そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

そりゃ靖国は安らかないサ

2006-08-28 | 閣議決定

100_0047 苦学して早稲田大学を卒業して、逓信省に勤めていた私の父は通信兵として、1943年に太平洋戦争に応召した。1945年に フィリッピンで戦死したが、出兵前には友人たちと「靖国で会おうと」酒を酌み交わしていたと、母は語っていた。それが、死ぬことを意味するのを、幼子を抱えた若い母は怖ろしい記憶として心に刻んでいた。純粋に国家を想い出兵した父の心を思うと、靖国神社の意味を戦争論とは切り離して考えたい。そうした、多分最も多い一般の兵士、国民の感情として見た場合、靖国神社を失くすにはいささかの抵抗がある。

国家の要請に応じて、無為に亡くなった人たちを「それは意味がないことであった」あるいは「お前らは侵略者だった」と、後の人間として非難し結論付けたくはない。戦死した人たちの、国を想い憂う心情を否定したくはないし、消したくはない。しかしながら、戦後の靖国神社の存在は日中戦争からの16年に及ぶ侵略戦争を正当化するだけでなく、賛美するものとなってしまっている。靖国神社は、A級戦犯をこそっと合祀したり(1978年)、遊就館を再開(1978年)したり「英霊にこたえる会」を結成(1976年)するなどして、徐々にではあるが大100_0048 きく変質したのである。

靖国神社の本質は併設の遊就館にある。ゼロ戦や回天など特攻兵器をを陳列する、ここは設立の趣旨通り、「国防思想の普及」であり、散華の賛美である。日本の行った戦争は正しく、止むを得なかったものであり、日本は欧米から開放するために大東亜共栄圏を作ろうとしたのだと、戦争を国家論や国防論でいかに正当化しようとも人殺しに変わりない。正しい戦争などというものは存在しないのである。

コメント (1)
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