ブラジルのイスラム教寺院で、子どもたちがレバノンで亡くなった人たちへの鎮魂のキャンドルに火を点けている。過去の歴史の中で、ユダヤ人たちは世界各国からこのような、鎮魂を受けていたはずである。幼い頃に、アウシュビッツなどのユダヤ人収容所の写真や報告書などを沢山見 てきた。そのユダ多人たちが”テロ”を理由に、不特定の人たちを殺害する矛盾を解説する論理を私は持てない。自らの国を建国することは、この ような犠牲を当然とするなら、シオニズムそのものに問題があるのではないか。人を殺す宗教など本来存在あるべきもないが、自分たちの歴史から何を学んできたのであろうか。
仏教国日本は、死者・ご先祖様を迎え入れるお盆の季節である。なぜかしら、この時期が終戦記念日に符合する矛盾と、靖国の神道思想が取りざたされることへの報道に憤りを感じる。靖国神社は、太平洋戦争を正当な戦いとし美化する併設の「ユウシュウ」館にこそ、その本質がある。私の父も祭られる靖国神社は、戦争賛美、礼賛する神社である。そこには被害者の存在はなく、軍属以外の「ミタマ」も存在しない。A級戦犯の問題は二の次である。靖国神社は存在そのものが戦争礼賛であるからである。
首相の靖国神社への参拝は、違法性という法治国家の根幹の問題と、戦争への礼賛を併せ持つ意味で決して行ってはならないことである。心の問題は戦争礼賛を意味するものである。戦争とは、人殺しのことである。