何回か前に「地獄の釜は三度蓋を開いた」というのを書いたがお読みいただけたであろうか。その後寄り道をしてさぼっていたよう見えるかもしれない。だが、三島由紀夫のことにしても皇位継承のことにしても、いずれも大正の問題に収斂していく。いささか強引ではないかとおっしゃいますか。そこは腕力(筆力?)にものをいわせるわけだ。
さて、三島由紀夫は大正14年の生まれだったと思う。二二六事件の将校は勿論大正生まれだ。思想的な首謀者として処刑された北一輝は大正時代から華々しく活躍した人物だ。北については大正9年だったか、宮中某重大事件というのがあって、しきりに暗躍したことがある。皇位継承問題に『右翼』が積極的に口出しをした事件でもある。これは現在「有識者会議」なる正体不明の審議会の結論が巻き起こしている論争の大正版ともいえる。もっとも、時勢が移っているから、当時ほど迫力が出るかどうかは不明である。
そこで、西郷どんにも出てきてもらわないといけない。西郷隆盛も霊パワーの強いおひとで、いまでもそのタタリが強い。いや、ごめんなさい。影響力がつよく残っている。あるいはミーハー的に言えば人気がある。そこで安政5年にさかのぼる。島津藩主である斉彬が急死した。食中毒らしいが、彼の忠犬である西郷隆盛は前藩主島津斉興の側室おゆらの方の陰謀で毒殺されたと信じ込む。三島由紀夫にしてもそうだが、西郷隆盛というのは思い込みの激しい男である。こうと信じたらテコでも動かない。そして、そこが熱狂的な崇拝者を集める理由なのであろう。斉彬暗殺説は明治維新後も西郷の崇拝者に引き継がれる。
さて、斉彬の死後、斉興の側室おゆらの子である久光が藩主となる。隆盛は久光を憎むこと甚だしいものがあった。この間を取り持って久光と隆盛の間を調整したのが、薩摩藩只一人の革新家老であった小松帯刀であり、平藩士では大久保一蔵(利通)である。かくして琉球密貿易で膨大な資金を蓄えた財力を背景に明治維新の推進役に薩摩藩が躍り出たのである。
以下の号で縷説することになろうが、西郷の怨念のキーワードは毒殺であり、『嫡出』である。もっとも排斥するのは『庶出』である。これが大正時代に右翼台頭の足がかりとなる。