東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

年表の楽しみ再び

2008-01-23 16:34:59 | 篤姫

慶応三年の暮れは多事であった。

10月13日 京都二条城会議

諸藩の代表を集めて、徳川慶喜が大政奉還についての意見を聞く。小松帯刀は坂本竜馬とともに大政奉還とその後の徳川を含めた新体制を考えた人物なので最初に賛成を表明した。

10月14日 大政奉還を朝廷に奏上

10月15日 朝廷が大政奉還を許可

10月15日前後に倒幕の密勅が薩長両藩にくだされた(という)。現物はなし、写しなるものがある。密勅を請願したのは、二条城会議で大政奉還に最初に賛成した小松帯刀ほか、西郷隆盛、大久保利通の連名になっている。この関係は種々考量すべきである(結論は出るはずもないが)。請願書のあて先は中山、正親町三条、中御門の三公家になっている。

密勅の発信者(奏上者)は藤原忠能、藤原実愛、藤原経之の三公家になっているが、役職など有効なものか、そもそも本物かどうか断定できない。もちろん写しには御名御璽はない。

一番理解できないのは穏健派の小松がどうして請願をしたのかということだ。ひとつの担保として、すなわち徳川慶喜が大政奉還しなければ倒幕の武力行使に踏み切るということなのか。どうもしっくりこない。

10月26日 小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛らは鹿児島にもどる(汽船あるいは軍艦で)。政局があわただしく、このころは京都と鹿児島の往復は蒸気船が使われたため、現在とさして変わらない時間で往復できた。陸路徒歩で行けば最低でも一月はかかったであろうが。

11月13日 鹿児島から軍艦に兵士3千人を乗せて京都へ出航、同日小松帯刀はやはり軍艦で土佐に向かう予定だったが、急病にて出発できず。土佐で大政奉還後の体制について打ち合わせる予定だった。小松のかわりに大久保利通が土佐に向かう。

11月15日 坂本竜馬暗殺される。

11月19日 京都御所において大政奉還後の政治体制が話される(いわゆる小御所会議)。薩摩代表は家老の岩下と大久保、西郷。大政奉還後徳川を含めた大連立を考えていた小松はいない(排除された)。西郷と大久保は大恩ある小松には頭があがらない。岩下では押さえが利かない。

大政奉還の理論的なブレーンであった坂本竜馬は殺されていない。山内容堂でなくても仕組まれたと思うのは当然である。かって斉彬は藩主になるために自分の父親を幕府に売った。斉彬の子分である西郷が大恩ある小松に一服もって動けなくした可能性は十分にある。

会議にははじめから徳川慶喜は呼ばれず、徳川家の領地没収が一方的にきまる。新政府の役職からも一切排除される。

江戸では西郷の指令でテロが続行される。たまりかねた幕府は12月末にテロリストの巣窟である三田の薩摩藩邸を焼き払う。

この知らせが数日後関西に届くや、慶応四年1月3日薩長が暴発して鳥羽伏見の戦いとなる。西郷の挑発がみごとに成功したのであった。

さて、11月13日の鹿児島出発前に小松が急病で動けなくなったのと坂本竜馬の暗殺はあきらかに連動しており、過激派西郷一派の策謀である可能性が非常に高い。

なお、小松帯刀には明治新政府から維新の功労に対して二千石が与えられたが、小松は謝絶している。拒絶したといっていい。小松は病が回復せず明治三年死去した。


西郷隆盛の強迫観念

2008-01-23 13:03:03 | 篤姫

島津斉彬は安政五年(1858年)七月に急死する。鹿児島で軍事演習に臨んでいるときに炎暑のなかでの無理がたたったのか食あたりだという。疫痢に感染したともいう。

これを西郷隆盛が信用しないんだね。強迫観念というのかな、西郷は毒殺という言葉に過剰に反応する。大体こういうのは自分だったらやりかねないという無意識の性向が反映するものだ。だから相手を非難する言葉を注意深く観察すると、大体相手の本性がわかる。

中国や韓国にたくさんある日本人の残虐さをグロテスクな蝋人形にした展示でいっぱいの「抗日記念館」を見学すれば中国人や韓国人の残虐性、野蛮な本性が理解できるようなものである。

彼らの本性を露呈した想像力のたまものがそこにあるのである。想像力は身の丈を超えないというではないか。

閑話休題 西郷の先輩たちはおゆら騒動でおゆらや久光を毒殺しようと計画している。相手もやっているだろうというわけである。

西郷の固定観念によると、おゆらは和製のカトリーヌ・ド・メディシスみたいだ。フィレンツェの支配者一族でフランス王アンリ二世に嫁いだ。彼女がフランスに香水を教えたことになっている。イタリアから香水の調合師を連れてきた。これが実は毒薬の調合師だったというのだ。

カトリーヌはフランスの政治に介入し、政敵を次々と毒殺していった。おゆらは斉興の愛妾として、むすこの久光を可愛がっただろうが、藩政にちょくちょく口を出したことがあるのかね。まして、毒薬の専門家を抱えていたのか。ちょっとありそうにない。西郷の妄想もここにいたれりという感じだ。


おゆら騒動の可塑性

2008-01-23 09:28:02 | 篤姫

おゆら問題の変遷、その第三ラウンドである。大正末年に皇太子(後の昭和天皇)のお后選びで元老とクニノ宮家の間で悶着があった。右翼というか、壮士というか、院外団というか、そういう連中も双方に分かれて争ったのである。

ほとんどの右翼はクニノ宮側についた。理由はない。元老をやっつけたい一心である。きわめて党派性の強い、低次元の政争であった。

問題の発端は昭和天皇のお后にクニノ宮家の良子姫を決めたことだ。前にも話したとおり良子様はおゆらの曾孫にあたる。祖父は斉彬派や西郷隆盛が忌み嫌う久光である。

大正初めの三田村の作文によって、当初右翼の連中はおゆらの血が皇室に入るのは反対であった。薩摩の西郷派に連なる連中も猛反対である。久光の血が皇室に入るのは大反対である。明治政府を牛耳る一方の長州閥も薩摩の血が皇室に入るのは大反対である。政治バランスが崩れるからである。

その彼らがなぜ掌を返したように婚約賛成に回ったのか。簡単である。長州閥の元老山県有朋が婚約反対を表明したからである。敵の敵は味方というわけで、ほとんどの右翼は一転してクニノ宮側についた。頭山満や北一輝も反山県の立場から婚約を支持した。

「綸言汗のごとし」なんて理屈をつけてね。そして婚約は破棄されなかったのである。右翼側の元老に対する始めての勝利である。敗れた山県有朋は政界を引退して翌年死亡する。明治以来続いていた元老支配の時代が終わったのである。この意味合いは大きい。以後、田舎の百姓上がりの高級軍事官僚が支配する時代となり、政治的には無統制無秩序状態となり、昭和20年の敗戦亡国にいたる。ここに明治維新以来の大業の成果は烏有に帰したのである。

なぜ、山県は反対したのか。クニノ宮家に色弱の遺伝があることがわかったからである。あながち、薩摩の血が皇室に入ることに反対するだけが理由ではない。

ある意味では山県はいうべき疑念を批判をおそれず言ったとみることも出来る。それが自分の義務であるとの自覚があった。それに比べると平成の平沼赳夫はだめだ。なにも言わない。ことは色弱ではない。適応障害とかうつ病の問題である。はるかに深刻な問題だ。だんまりを決めるのはよくない。たとえ結論がどうなるにせよ、彼は責任を果たしていない。

第四ラウンド 金儲けのためのリバイバル 南国太平記

職業軍人の娯楽たる南国太平記