んでみたのである。

   六畳御息所の源氏語りであるから、源氏物語とは、帖のタイトルを継承せず、「夕顔」「女三の宮」「柏木」「宿命」「落日「終焉」と章分けされており、35歳から52歳までの老いらくの源氏の晩年で、色恋にも陰りが見えてくる」。
   源氏物語では、薄幸の夕顔の人気が高いのだが、その娘である玉鬘には、林真理子も相当の紙幅を割いて語っており、娘として引き取って2年間も密着して迫りながら果たせず、入内前の隙を狙って黒髭に掠われてしまう源氏の無念さを活写していて面白い。

   次の転機は、病弱になって死期を意識し始めた朱雀帝が、最も愛して慈しんでいた三の宮を、切羽詰まって源氏に託そうと決心して、頼み込む。
   死の床で頼まれれば、引き受けざるを得ないだろうと、あの方は密やかに歓喜の中で決意を致しました、と言う林真理子の筆の冴え。
   三の宮の美貌は評判で、藤壺の中宮の姪で朱雀帝の息女であり、紫の上より若くて、既に、源氏の食指は動いていたのだが、この歳で新しい女人は欲しくないのだが、僧形の朱雀帝に必死に託されれば、もうこれは不可抗力、紫の上に格好の口実ができたと言う心境、困惑が、次第に期待とときめきに変って行く。

   ところが、六条院に輿入れした三の宮は、皇女らしき気品高い小さな顔で、髪の長さと豊かさはまずまずとして、驚くのはあまりの細さで、戯れに体に触れることさえできそうになく、何もせずに、まんじりともせず夜を明かした。今日ほど悲しげな様子で、衣装に香を焚いて送り出してくれた紫の上を思って涙した。と言う。
   源氏は、長い間、何でもなかったと紫の上に匂わせながら、あの幼くてつまらない女性に比べて、何と優雅で慈悲に満ちて温かいのか、紫の上への思いで胸がはち切れそうになるのだが、紫の上にそっと手を外されてしまう。
   紫の上は、自分にはかけている高貴さ、皇女と言う身分の新妻であり、今までは嫉妬だったが、今度は違う、小さな棘は大きく育って、不信故に深い絶望の地獄に落ちてしまった、と、嫉妬のあまりの大きさに、成仏もできずに冥府を彷徨っている六条御息所に語らせている。

   和製ピグマリオンよろしく、幼い頃からぴったり添い寝して、慈しみながらひとつひとつ人の道を教えて、教養に溢れ、たしなみ深い魅力的な女性に育て上げた紫の上に比べて、如何に、三の宮が、可愛がりすぎて幼いのか、
   兄朱雀院の不完成品ながら、源氏は決して気に入っていないわけではない。と言う白けた描写が面白い。
   御帳台の中で、青白い、人形のような細い体を開いていくとき、実に意地の悪い快楽に浸っていた、兄の一番大切にしていたものを、こんな風になぶって行くとき、やはり暗い喜びに浸っていたのだ、と御息所に語らせているのである。
   朱雀帝に対して、妃に上がる予定であった朧月夜に手をつけて傷物にして、その咎で須磨に流された復讐心もあったのかも知れないが、老醜の嫌みが滲んでいて見苦しい自虐的心境である。

   さて、宿命と言うべきであろう、
   紫の上が病状に伏していたので二条院に見舞って留守の最中に、この三の宮を、頭中将の長男柏木に寝取られて、子供まで儲けられる。
   柏木から三の宮に与えられた文で事の次第が露見するのだが、源氏には、計算が合わないので薄々分かっていたこと、しかし、徹底的に柏木をいじめ抜き病死させる。
   しかし、因果応報、ドンファンの限りを尽くして女漁りをしてきた光源氏にとって、メガトン級の「盗み」は、父帝桐壺帝の寵妃藤壺の宮と密かに通じて、不義の子までなしたこと。
   冷泉帝となったその子が、父源氏の不実を知って、子を残さなかったのであろうと、妃に上がったわが娘秋好中宮に子が授からなかったことを、六条御息所が嘆いているのが興味深い。

   女君の近くにいる女房さえ手なずければ、どんな高貴な奥深い寝所でも忍び込める、相手がどんなに怯えて泣こうとも、懇願をしようとも、強引にことを終えればそれで済むと、知りすぎるほど知っていた光源氏、
   寂聴さんが、源氏物語は、殆ど強姦だと語っていたが、ダンテやゲーテのような至高の愛など皆無に皆無、
   准太上天皇にまで上り詰めた自分の妻を寝取られるという最高の屈辱、人生の黄昏を痛撃したダメ押しとも言うべきアッパーカット、 
   しかし、源氏にはそれさえも身に染みていなかったようで、髪を下ろしたものの魅力的になってきた三の宮に興味を示して迫ろうとし、
   紫の上が、願いに願っても最期まで出家を許さず逝かせてしまったのは、髪を下ろした女性を抱くことができないのがこの世の習いだからだと、御息所に言わせている。
   余談だが、流石の源氏も、三の宮と柏木の一件は、子供の夕霧が柏木の述懐で察知しただけで、紫の上にも誰にも言えなかったし、紫の上も知らずに逝ったと言うのが興味深い。

   最後まで来ると、紫式部は、容赦なく光源氏の人間を暴いており、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」よりも俗っぽく凄まじいのが面白い。
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Go to トラベル・キャンペーン便乗を諦める

2020年08月03日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   先日、孫の20歳の誕生日を祝うために、家族で箱根に行くことになって、Go to トラベルキャンペーンに便乗するような形で、箱根の老舗高級ホテルに予約を入れた旨書いた。
   27日に、旅行会社のネット予約で、Go to トラベル割引分を控除した金額で予約できることになったので、既に、23日に予約を入れていたのを、予約替えをしようと試みた。
   JTBのGo to トラベルをクリックして、(インターネット予約)のページを開くと、  
   Step1. 行き先のエリアを選択する
   Step2. 人数を選択する(子供の人数も含む)
   Step3. クーポンコード・パスワードをメモして対象の商品を探す
   と表示されていて、場所、宿泊日、泊数、客の内訳等を記入して、希望のホテルや条件を引き出して、クーポンコードやパスワードを打ち込むと予約ができるようである。

   できるようであるというのは、Step2の人数のところで、5名で頭打ちで、そこまでしかクーポンがなくて、それ以上は、分割して予約を入れろというのである。
   我々は、7名だったので、この5名という条件には合わず、1室で予約しているので、条件が違ってくるし、部屋を分割されては困る。
   何故、こんなところで上限を設けるのか分からないのだが、ホテルと相談してくれと言われたので、このシステムでの予約を諦めて、ホテルのチェックアウト時に書類を作成して貰って、事後申請することにした。
   お盆の帰省は止めろと言いながら、Go to トラベルは大いにやれという二枚舌、Go to トラベルキャンペーンが、揺れに揺れているようだが、政府の手探りのキャンペーンの危うさが見え隠れしていて寂しい。

   ところで、その後、新型コロナウイルスの感染状況がどんどん悪化して、第2次感染の様相を呈してきた。
   経済活動を優先した政府は、規制に消極的だが、医療関係の専門家や一般の危機意識は、益々、テンションアップしていて、これまで以上に悪化してきている。

   結局、こんな非常事態に、動こうとするのは、誰が考えても賢い選択ではなく、良識的な判断とは思えないので、成人祝賀旅行は、時を待つことにして延期して、鎌倉の自宅で、バーベキューパーティを兼ねた祝賀会に変更することに決めた。
   すぐに、JTBにキャンセルを入れた。取り消し料の発生する5日前なのでキャンセル料はゼロで助かった。
   以前のように楽天トラベルに予約をしておれば、全く同じ条件の予約でありながら、予約日前の14日を過ぎると50%は勿論、7日前の100%のキャンセル料を取られていたので、ダブルチェックで気づいて、予約替えしたので助かったのでホッとしている。

   いずれにしろ、これまで、あっちこっちを、自由気ままに歩いてきたので、今日のように、規制規制で、雁字搦めの旅は、苦痛の極みであり、窒息するような思いである。
   今、NHK BS1の国際ニュースで、ザルツブルク音楽祭が開催されたと報じていたが、懐かしくなって、いつでも飛んでいきたいような思いだが、そんな時期が、すぐに戻って来るのであろうか。
   今回の新型コロナウイルスによるパンデミックが、世界の文化文明を痛撃した悲劇は途轍もなく大きくて、長く尾を引くような気がしている。
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アヤソフィアのコンスタンチノープル

2020年08月01日 | 学問・文化・芸術
   ローマ帝国だが、395年に東西に分裂し、486年に西ローマ帝国は消滅したが、その後、1000年の命脈を保っていた東ローマ帝国も、首都コンスタンティノープルが、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって陥落して、権勢を誇ったローマ帝国が歴史から消えていった。
   この時、イスラム化と共に、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにおけるキリスト教正教会の大聖堂として建設され、帝国第一の格式を誇る教会であったハギアソフィアが、アヤソフィアとして、モスクに改装されて、500年後、新生トルコの時に、博物館となった。
   その間に、漆喰などで塗り固められて消えていた往時のキリスト像などのモザイク画が現れて今日に至っている。
   ところが、最近、エルドアン大統領が、アヤソフィアを博物館からイスラム教の礼拝所であるモスクに変更して、86年ぶりとなる金曜日の集団礼拝が行われたのである。

   さて、今回は、このアヤソフィアを問題にするのではなく、東ローマ帝国の帝都であって、後のオスマントルコの首都でもあったコンスタンチノープル、今日のイスタンブールが果たした東西文化文明の十字路であった貴重な存在が、イタリアルネサンスに大きな影響を与えていることについて、考えてみたいのである。

   まず、「芸術都市の創造」の中で、樺山紘一教授が、「芸術都市の背景にあったもの」の中で、ルネサンスに大きく貢献したフィレンツェのメディチ家の役割について語っている。
   15世紀から16世紀にかけてメディチ家は、自らの膨大な財力と芸術的な霊感によって、多くの芸術家を支援して、建造物、絵画、彫刻、工芸品その他に至るまで、素晴らしい芸術作品を作り上げた。

   重要なことは、1440年から1450年代にかけて、メディチ家は、当時、フィレンツェやトスカナ地方などイタリア全土に流入していた、ヨーロッパ各地の修道院や大学で長く制作されてきた数多くの書物(写本)の収拾に当たり、それ以外に、コンスタンチノープルからイタリアに流入してきた多数のギリシャ語やヘブライ語の古典にかかわる写本も多く含まれていたと言う指摘である。
   丁度、オスマントルコの侵入によってビザンチン帝国(東ローマ帝国)が崩壊した時期でもあり、そこの長らく蓄積されてきた写本が数多くイタリアへ流入してきたのである。
   それらの写本を、メディチ家の当主は、邸宅や別荘、菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂二階のラウンツィーナ図書館などに蓄積して、学者たちの活動の場として公開し、これらの書物を読み解く作業を行った。
   この時に、ギリシャ語からラテン語に翻訳された古代ギリシャのプラトン哲学が、新プラトン主義として、ミケランジェロのサン・ロレンツォ聖堂の作品に影響を与えるなど、大いに知的武装に作用するなど、多くの学者を糾合して取り組んだ写本の蓄積とその研究が、イタリアルネサンスの極めて大きな推進力になった。と言うことである。

   また、樺山教授は、別な講演会で、 当時のイタリアの学問体系が、イスラムに極めて近かったのは、東ローマ帝国のギリシャの学者たちが、最先端を行くイスラム科学や文学等学問や芸術の翻訳文献を持ち込むなどして、大きく影響を与えたと述べており、
   スペインの古文献学者アシン・バラシオスが、ダンテを研究し、「神曲」は、イスラムから霊感を得たと解釈していると言う学説を紹介して、永遠の女性と人間の聖化、地獄と煉獄の宇宙など、イスラムと共通だと述べている。
   その時に、同席していた田中英道教授が、ダ・ヴィンチの母親はイスラム人で、ダ・ヴィンチの指紋はイスラム人のものであることが分かったと付け加えた。
   いずれにしろ、コンスタンチノープルを支配したイスラム文化文明は、当時最高峰の水準であり、さらに、ギリシャ文化文明をそっくり継承したような形であったから、ルネサンス時代に、このコンスタンチノープルが伝播招来した文化遺産が、フィレンツェなど新興のイタリア文明に与えた影響には計り知れないものがあったのである。

   私は、初めてイスタンブールを訪れたとき、アヤソフィアやトプカプ宮殿など歴史遺産を精力的に歩いたが、一番印象に残っているのは、ヨーロッパ側のホテルの大きく開いた窓から、対岸のアジア側のウスクダラの夜景を眺めながら、真っ暗に横たうボスポラス海峡の水面に揺れる月光の美しさを実感し、東西をつなぐ歴史的な文明の十字路に立っているのだという言い知れぬ感動であった。
   次の機会に、ボスポラス海峡のルメリ・ヒサル要塞巡りで、対岸のアナドル・ヒサルで、初めてアジア側に接近したのだが、この時ほど、東西交流の歴史の重さを感じたことはなかった。
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