東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

またぞろ靖国問題4

2007-05-10 17:06:24 | 社会・経済

現在の厚生省の組織図を見ると、復員事務を扱う独立の部署はないようだ。戦後61年復員事務もなくなったのかもしれない。扱うとすれば社会援護局あたりか。

靖国神社への合祀資格者の名簿を提出していたのは厚生省の復員局であったらしい。その前身は第一復員省(陸軍)と第二復員省(海軍)であろう。もっとも終戦直後の大混乱と膨大な復員事務で靖国神社への合祀リストを作っている暇はなかったであろう。さて問題のA級戦犯の合祀リストを作成したのはその厚生省の復員局の事務方であったという。すべて旧軍人(軍事官僚)であったということだ。

官僚の「仲間てんこ盛り」は現在の行政改革をめぐる喧嘩を見ても明瞭である。合理的な事務処理などは期待できない。WIKIPEDIAの「松平永芳」によると、A級戦犯合祀を松平に勧めたのは元最高裁長官の石田和外だったそうだが、かれは松平の同県人(福井)だ。

ここにも東北北陸諸藩(維新の負け組み)のアフィニティが見出される。薩摩や長州が「関が原の恨み」をいえば、徳川恩顧の弱小藩は「明治維新の恨み」つまり「戊辰戦争の恨み」をいうわけだ。招魂社(靖国神社)には戊辰戦争の賊軍「徳川方」の戦死者は祭られていない。こんどは何が何でも、というわけだ。

当ブログでは東条英機に対する批判を多数掲載してきたから、合祀問題についてはどう考えているのかと思われた読者もあるだろう。しかし、この問題は書きたくなかった。あえてシナ、半島を利するようなことは言いたくなかったわけである。

それとクズ屋から古紙を拾い集めてくるような文芸春秋、日経、朝日の入手経路の胡散臭い平民出身の侍従たちのメモやら日記の記事がひょくひょく飛び出してくるのを苦々しく思っていたからである。


またぞろ靖国問題3

2007-05-10 11:39:05 | 社会・経済

A級戦犯を合祀したときの宮司、松平永芳氏について。越前松平春嶽の孫だかひ孫という。これが押さえておく第一点。終戦時サイゴン駐留日本軍の海軍部部長、少佐であったこと。これが二点目。暁星中学を卒業して海軍機関学校を卒業している。すなわち軍事官僚であるということ。キーワードはこんなところか。

越前松平は徳川親藩であるが、いわゆる御三家ではない。昭和の政治を牛耳った軍事官僚をみると圧倒的に旧徳川譜代藩出身が多い。秦郁彦君とか現代史、昭和史研究家にお願いしたいのはクズ屋と付き合うのは止めて、昭和時代の有力軍事官僚の地方分布を調べてほしいことである。クズ屋と付き合うとはどういうことか。それは次号以下で説明する。

大正末年、明治維新の元老達が死に絶えると、陸軍、海軍の大将、元帥には薩摩藩や長州藩系はほとんど絶えてしまったことがわかるだろう。薩長派閥の打破というのが昭和の風潮であるが、後に出てきたのも偏っていてほとんどが明治維新で徳川側についた弱小藩の出身者であろう。大将にはならなかったが、満州事変を画策した石原莞爾は会津の人間、東条英機は東北盛岡あたりの小藩でしかも能役者として仕えていたものの子孫だ。山本五十六は長岡の出身である。

昭和の政治を牛耳った軍事官僚はこれまた、非常に偏っている。そして更にわるいことに核がない。あるいは統制がとれていない。官僚がトップになると必然的にそうなる。東条英機などはその軍部の無統制を制御できるのではないかとの「ご期待」で首相になったわけである。

明治維新の薩長閥には元老と言う核があった。かれらは確かに旧藩の武士であったから、下級官僚ではあった。しかし、明治になってから整備された官僚のキャリアパス(武官、文官)に乗って世間をしらずに出世のエスカレーターを上ってきたものではない。むしろ最初から上級武士のキャリアパスを外れていた。彼らのキャリアは官僚機構の枠外で築かれたものである。世間、世界を見るパースペクティブはたしかなものであった。そうでなければ命を落としていたのだから。